銃後の獄鬼は涙する

燈夜(燈耶)

銃後の獄鬼は涙する

俺は士官学校卒の初任官となる。

親が軍上部の有力者のせいか、前線ではなく後方に送られた。軍関係の仕事らしいが、詳しいことは知らない。


この国ではよくあることだ。秘密主義、というやつである。


と、おっと。今到着だ。

汽車が俺を任地に誘う。

列車から降りて、俺は確信する。

車窓に流れ込んでいた空気の生るるさと独特の匂い。

先ほどと違う、石炭とは異なる匂い。

腐った汚物──人の垢や人糞の、そして硫黄の匂いだ。

ちょっと耐え難い。

その流れてきた方向。

そこには鉄格子がしつらえてあるくすんだ、何棟もの建物がある。

そう、そこが俺の任地だと、迎えの兵士が教えてくれる。


俺の第一印象は『外れ』である。

酷い田舎。

しかしまあ、前線で死と隣合うように戦うよりはマシであろう。

父母に感謝しなければ。


だが俺は。

そこで目撃したのだ。ある光景を。

見た瞬間、俺の頭は怒りで沸騰した。

施設の周りで瘦せこけた人々が、穴を掘っては埋めている。

初めは何をしているのかわからなかった。

だが、子供も女性も老人も、一様に襤褸を着て作業している。


──何をさせているんだ軍は!


怒りで血が沸騰する。

俺は迎えの下士官との挨拶もそこそこに、玄関に停めさせると兵士らを押しのけて走る。

そして、走りながら聞いた。

見えたのだ。

俺は叫ぶ。


「本局はあの建物だな? 所長室はどこだ!」



俺は『所長室』とプレートが下がる、少々高級な扉を押し開け叫ぶ。

息切れなどしない。

士官学校の訓練はまさにハード。生き地獄だったのだ。


「所長!」

「なんだね?」


樫の木のテーブルの奥、どっぷりと太った豚が言う。

驚いた様子もなく、実に静かに。

これが所長か、と思うより先に俺はその存在に言葉を叩きつける。


「ああ、君が後任の少尉か、待っていたよ」


と、豚が笑顔。


「は! 本日ただいま着任しました! しかし所長殿、小官のことなどという些事よりも、小官はあなたに尋ねたいのです。お許しいただけますでしょうか!」


「外にいる者、建物に押し込められている者。あの者たちはただの市民ですね? なぜ収容など! なぜあのような目に?」

「命令だよ。上層部の決めたことだ」

「どのような命令かお伺いしても?」

「ふん、軍学校を出たばかりの新任少尉にしては、教育がなっとらんな」


豚が鼻を鳴らす。


「まあいいだろう。ただ、君に忠告だ。君はまだ若いからかもしれんが、自らの命こそ大切にしたがいいぞ? 親御さんが泣くぞ」

「な! 所長、あなたは全てわかっていて!」


そうとも、こいつは全てを知って!

俺は拳を握り締め、鉄の意志で感情を殺す。

それが、軍隊なのだ。

上の命令に逆らう道理はない──それがどのようなクソな命令だとしても。


「話はそれだけかね? 私は忙しい。君は一度、頭を冷やすことだ。そして軍学校で学んだことを思い返すといい」


豚は話を切り上げようとする。実に興味なさげにだ。


「所長! 小官押し込まれたいかね? 政治犯や思想犯も不逞市民の中にいるのだよ? そして、私のサイン一つでそういった輩をあの建物へ送り、処分する権限もある。少尉、君もそうなりたいかね?」


俺は悟る。

そう。この豚は、何を言っても無駄な種類の人間なのだろうと。

だから俺は。


「……いえ」

「そうだろう少尉、それでいいのだ少尉。私の話は終わったよ。君ももう私に話はないだろう? さあ、出て事務所へい行きまえ。君の部下たちが待っているはずだ」

「は!」


俺はつい殴り掛かりそうになるも、今回も心が行動を押しとどめた。


──豚め。


敬礼。


「戦局は悪い。銃後での反乱の芽をつぶすのが、私たちの使命と心得なさい。わかったね?」

「……はい」


この国は負ける。

俺はこの時、なんとなくそう思った。



「ハッハハ、秘匿回線で聞いてましたよ? 早速所長に絞られたようですな! 先任も苦労なされていた」

「そうか、曹長」


俺は木の香りのする部屋で、詰みあがった書類とともに古い机の影にいた。

秘匿回線の盗聴?

