彼方者

薮 透子

彼方者

 目を開ければ、光のない黒い瞳と目が合った。


 しっかりと映し出された僕の顔は、寝起きと驚きが重なってずいぶん間抜けな顔をしている。小動物を思わせる丸い黒は、少しも動くことなく、僕を見ていた。瞬きという概念のない瞳だ。

 ベッドに僕以外の何かが入り込むことなんて、無いと思っていた。それは人のことでもあり、動物のことでもあり、その他もろもろも含まれる。だから、開眼一番に視界に入ったそれは、普段なら有り得ないものなのだ。

 子供のぬくもりを知らない毛並みは、綺麗だった。特注で作られたと聞いた体は、中身を表しているのだろうか。


 昨日購入した、そう、僕が購入したそれは、誰かに贈るものではない。確かに自分のために購入したものだ。この年になってぬいぐるみを購入するとは思わなかった。幼い頃でさえ触れたことのないそれは、いつもショーウィンドウの向こうにいた。

 目の前にいるそれは静かに僕を見ているだけだ。


 被っていた布団をてきとうに端に寄せる。ゆっくりと起き上がれば、背後から声がした。

「……お願いが、あります」

 購入してからずっと、ぬいぐるみはそう言っている。

 録音されたボイスが流れているのかと体を確かめてみるが、中に機械らしきものが入っている様子はない。さすがに切り裂いてまで中を見たいとは思えず、体を外から押さえつけるに留めている。体のどこから声が聞こえているのかも分からない、不規則に発せされる言葉は、僕の声にはもちろん反応しない。


「おはよう」「生きてる?」「なんか言った?」「痛かったら言って」

 いくら声を掛けても、ただのひとりごとに終わる。

 話しかけても返事のないものに声を掛け続けることは、仏壇に声を掛けることと似ているように感じた。



 ふと脳裏を過ぎった言葉は、昨日の店員のものだった。

「ここでは、死者の記憶が買えます」


 並べられたぬいぐるみを差しながら、彼はそう言った。さまざまな動物を模して作られたぬいぐるみが並べられた空間は、僕には不釣り合いだった。もちろんこの店員でさえ、笑みを浮かべてはいるものの馴染めていないように見えてしまう。

 そう、ぬいぐるみではなく死者の記憶を売っていると言ってもらえれば、多少は彼に合った店だと思えるのだが、次に引っかかるのは死者の記憶という言葉だ。


「死んでしまった者の記憶は、魂と共に黄泉の国へいってしまいますが、死んだ後に記憶だけを引き取っています。記憶に触れれば、その人の生きた道を見ることができるのです」

 店員は続ける。「それをドラマだとか言うと批判を買うかもしれません。ですが、実際ドラマというのは人間の生き様を描いたものです。作り物よりもよっぽど面白いと私は思いますよ」

 淡々と言う店員に奪われてしまったように、言葉が出ない。その間にも店員は口を動かす。

「それに、記憶だけではありません。それには感情が付いている。記憶を通して感じる想いには、きっと特別なものがあります」


 柔らかな笑みを浮かべる店員、その後ろにいるぬいぐるみと目が合う。どこかを見ているわけではないはずなのに、それは僕をじっと見ているような気がした。


「よろしければ、お一つどうですか?」


 ぬいぐるみと同じ、黒い瞳。奥底を感じさせない闇が、言い知れぬ危機感を覚えさせた。興味がないわけではないが、信じ難いことでもある。過ぎったのは押し売りや詐欺の類で、結局口車に乗せられて終わるのではないだろうかと疑ってしまうのは当然のことだろう。


 面倒なことに巻き込まれるのはごめんだ、そう思い口を開きかけた時。

 ぽすり、と何かが落ちた。


 そちらに視線を向ければ、並べられていたぬいぐるみの一つが、床に転がっていた。微かに揺れるそれはうつ伏せで、まるで顔をぶつけて悶えているようにも見えた。視線はそれに集まる。

 沈黙を破ったのは、店員だ。彼の、何かに気づいたような短い微笑みが鼓膜を刺激する。視界に現れた店員は、ぬいぐるみを手に取った。


「今回は特別です」そう言って、ぬいぐるみを差し出す。「一週間、この子と一緒に暮らしていただけませんか?」

 間抜けな声が店内に落ちる。柔らかく微笑む彼から視線を下ろせば、ぬいぐるみがこちらを見ていた。彼と同じ、黒い瞳。しかしそこに光は無かった。綺麗な毛並みやゴールデンレトリバーを思わせる色合いから、丁寧に作られているのだと思わされる。だからこそ、そこに付けられた黒い瞳はより存在感を増している。黒が黒であっても、まるで色が無いように思えたからだ。


