魔術狂時代 沈黙の聖者

あば あばば

沈黙の聖者

「……静かに。もう少し、静かにしてください」

 それが青年の口癖だった。

 彼は静寂を愛していた。この世のどんな人間よりも。自分自身よりも。


 彼には周囲に渦巻く全てが鬱陶しかった。

 人の息遣い。虫の羽音。時計の針。吹き過ぎる風。時には自分の心臓の音さえも。

 単に音が嫌というのではなく、雑念を起こすあらゆるものが嫌だったのだ。

 彼にとって世界はごく単純な器でさえあればよく、それ以上を感じさせるものは全てが雑音だった。大きな雑音は世界を破壊する槌と同じだった。誰かが叫ぼうものなら、それは世界の終わりのようだった。


 学生の頃はほとんど生きることの全てが苦痛だった。いつも耳栓をして、人から逃げ、隠れて生きていた。学友とは筆談で会話し、授業も黒板だけを見て内容を把握した。

 学業そのものは人並み以上の才を見せていたものの、そんな様子でまともに職にありつけるはずもなく、大学の卒業間近の頃にふっと姿を消した。学校にも家族にも、誰にも何も告げず、まるで最初からいない人間だったかのように綺麗に住まいを引き払って、どこかへと消えてしまったのだ。

 数年が経ち、両親も捜索をあきらめた後には、もう誰も彼のことを思い出さなかった。


 彼はその間、浮浪者として街を彷徨っていた。

 まといつく生のしがらみを捨てた途端に、彼は今までにない自由を感じていた。声をかけられることもなく、人からは自然と遠ざけられる。生存するための最低限の行動さえこなせば、誰もいない場所にじっと座り込み、美しい孤独に浸り、終わりなき内面の思索に没頭していられる。

 彼は同業者たちからも不気味がられるほど、何日もろくに食事も摂らず、一箇所から動かず過ごした。誰かが近くに居を構えると、じっと相手を見てお決まりの台詞を言うのだ。


「……静かに。もう少しだけ、静かに」


 その「もう少し」は、いくら物音を控えても到達することのできない静けさだった。どれだけじっとしても、身じろぎ一つで彼の癇に障るのだ。彼のテリトリーを通りがかった子供にまで同じようにして、警察を呼ばれたこともある。

 彼の近くにいると、こちらまで生気が吸われるようだと言う者もいた。珊瑚のように動かず、光合成でもしているのかと言われることもあった。いずれにせよ、彼の耳には入らないのだが。

 ある時、中学生の一団が彼に向かって石を投げた。彼は微動だにせず、頭から血を流しながら人差し指を唇に当てて「しーっ」と音を出したという。彼らはもう一度石を投げたが、そのどれも彼には当たらず、失速して地面に落ちた。


 少しでも煩わされることを避けて、彼はやがて人の寄りつかない廃屋や廃墟を見つけてそこに住み着くようになった。

 彼の住む廃墟にすきま風が吹くと、誰もいない空間に声がするのだという。


「……もう少しだけ」


========


「――それが何年前って言いました?」

「三十五年」


 背広姿の二人の男が、その廃墟の前に立って小声で話していた。

 左に立つのは、無精髭の生えた三十過ぎの男。雨も降らぬのに手には傘を持ち、ステッキのようにアスファルトに突いてクイと斜めに傾けている。


「それから今の今まで、そいつの姿を見た者はいない」

「はぁ……」


 右に立つのは、まだ学生気分の抜け切らない浮ついた顔の若者だ。茶色い鞄を片手に下げて、もう一方の手を落ち着かなげに上着の裾でこする。


「なんか泣けてきますね」

「何がだ?」

「いえ、特に意味はないです。口癖なので」

「……」


 髭の男は舌打ちして、自分の後頭部をさすった。それは彼が不安を抱いている時の癖だ。後頭部にできた小さな禿げが気になっている。加齢のせいなのか、ストレスによる一時的な物なのかどうか。