この施設のモラルはいったいどうなっているのだ?


「曹長、さっそく聞くが、この施設はなんだ?」

「あなたも所長も小官らも、何も見ず、聞かず、知らず、ただ命令のまま作業に当たっていた。──それでいいじゃないですか」

「な!」


予想していたとはいえ、下士官も同じなのだ。あの豚と。


「世界にはいらない人間が多すぎるんですよ。いらない人間というのは、私たちの敵と潜在的な敵、そして裏切り者の三つです」

「ここへの引き込み線は終着駅なのですよ。ここへ来た人間で、外へ出ることができる者。それは軍属だけです」


 俺は両拳をこれでもかと握りしめ、曹長に尋ねる。

 冷静に、冷静に、冷静に──。


「君たちは、それを知っていて?」

「軍務ですから」


 と、さも当然そうな顔。


「人道に反していてもか? 戦争犯罪だぞ!」

「命令に従うだけです。それに、ばれなければいいのです。開戦から五年間、この施設から無事に出られた軍属以外の人間はおりません」


 俺は頭の芯に痛みを感じる。

 軍人の責務は命令に従うこと。

 だが、この施設に下された命令はどうだ?

 彼らが掘っていた穴。あれは彼ら自身が入る墓穴を掘らせられていたのではないのか!


 俺は自問する。

 体中の血が煮えたぎる。

 そうとも、こんなこと、許されるはずがない!

 ここに正義などない!

 あ、顔に出ていたか?

 曹長が俺から視線を外して独白を始めた。


「少尉、小官の独り言だと思って聞いてください」

「なにかな?」


 俺は怒りを鎮めるのにやっとだ。

 怒りを抑えきれた自信はない。


「先任の少尉──少尉の前の私どもの上官ですが、二週間も持ちませんでした」

「? どういう意味だ?」

「事故ですよ、ちょっとした事故。表向きは収容民からの意図せぬ暴力です。困ったものです。しかし、彼らが街で暴れなくてよかった。そして同時に、彼らは私たちにとって危険で、収容しておかねばならない、引いては処分しなければいけない──そう、彼ら自ら証明してくれたのです。自分たちが危険分子だと」


 よく回る舌だ。

 俺は曹長になおも聞く。


「その話は本当だろうな?」

「もちろんです。でも少尉、あなたはできる限り長く、この任地で勤め上げてほしいと願っていますよ? ええ、小官の本心です」


 俺は、生き地獄を出、本当の地獄、その獄卒になるよう上官から命令されていたらしい。

 俺は歯を食いしばる。


──俺は、俺は……決して人殺しにはならない。



「少尉。所長も酷いですね」

「……」


所長から厳命は、とある政治犯を処理することだった。

俺の初めての仕事である。


「元高級官僚です。配慮、という政治判断でしょう」


それがどうした。

俺が頼まれたのはその人を銃殺すること。

刑でもなんでもなく、ただの派閥争いからくる粛清の片棒を担ぐことである。

気が重い。

やってられない。


俺は射撃の腕は得意なほうだ。

一発で苦しまぬよう、やるだけ。


俺は狙撃銃を受け取る。

黒鉄の輝き。人殺しのための道具である。


色々と思うところはあるが、俺の権限ではどうもしようもない。


俺は銃を構える。

目隠しをされた政治犯に銃口を向け、狙いを定める。


──そして。


銃声一発。

政治犯は、すぐに首をうなだれた。

さるぐつわでもかませてあったのだろう。

言葉一つ発しなかった。


思うのだ。

暗い任務である。

人を撃つのは嫌なのだ。

俺は殺人狂ではない。

できれば今後は御免願いたい。


と、思った瞬間。

熱いものが俺の喉を駆け上がる。

苦い。

胃液であろう。


ああ。そうとも。

坊ちゃん育ちの俺に、殺しは向いていない。

ここは前線でなく後方、安全なはずなのだ。


なのに、どうして俺は今日も人を殺している?