「一週間だけなので、お代は結構です。この間に傷付けてしまったとしても、弁償は必要ありません。貴方にとって、損にはならないはずです」

「そうかもしれませんが、」

「この子もきっと、貴方とお話をしたいと思っていますよ」

 そう言われ、ぬいぐるみに目を向ければ、右手をちょいちょいと左右に動かした。後ろで店員が動かしていることは明白だ。


 どこか惹かれるものがあった。本当に死者と話をすることができるのなら、なら──。

 気づけばぬいぐるみを受け取り、店員に見送られていた。沈みかけた太陽が照らした店の看板は、眩しくてよく見えなかった。


 あれから何度も話しかけているが、ぬいぐるみが発する言葉は変わらない。説明書も渡されず、普通は販売されていないもののため、調べようにもそんなものはヒットしない。試行錯誤するしかないと思いつつ、話しかける以外に方法は思いつかなかった。

「名前は?」「覚えていることある?」「何歳?」「いつ死んだの?」

 手当たり次第に話しかけては、しばらく待ってみる、の繰り返し。返事の代わりに聞こえたのは、外から聞こえる笑い声。たかがぬいぐるみに真剣に向き合っていることが虚しくなり、ぬいぐるみをベッドに放る。

 テレビを付ければ、先日発生した水難事故を伝えてくれた。肺が海水で満たされ、意識がぼやけ、沈んでいく。視界が暗くなるのは、海の中に沈んで光がないからなのか、視界が滲んでいるからなのか、どちらなのだろう。もしかしたら僕が知らないだけで、死の直前は視界が明るくなるのかもしれない。

「……死ぬって、どんな感じなんだろう」

 生きているうちに一度は経験するが、それはいつも人生の最後。死んでしまえば全てが終わってしまうから。これはいつまで経っても命題にはならない。


「……お願いが、あります」

 ぬいぐるみが言った。

「娘に会わせてほしいんです」

 ぬいぐるみが言った。

「六歳の娘です。一目だけでも」

 ぬいぐるみが言った。

「大きくなったところを、見たいんです」

 ぬいぐるみが言った。これまでとは違った言葉を、いくつも、いくつも発した。






 口を動かさずとも声が聞こえてきているが、声はちゃんと口から聞こえていた。

 それは、片山と名乗った。話が通じるかと言われれば半分しか頷けないが、相手はぬいぐるみだしそもそも死者だ。そう考えれば多少は受け入れられる気がする。

「今年六歳になる娘がいます。小学生になりました。ランドセルは青色が良いと言っていました。小学生になった娘を一目見たいです」

 ぬいぐるみの声から性別を判断することはできない。男性とも女性ともとれる声なのは死者そのものなのか、それともぬいぐるみだからなのか。

「……それは、つまり、未練と言うことですか?」

「私は二年前に事故で死にました。娘を一人置いてきてしまいました。もっと一緒にいたかったのに私は。私は。こんなにすぐに死んでしまうなんて」

「貴方が死んだ後、娘さんは一人ですか?」

「娘が二歳の時に離婚しています。私の両親は早くに亡くなりました。弟が一人いますがしばらく連絡を取っていません」

「じゃあ、施設に入っている可能性もなくはないわけですか」

「一目。一目だけでいいんです。大きくなった姿を見たいんです」


 ぬいぐるみとの会話は、人と話しているような感覚ではない。録音されたテープを僕の質問に合わせて再生しているようだ。そう思えば、ところどころ質問の答えが噛み合わないのも頷けた。

 店員の言葉を思い返す。──死者の記憶を見ることができる。死者と話すことができる。

 これを〝話せている〟に分類していいものなのか疑問だが、言葉に対して言葉が返ってくるようになったので、返事がなかった時よりはましだ。記憶を見ると言うのはつまり、死者から話を聞いてそれを汲み取る、ということなのだろうか。


「お願いがあります。娘に会わせてほしいんです」

「娘さんに会ったらどうなりますか? 成仏して消えてしまうことはありますか?」

「一目見るだけでいいんです。あの子の笑顔は向日葵のようです。本当に。眩しいくらいに。死んでしまっても空からならあの子のことを見つけられると思います」


 ──ここにあるのは記憶だと、店員は言った。

 記憶と魂の違いは何なのだろうか。魂の中に記憶や感情や人そのものが含まれているのならば、ぬいぐるみの中にあるのは記憶だけで。では、記憶のない魂が天国へ行ったところで、娘のことを思い出せない彼もしくは彼女──片山さんは、空から娘を見守ることは現在できていないのだろうか。