「防護は万全のはずだが、重々気をつけろ。前に調査に来た者は急に体が重くなって、それから一ヶ月間、手足の痺れが取れなくなったそうだ」

「一ヶ月後に死んだんですか?」

「悪い方に取りすぎだろ。治ったよ。ただ……」

「ただ、なんです? やっぱ何かあるんでしょ?」

「声が以前より小さくなったと。ささやくように静かに……それはまだ治ってない」


 二人はため息をつきながら、廃墟の姿を見やった。


「……帰りたいな」

「それも口癖か?」

「いえ、本心です」


 そう言いながらも、彼は踵を返さなかった。

 お互いにこれが避けられない仕事だと知っている。


「民間人の死者は何名ですか」

「把握しているだけで四名。他にも、届けのない失踪者がここで死んでいる可能性はある。どうしてそれを聞く」

「やらねばならないという気持ちを思い出すためです」


 若者の青い言葉を聞いて、髭の男は小声でくっくっと笑った。


「そんなことは、何も聞かなくても常に心にあるようにしろよ」

「肝に銘じます」

「言葉が軽いな。まあ、いいや」


 髭の男はすうっと息を深く吸うと、ネクタイの裏をとんとんと叩いた。縫い込まれた小さな端末のマイクロホンが、彼の声をこの場にいない仲間に伝える。


「青、赤、それぞれ配置は如何か。……うん……うん、よし。じっとしてても始まらん。そろそろ仕掛ける。合図を待て」


 連絡を終えると、男は懐から一枚の小さな鉄板を取り出した。

 名刺のようにも見えるそのカードは、男が勢いをつけて前後に振った瞬間、バシ!と音を立てて三次元に展開し、何倍もの質量に膨れ上がった。それは特殊な形状記憶金属の塊であり、あらゆる非科学的な事象を遮断するべく聖別された『兜』であった。


 男は黒い背広と不似合いな白銀の兜を頭に被ると、傘の柄をひねって、その奥に隠された刃をすらりと抜いた。


「征くぞ、菊池」


 武装を身につけた男の姿は、まさに死地へ赴く騎士であった。

 その背中を見ながら、菊池と呼ばれた若者も鞄からごそごそと自分の偽装武器と兜を取り出す。水筒に見せかけた折りたたみ式の長槍と、黒い兜。どちらも先達のものと比べて頼りなく思えた。

 それは武装の質のせいではなく、結局のところ武装もただの補助具であり、己の身一つしか頼るものはないのだという実感ゆえだったのだろう。


「……泣けてくるな」


 そう呟いて、彼は兜の暗闇に己の顔を隠した。


========


 廃墟のビルディングは三階建てで、標的はそのどこかに潜んでいる。

 男は白兜の内側に投影されたHUDを見ながら、周囲の環境を確認する。


「赤より報告。サーモグラフに反応なし。動くもの一切なし」


 骨伝導のイヤホンから淡々と、仲間からの報告が聞こえる。

 答えようと口を開いて、違和感に気づく。

「あ」と大きく声を出す。出すつもりで、喉を震わす。しかし、何も聞こえない。

 とっさに片手を上げ、後ろに続く菊池に「止まれ」の合図をする。


<音がない>


 内ポケットからスマートホンを取り出し、タップした文字を菊池の前に見せる。

 黒い兜が上下に揺れ、菊池は確かめるように両手を打ち合わせた。やはり、一切の音が発生しなかった。これもまた、廃墟に潜む者が引き起こしている異常現象の内なのだろう。


 男は努めて冷静に、端末を操作して他の二人へ連絡を送った。彼らの組織は常に四人一組で動く。それぞれの役割を「白/黒/赤/青」と色分けして呼ぶのが慣わしだ。

 指揮を取るのは常に白。白兜を被る者が的確な指示を出さなければ、四人全員が死ぬことになる。


<音が消えた。文字を使う。青はそこで待機。赤、ドローンはどうか?>


 一瞬遅れて、文字の羅列がHUDに走る。


<赤より:ドローン全機、機能停止。屋内一切視認できず。対象の位置は特定できず>


 男はじっと立ったまま、その報告の意味を考える。

 彼らが把握しているのは、この廃墟に近づいた民間人たちが急速に衰弱し、結果として命を落としたということだけ。その裏にある原理も、法則も、この場で自ら見つけ出すしかない。


<ドローンが止まった位置は? その中心を割り出せないか>

<赤より:不可、法則性なし。手動でワイヤー設置?>

<不可。想定より危険度が高い。接近はギリギリまで待て>


 指示を終えてから、背後の菊池と目を合わせる。互いに兜越しだが、意志は伝わる。

 前進すべし。他にとるべき道はない。


 無音の世界へ一歩ずつ踏み込み、その度に視界の全てを確かめる。

 割れた窓。白い壁。テナントの引き払った事務所らしきそのフロアは、壁紙も腐り剥げ落ちて打ちっぱなしのコンクリートばかりが目に入る。

 柱の陰を確かめ、扉の裏を覗く。何もなし……何もなし。


 最も必要なのは相手の位置を知ること。

 物理法則すら歪める者に常人が対抗しうる唯一の方法は、先手を打つことに尽きる。時にはこちらの存在を知られた時点で死に至ることすらある。比喩ではなく、文字通り「死ね」という意思だけで相手を殺すということだ。