どうしてこうも、生と死が近い?


──わからない。

わからなすぎる。


「なあ、曹長」

「はい?」

「俺は嫌だ。もう殺しの命令など受けたくない」

「──聞かなかったことにしておきます」


 俺は言葉を荒げる。


「俺にこれ以上、この手を汚せというのかッ!」


 叫んでいた。

 曹長は驚いてもよさそうだが、そんな彼はこんなことを言う。


「少尉。何をいまさら」

「なんだと?」


俺は曹長を見返す。


「少尉、あなたはもう、敵を銃で屠ったのです。もうあなたの両手は彼の血で……いえ、囚人の血で真っ赤ですよ」


風が俺と曹長の間を吹き抜ける。

俺は知らず涙していた。

そしてそんな俺は曹長を見る。


──真顔だった。


ああ、頭が痛い。

吐き気がする。

頭が。

胃が。



俺は部下をつれ、収監者の棟に入る。

とはいっても、曹長の先導するまま、いわれるままに軽作業をするだけなのだが。


冷たいコンクリートの打ちっぱなしの壁には、赤いボタンが等間隔に、横一列に並んでいた。


「少尉、ボタン押しをお願いします」

「君らは?」

「少尉がボタンを確かに押されたことのダブルチェックと、収監者に異常がないか、それの確認が小官らの仕事です」

「そうか」


俺は毎回、曹長に尋ねていた。


『押さないといけないのか』


と。


聞いても無駄なこと、そして押さないと小銃を上官である俺の背中に向けた部下の促すまま、俺は毎回、赤いボタンを押して回っている。

むろん、今回もなのだが。


「このボタンを押す意味は?」

「もちろん、わが同胞に銃を向ける敵性民に対し、教育をして回っているだけです。立派な仕事ですよ、少尉」


 ──ガス。おそらく致死性の毒ガス。

 そうなんだ。

 俺にはわかっている。このボタンを押す度に、俺は自ら地獄へ足を踏み入れつつあることを。


「どうされましたか? 早くボタンを押されて下さい」

「し、しかし」


 俺は今日も無駄な抵抗。


「作業に十五分の遅れが出ています。早くしないと我々の終業時間に間に合いません」

「大丈夫なのか、君たちは」


 俺は後ろを振り返る。

 下士官の小銃の銃口が鈍く煌めく。


「さあ、少尉。……早く赤ボタンを押して回りましょう」


 そういう曹長の目には、一点の曇りもなく。

 迷いの影など微塵も見つけられなかいのである。


 ◇


この施設へ来て日も浅いころ、その事実を悟り、俺は泣いていたことがある。

もちろん、今でも心の中で泣いているが、涙など出るはずもなく。

そんなものはとっくの昔に乾ききっていた。


そう。


間違っている。

間違っている。

間違っている!


俺は固い寝台の上で、むせび泣く。

その固い寝台すら与えられない収監者のことを思いつつ。


間違っている。

こんなこと、軍人の仕事……いや、人間として行っていいことじゃない!


『大丈夫なのか君たちは! 君たちは正常なのか、それでも同じ人間か!?』


ああ、夢の中でさえ俺は問うている。


『彼らはいらないのですよ。生きながら死んでるんです』

『何を馬鹿な!』

『少尉こそ何を仰ってあるのです。それとも赤いボタンですか? あのボタンなら少尉も何度も押されたでしょう。少尉、みな同罪ですよ。もちろん、実行犯は少尉ですがね』


──と。


俺はそうして、知らぬうちに。

そして静かに人殺しの道を歩まされていたのだ。


手を汚した俺が正義など唱えても、今更何の意味がある?