 ただ静かにお茶をしているのかもしれない、知り合いと久しぶりの再会を楽しんでいるのかもしれない──、記憶が無ければ、再会にも気づけないか。


「娘さんに会いたいんですよね」

「一目見るだけでいいんです」

「娘さんに会えば、成仏できますか?」

「ランドセルは青色が良いと言っていました」

「娘さんのところへ行きます」返事はなかった。「僕が貴方を娘さんのところへ連れていきます。だから、どこにいるのか教えてください」

 沈黙に落ちた言葉を、ぬいぐるみは拾ってくれるだろうか。しばらく返事をしないそれをじっと見つめ、時を待つ。つけっぱなしのテレビから流れる愉快な音楽は、今の僕を笑っているように思えて不愉快だ。


 話す気配も感じないまま、それは言葉を発した。

「娘は公園で遊ぶのが好きでした。うんていができなくていつも練習しています」

 肯定か否定か、分からない。普通の返事ができないぬいぐるみが発する言葉を思い返しながら、外へ出る準備をする。


 どうせやることもないのだから、一週間をぬいぐるみのために費やしてもいいだろう。何もせずに街をふらついたりぼーっとしたりするよりかは、何かのために動いている方が生きているように思う。その理由が死者のためであっても自分のためであっても、誰かのためであることには変わりない。


「貴方はどこに住んでいたんですか?」

「アパートで娘と二人で暮らしていました。階下からの騒音がうるさくて眠れない日は私が歌を唄っていました。すると階下からうるさいと怒鳴り声がしました。でもその後は静かになるんです」

「貴方が住んでいた都道府県は?」

「実家がある京都には何度か連れて行ったことがあります。街を歩くだけで楽しいと言ってくれる子でした。私ができる遠出はそれが精一杯でした」


 京都に実家、精一杯の遠出。家庭状況から考えて遠出と言えば近くの府県と考えるのがベストだろう。片山さんの言う京都が京都市だと仮定すると、遠出の範囲となるのは兵庫、大阪、奈良、滋賀。ここからそんなに遠くもないので、一日あれば行くことができる。その付近の二年前の新聞を見ていけば、あわよくば名前が載っているかもしれない。


 途方もない作業であることは分かっている。でも、それが足を止めない理由にはならなかった。見つかればいい、という淡い希望だけを抱いて、新聞をめくり続けた。


 時間はあっという間に溶けていく。実を結ぶかどうかも分からないが、何かをしていることで忘れられることがある。それは自分の情けなさだったり、弱さだったり。紙をめくって文字を追っている時は、自分のこと全てが霞んで見えた。

 それを見つけたのは、動き出してから三日目だった。閉館時間が近づき、窓から夕日が差し込む時間。

 桜の満開を告げた記事の下に、控えめに残されていた。車に轢かれた片山瑞樹さんが死亡、犯人は逃走中。ネットで調べてみれば、いまだに犯人は捕まっていないようだ。名前を見ても、男性なのか女性なのかは分からなかった。そういうところも含めて、これだと確信した。

 事件発生は夕方、この時間に歩いていたのであれば仕事を終えて帰宅途中だったと考えられる。職場から歩いて通える距離。片山さんが暮らしていたアパートは事故が起きた同じ市内と考えていいだろう。付近の施設をあたれば、娘さんを見つけられるかもしれない。


 記事を控えて帰宅すれば、ぬいぐるみはベッドの上に鎮座している。

「貴方は、片山瑞樹さんですか?」

「娘はマイカと言います。舞うに花で舞花。お花にはお水が必要だからずっとそばにいてねと言われたことを覚えています」

 花には水が必要。舞花と瑞樹、はなとみず。

 合っている可能性は高い。このまま進めて問題はないだろう。


「舞花は踊るのが上手ではありませんでした。向日葵は風に揺れると茎を小さく揺らします。頭は重たそうに上下に揺れます。舞花もそんな風に踊っていました」

「娘さんはダンスを習っていたんですか?」

「私が辛い時を分かっていたんだと思います。そんな時は私の前で踊ってくれました。舞花の踊りを見ると笑顔になれるんです」

 親は唄い、子は踊る。アパートの一室での風景を思い浮かべ、頬が緩んだ。隣の部屋からそんな声が聞こえてくれば、僕はどう思っただろうか。──きっと、うるさいと思うだろう。片親の家族が喚いている、静かにすることもできないのか。僕は、階下の住民と同じだ。


 片山さんが暮らしていた街を調べてみるが、この街には施設が無かった。入れられるとしたら近くの施設だろう。隣町も調べた結果、二つ見つかった。

 どちらかに舞花ちゃんがいる保証はない。もしかしたらいるかもしれない、くらいのものだ。一人になった舞花ちゃんは、片山さんの弟に引き取られた可能性の方が高いかもしれない。それに、二年も前の話だから、施設に入ったとしても新しい家族に引き取られているかもしれない。そうなれば、見つけ出すのは困難だ。