 最も、それほど危険な者が表に出てくることは歴史上でも稀だ。大概はこのように、近づいた者を少しずつ、しかし無差別に殺す程度のもの。


 やがて広間の奥に影が見えた。

 傘から抜いた剣を後ろ手に構え、目視した瞬間に首を刎ね飛ばせるように準備する。黒い背広の下、男の腕には筋力を増幅する補助具が仕込まれている。


 ものも言わず、自然と連携をとり左右に分かれる二人。

 しかし一目ですぐにそれは標的ではないと知れた。うつ伏せに床に倒れた男。旅行客の身なり。死体は腐敗していなかった。微生物さえここでは生き延びられない。

 絶対零度にも似た静止の世界。ここは日本の田舎に立つ廃屋でありながら、地球で最も死に近い極地なのだ。


<青、三分で指示なくば降下せよ>


 ふと不安を抱き、離れた場所の部下に先んじて指示を出しておく。三分間のタイマーをセットし、HUDに表示する。

 長く留まれば死ぬ。それを肌で感じていた。


<興奮剤を打つ。心臓が>


 止まる。最後の文を打つ前に、スマートホンとHUDの光が同時に消えた。

 躊躇なく懐からアンプルを取り出して左腕の動脈に打つ。同時に、隣へ来ていた菊池も同じものを打っていた。一時的に運動能力を高める薬品だが、今は心臓を止めないための強心剤として必要だった。

 機械が止まるということは、電源か電子機器が作動しなくなったということ。あらゆる運動エネルギーが静止しつつある中で、薬ごときがどれだけ効くものかは未知数である。幸いにも兜の中から外を覗くカメラは単純な機構と鋼の保護ゆえ無事だった。

 しかし実に奇妙なことだが、こういった異常現象に対してはある程度まで、ある種の精神論が通じてしまう。すなわち意志あるものは無機物質よりも影響を受けにくいのだ。さらに兜による遮断効果が加わり、彼ら秘密の騎士たちは未だ無事にこの極地を生き抜くことができている……とはいえ、それも限界が近いのは明らかであった。


 探索の結果、一階に標的はいなかった。ならば階段を上らねばならないが、この環境下で『上』に登るというのは過酷な作業であった。

 背広に鉄兜の男二人は、動きを止めようとする自分たちの肉体を必死に動かした。脚は冷え切っており、一段ごとに筋肉を叩いて目覚めさせなければならなかった。


 疲労困憊のまま二階へ出ると、白兜の男は指で合図して菊池を背後につかせた。この時点で彼は、自分と菊池のどちらかがここで死ぬことを想定していた。事件一つにつき、一人が死ぬのはそう珍しくない。これだけの危険な相手であれば、一人で済むなら安い方ではある。

 男はそれが全盛期を越し衰えつつある自分であることを願った。キリマンジャロの豹のように死ぬのが夢だった。まさにおあつらえ向きの相手ではないか。


 二階にはさして探す場所はなかった。柱の他には何もなく、デスクや棚などもすでに撤去されていた。床には鳥の死骸がいくつも落ちていた。開け放たれた窓から入ってきて、そのまま死んだのであろう。

 それら死骸の中心に、ぽっかりと広い空虚があった。ゴミや塵すら落ちない場所。

 そのことに気づいた瞬間、男はハッとして上を見た。つまり、そこに『いる』のだ。

 だが、位置を特定しても外に伝える手段がない以上、自分たちで仕留める他はない。この状態で三階まで上がれるのか。幸い階段は近いが、体力はほぼ限界である。

 男は後ろを振り向き、上を指差した。「いけるか?」という問いだ。菊池は少し間をおいて、頷いた。それで意志は通じた。


 三階への階段は、もはや直立して登れるものではなかった。二人は両腕を地に突き、段を這うようにして進んだ。その姿は獣のようだった。


 頂上に着いた時、最初に目に飛び込んできたのは白い日差しだった。

 無風の部屋。凍りついた空気。

 そこに彼はいた。

 立てた人差し指をぴたりと唇につけて。こちらを見ていた。


<静かに>


 テレパシーのように声が聞こえるわけではない。ただその意志が塊として、脳に伝わる。全身の細胞が、その通りにせねばならないと叫ぶ。止まろうとする。静かにあれ。少しでも、静かに。