そうさ。

今の俺は、ただの人殺しだ。



『あんたは違うと思ってた』

『あんたも前任と同じだ』

『何人死んでも変わることはない。あんたらの仲間は、俺たちの仲間を狩り出すのが得意だからな』

『まあ、待っていろ。俺たちの次はお前らだ』


と、俺の視界は真っ赤な血に染まり。

手が、手が、手が、多くの血に濡れた赤い手が俺へと伸びて。

逃げても逃げても、その手は俺を追ってくる!!


俺は聞く。


『執行をためらう、あんたの噂を聞いて、あんたなら俺たちを助けてくれると思ったのに!』


そして俺の耳に焼き付いた声はこうも言う。


『さあ押せ、ガス噴射スイッチを! さあ撃て、銃の引き金を! さあ刺せ、毒薬の注射針を!!』


ああ、あれの頭に、頭に、頭に声が、あの者たちの声が次々聞こえる!!


「ぐぁああああああああ!!」


俺は固いベッドから飛び起きた。

朝。

士官である俺にあてがわれた私室。

はあ、全く今日の目覚めも最悪だ。


だが、この施設に収監されている死を約束された人々に比べれば、何倍とましなのか。

何せ、命はあるのだ。

たとえ、心が壊れても。


そう、こんな地獄とも思える待遇も、収監者のことを思えば何のこともない。

天と地の待遇だ。

片や生。片や死。

ここは地獄、地獄である。

絶対的な境界線。


地獄の底はまだ先だ。

この程度、まだまだだと俺は思う。


そう。

誰が何と言おうと、俺も豚どもと同罪だ。

俺が悪くないなど一言も言わないし言わない。


そう、間違いは正されるべきなのだ。

そしてそれは、いや、それこそが俺の責務でありこの施設に任じられた俺の責務なのだと思うのだ。



日々が過ぎてゆく。

俺が直接手を下さずとも、俺のサイン一つで収容棟の人々の処分が毎日のように、いや、時間を争い奪い合うように処理が続き。

ああ、俺も殺しに慣れてゆく。

そう、俺はすでに人殺し。

しかし、それでいて自分の行為の恐ろしさに手が震え。

そして耳から離れない、曹長のあの言葉。


『少尉、少しはここのやり方に慣れましたか?』


との、ニヤニヤ笑いを浮かべたあの顔が。


『この人殺し』


と幾度収容棟の人々に罵声を浴びたか。

だが、今では俺は、そんな細かなことに一々気を回すこともなく。


俺は静かに、ゆっくりと何も感じなくなっていた。


……表面上は。


いや、しかし?

何名の視線を受けただろう。

『助けてくれ』との視線を。

そして助けを乞う言葉を。


俺は気づけば涙を流していた。


ああ、そうとも。

このままではいけない。

このままではいけないんだ。


そう、この涙は収容され、無残な運命を迎え迎えた無実の人たちのため。

知らずと痛む、俺の頭。

そして時々痛む、刺すような胸の痛み。

そして腹痛が追い打ちをかけるのだ。


医者に診てもらったが健康そのもの。

と、言うことは。


──そう。

俺の心が泣いている痛みなのだろう。



最近、敵機の影をよく見る。

この施設は後方の立地のはずであったが、それ今は昔。

ついに俺の故郷も近いこの空も戦いとは無縁ではなくなったらしい。


だが、俺が手を地に染めて回る毎日は何ら変わらない。


殺し殺し殺し。

毎日毎日、それの繰り返しだ。

ああ、吐き気がする。

自分自身に吐き気がする。

俺は鬼となって無実の収監者らを殺す。

彼らのことを思いつつ、自分の罪深さに懺悔しつつも涙を流してまた殺す。


殺し殺し殺し殺して俺は自らの行いに救いを求めてまた殺しつつ神に祈る。

だが、血にまみれた俺の声が神に届くことはない。


その理由は簡単。

俺の両手が罪なき人の血で真っ赤に染まっているからだ。


狂気の処刑の、実験の数々。

無実の彼らにそれを与えた俺に誰が救いを与えるものか。


俺は部下である曹長らに囚人──無実の収監者を差し出す。

俺が死神が誰の前に舞い降りるのかを決めて渡す。

ああ、そのたびに心臓が痛むのだ!

俺は罪人。


ああ、頭が痛い。

そう、俺の心はすでに人ではないのかもしれない。

そうとも。今の俺はただの殺人鬼だ!


──だが、それでもなお。


俺は救いを求めて光に両手を伸ばす。

光を探す。


ああ、この地獄を終わらせるためには。


──って!


俺は閃いた。

気づいたのだ。

やはりあの日の気づき。

それは間違いではなかった。


そう、俺自ら本当の鬼となり、同胞殺しの汚名を着よう。

そうとも。そうだとも。


──そのために、今の俺が生かされているのだ!


ああ、神よ。私にあと一握りの勇気を。

俺は一枚の歯車。

いや、そうとも。

今こそ俺は歯車でいる自分を拒否しよう。

自分を切り離し、この人殺しの巨大装置を破壊しよう。


俺は俺自身の手で、この地獄を抜け出し、彼らに光を返すのだ。

希望という光を収監者に返す。


そうとも。


──俺がやらねば誰がやる?



誰の目にも敗色濃厚な祖国を感じ得ない、そんなある日。

俺はあの豚、所長に呼び出されていた。


「君か。敵が来る。書類の焼却は終わったかね!?」


 豚が部屋の中をころころと動き回っている。

 どこか必死なのが、笑える。


「終わったら次は、あの収監者共の棟へ戦車砲ので榴弾をたらふく食わせた上で、あの棟の地下に埋めてある2トン爆弾を起爆しろ。全てを粉々にするんだ」


 俺はどこかため息。


「所長」


 と、気づけば呼び掛けていた。


「どうした君、早く動かないか!」


 豚が唾を飛ばして短い手足をぶんぶん動かす。


「所長、あなたは」

「君! 時間がないんだぞ! わかっているのか!! はやく、早くしないと私は戦争犯罪人として裁かれてしまう……!」


 豚は吠えた。

 俺は所長に背中を向けて所長室を立ち去る。


 戦争犯罪人? どの口が言うか。

 と、窓の近くに鳥が。

 白鳩。

 実に美しい、と、俺が思ったその時。

 俺の頭の中に天啓が降りた。

 そう、今だ。今がその時だ。今以外に、いつその機会が?


 俺は上着の下に吊るした拳銃の冷たさを確かめる。

 そして、生唾を飲み込み、銃に手をかける。

 