 終わりだ。そう感じ、男は滑るように前に出た。

 近づけば心臓が止まる。考えれば死ぬ。

 ならば俺がやらねばならぬ。


 全身の力を腕に込め、剣を振るう。横から真っ直ぐ、この静けさの怪物の首を落とすために。意志の中枢である脳を殺すこと。それが唯一、異常現象の発生源――『魔術師』と呼ばれる者たちを止める術だった。


 だが、剣は首に届かなかった。皮一枚に触れる寸前、刃はぴたりと止まっていた。腕の力は萎え、石のように固まっていた。

 静かだった。時の止まった部屋。何もない世界。過去も未来もなく、他人も自分もない。誰も自分を脅かさない。すべての思考が無になり、ただそのままの、純粋な世界だけがある。この、青い日差し。

 彼は美しいと感じた。こんなに美しい瞬間が、自分の人生にあるとは思っていなかった。


 ――ああ、そうか。

 こんな世界にいれば、何もかも煩くてたまらないだろうな。


 そう感じたのは一瞬のことだった。

 透明な心のまま死ぬことは彼には許されなかった。白の騎士は、心臓が止まるまでの数秒間に、正気に戻ってこの状況の不可解さを考えていた。

 菊池は何をしている。俺の腕を少し押せば全ては終わる。それが起きないということはどういうことか。つまり菊池はもう、自分の後ろにいないのだ。

 血潮が脳にたぎり、止まりかけた意識が覚醒する。

 もはや体は動かせない。倒れ込むのが精一杯。ならばどうするか?

 どうすればこいつを殺せる?


 半ば本能に動かされ、彼は窓の外を見た。

 そうだ。三分経った。

 背後に倒れ込みながら、日差しに向けて剣を傾ける。窓枠のアルミに光が反射する。

 その瞬間、廃ビル全体がわずかに揺れた。


 数秒の静けさの後、ごろんと音を立てて、首が床に落ちた。

 心臓がゆっくりと動き出し、兜の中で自分のため息が聞こえた。


========


「白。荒川さん。起きれますか」

「……うん」


 そう返事をしつつ、男はまだ床の上で横になっていた。

 寝そべったまま、声の主である女の顔を見る。兜はつけていなかった。繊細な声とは対照的にがっしりた体格の彼女は、『青』と呼ばれる武力担当の騎士である。

 彼女は白の指示に従い、隣のビルの屋上から降下――つまり飛び降りて、空中から廃ビルの三階を横から真っ二つに斬り、魔術師を仕留めたのだ。


「菊池は?」

「階段で。蘇生は無理でした」

「そう……ありがとう。とにかく、助かった」


 手を差し伸べられ、男はようやくそれを掴んで身を起こした。階段は見ないようにした。

 部屋の中心にはミイラのようにかさかさに乾いた死体があった。首と、人差し指の伸びた手が綺麗に切断されて落とされていた。


「時間ぴったりに合図くれたおかげです。お見事でした」

「偶然だよ」

「え、本当ですか?」


 冗談めかして苦笑いしつつも、眉をひそめる女の顔にはぞっとしない寒気が混じっていた。タイミングが数秒ずれていれば、彼女も沈黙の世界に巻き込まれて死んでいただろう。

 彼女の大太刀は電磁駆動にジェット燃料を用いた一度だけの切り札であり、振り切ってしまえば継戦能力はない。だからこそ、事前に正確な位置を知る必要があったのだ。


「回収は赤が呼びました。我々の仕事は終わりです」

「ああ。お疲れ様」


 青に肩を支えられながら、男は廃ビルから外へ出た。

 途端にみぃみぃじわじわと蝉の鳴き声がうるさく聞こえてきた。


「そうか……夏だったか、今は」


 来る時には気にも留めていなかった無数の音が押し寄せてきて、思わず耳を塞ぎたくなる。廃ビルで味わった静寂と比べて、なんと醜く混沌とした世界であることか。


「……泣けてくるな」


 男は少し迷った末、その騒々しさを受け入れて、とぼとぼと歩き出した。


(おわり)

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