「き、君!」


 所長は俺を見ていた。


「何をする気だ!」


 と、所長は机の引き出しを探り始めるも、ぐちゃぐちゃな書類や小物が邪魔をしている様子が見える。


 俺はその情けない所長の姿をただ見つめ。


「所長。あなたは断罪されるべきだ」


 言った。俺はついに言った。

 そうとも、俺は心を決めたのだ。

 ああ、決心するまで長かった。

 そうだな、もっと早く決断していれば。


 ──もっと多くの彼らを救えたかも……いや、無いな。


 上が方針を変える訳がない。

 まあいい。

 もう決めたことだ。


 ああ、世界が赤い。

 そうか、俺の目が充血してるだけか。

 ふん、怒りも程度を通り越すと、真っ赤な血が逆流するのかもな。

 俺は所長に別れの言葉を吐きつつ、銃をゆっくりと取り出し。


「所長、あなたの罪は最も重い」


と、俺は銃口を所長に突きつける。


「ひいっ! ま、待て少尉! 狂ったか少尉!!」

「私はあなたを撃って自由になる。心のまま、良心に従い、まずはあなたを断罪する!」

「お前も同罪だ少尉!!」


豚が吠える。

その言葉に俺の頭に再び血が上る。


「所長、あなたが小官にさせたことだ!! 俺は人間だ、鬼でも悪魔でもない!!」

「ま……」


俺の拳銃が火を噴いた。

瞬間、俺の手によって眉間を撃ち抜かれた所長が崩れ落ちる。


やった、ついにやった。

俺の頭が冷えてゆく。

激しかった鼓動が静まりつつ。

そして今は、ゆっくりとした俺の呼吸音だけが所長室に響いて。


「……悪は滅びた。あとは、悪となった自分に始末をつけよう」


俺は呟く。


「そうさ、今の俺は邪悪の権化。善悪を言葉にすることすらおこがましい」


俺は俺のこめかみに、自分の銃の銃口を添える。

かすかに震える、銃を握りしめた手のひら。

起こす撃鉄、引き金に充てる指。

そして俺は。


──引き金にかけた指を引く。


再び轟く銃声。すさまじい痛み。


「──母さ……ごめ……」


俺の脳裏に最後に浮かんだのは、士官学校を卒業し、この施設に任官して以来会ってない、優しくも強かった母の面影だった。



暗い一室。

裸電球が一つ。

粗末な木製の机が一つ、そして椅子が二つ。

明かりを押し付けられた曹長は早々に自白した。


「知らねえよ、俺は上官の言うまま言われるままにあの施設で働いていただけだ。この手を血で染めたこともない」

「減らず口を!」


敵国……いや、今では占領軍の憲兵が曹長を殴る。

その勢いに曹長は吹き飛び床に転ぶ。


「アハハ、ハ、あのな、俺を尋問しても何も出ないぜ? 本当に俺たちは上の命令にただ従うだけのロボットだったんだ。あの施設で本当は何が行われたのかなんて、詳しいことは知りはしねえ」

「それで?」

「俺らは毎日、殺人狂でイカレた上官の尻ぬぐいと、書類整理に追われていただけさ」

「嘘をつけ!」

「本当に本当さ、俺らは……いや、俺らこそが頭のイカレタ戦争狂の政府と、馬鹿と紙一重の学者や医者に囲まれて、牛馬のように働かされて!」

「はあ?」

「そう、そうさ、俺たちこそが体制の被害者なんだよ! 間違った指導者にただ踊らされた、無垢な人民、それが俺たちの正体さ!」

「黙れ!」


 起き上がりつつあった曹長の体が、憲兵の容赦ない蹴りに吹き飛んだ。


「このゴミくず共が! 本当にお前らの話を聞いていると吐き気がする!」


 憲兵は立ち上がる。


「そうやって自己保身を常にするんだな、『俺は悪くない』、と」

「へへへ、やっとわかってくれたかい、憲兵さん」

「違う! 俺たちをお前たちと一緒にするな! 仲間さえ売る下種が!!」

「いやいや、戦犯は佐官以上。俺はただの兵卒さ」


 憲兵は再び蹴りを入れる。

 むせる曹長に構わず。


「くそ、あの施設の上層部は自決、兵はこの通り。全く、全く狂ってる」


「あ、はは、そうだぜ? 俺たちは狂っていたかもしれない。だがな……」

「どうした、お前はもう釈放だ」

「あ? ありがとよ」

「お前のほかにも尋問対象はごまんといるんだ。お前のような屑に時間をこれ以上かけても無駄だ。ただそれだけだ」

「ふう、本当に釈放か」

「もう、血が流れるのは沢山なんだよ、この人殺し!!」


憲兵は煙草をといりだして火をつける。


「──ただ、これだけは言っておく」


憲兵は煙を吐きつつ真顔で曹長を見つめる。

煙が曹長の顔にっかった。

むせる曹長、そして引き締まる憲兵の顔。

曹長は見る。

憲兵は曹長の髪を握ったかと思えば自分のほうを向かせ。

そして曹長の目を見て言うのだ。


「俺たちはお前たちの失敗を繰り返さない」

「あ?」

「それが、お前たちとの今回の戦争の戦訓だ」


その言葉に曹長は目を丸くしつつも口を噛み締め、一言優しく吐き出す。


「そうかい? 俺にはわかるぜ。勝った陣営が正義。ただ、それだけのことさ。俺が予言しておいてやる。きっとあんたらも俺たちと同じ過ちを繰り返すことだろうよ」


憲兵が曹長の髪を放すや、その頭を激しく床に叩きつける。

呻く曹長と退室する憲兵。

床に転んだ曹長は、憲兵が扉から出て部屋を後にするのを、頭を左右に振りつつ咳込みながらも、ただ恨めしそうに見つめていたのである。




『銃後の獄鬼は涙する』 END



 





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