 ぬいぐるみの返却期限まで、あと二日。今の僕にできるのは、施設を訪れることくらいだ。

「舞花ちゃんには一目会うだけでいいんですか?」

「一目会うだけでいいんです」

「話したりとか、触れたりとか、子供にしたいことってたくさんあるものじゃないんですか?」

「遠くから見るだけでいいんです」

「……どうして?」


 母として腹を痛めて産んだ子なら、父として愛する可愛い娘なら、会って話をしたいと思わないのだろうか。抱きしめて、髪に触れて、名前を呼んで。僕には子供はいないから親が子供に対してどう思うか本当のところは分からないが、片山さんの話を聞いていると、そういうことをしてあげてほしいと思った。僕が舞花ちゃんならしてほしいとは思わないが、せっかくなら舞花ちゃんも片山さんを抱きしめてあげてほしいと思った。

 それは、僕がここまでしてあげたんだからという自己の思いかもしれないし、ただ単に二人が家族として最期の別れができないのが悲しいと思ったからかもしれない。


 こう思うようになったのはきっと、死者の記憶に含まれる感情に触れたからだろう。記憶を通して感じる特別な想いはきっと、今僕が彼らに感じているものだ。きっとそうだと思う。そうだと信じたかった。


 返事のないぬいぐるみの頭を撫で、立ち上がる。冷蔵庫を開けて献立を考えていると、「一目会うだけでいいんです」と、か細い声がした。ベッドに目を向ければ、座っていたはずのぬいぐるみは倒れていた。

 撫でた拍子に倒れてしまったのだろうそれに手を伸ばし、座らせる。


「娘に、会わせる顔がありません」

 ゆっくりと紡がれた言葉だった。それを見れば、微かに、瞳に光が見えた。


「ずっとそばにいてほしいと言われて、約束をしたのに。破ってしまいました。水を無くした花は、いつか枯れてしまいます。そうなれば私の責任です。私がもっと強ければ、轢かれても耐えられれば良かったのに……」

 片山さんを轢いたのは、大きなトラックだった。いくら体を鍛えている人であれ、打ち所が悪ければ死んでしまう。

「幼い娘との約束を守れませんでした。絶対にと、約束をしたのに。謝っても私は生き返りません。娘との約束は果たされません。未練がましく娘に会いたいと言っている自分も、嫌でたまりません」

 震えるような声は、涙を堪えているように思えた。録音の声を聞いていた心地から、ぬいぐるみは、人として言葉を発しているように感じられた。

「だから、一目会うだけでいいんです。それだけで」

 そんなはずはない、と思っても、ぬいぐるみは涙を流しているように見えた。

 子を持つ親の気持ちは分からない。だから僕は、片山さんの気持ちを汲み取ることしかできないのだ。

「……そうですか」

 事故に遭わなければ片山さんがこんな思いをすることは無かったのだと思うと、強く胸が締め付けられた。これはきっと、罪悪感だ。






 翌日は朝から雨が降っていた。今日は全国的に雨模様で、傘は欠かせないと言う。久しく使っていない大きめのリュックにぬいぐるみを詰め込み、傘を持って家を出た。傘を差していれば、大きなリュックも多少は隠れる。


 目的地へは鈍行を乗り継いで向かう。就職時に購入した車は二年前に手放したため、免許証はただの本人確認となった。乗り換えは多いが、通勤通学の時間帯を避ければ人混みも苦痛ではない。


 人の少ない線路を走る。四人座席を独占できるほど人のいない車内では、ぬいぐるみの声がたまに聞こえた。

「舞花は電車に乗るのが好きでした。いつか新幹線に乗りたいと言っていました。私にはもう乗せてあげることはできません。過ぎていく景色を見るのが好きなんです。まるで自分が走っているかのように感じられると」

「電車にはよく乗っていたんですか?」

「二つ向こうの駅にある植物園に連れて行ったことがあります。花が好きで。舞花の花はお花の花。花の種類は向日葵が良い。だから舞花の花は向日葵の花だと言っていました。いつか向日葵畑にも連れて行ってあげたかったです」

「向日葵、僕あんまり見た記憶がないんですよね。小学生の時に学校で育てていたけど、咲く前に枯れちゃって」

「きっと眩しいです。向日葵も向日葵に似た舞花も」

「……そうかも、しれませんね」

 そして、電車は目的地に到着した。


 行き交う人の少ない街だ。平日の昼間というのもあるだろうが、道を歩いている人は少数だ。一つ目の施設に向かうためバスに乗り、山の上を目指す。ここに舞花ちゃんがいれば、成仏した片山さんと少しは距離が近くなると感じた。

 ここで人が降りることなんてないからさ、そう言った運転手のバスを見送る。山の上にぽつんと建てられた施設の入り口には、外から鍵が掛けられていた。壁に蔦が這った白い建物はくすんで見え、背後に茂る木々も相まって、幽霊屋敷のように感じられる。

 南京錠は新しく、鍵は開けられない。定期的に人が来てはいるが、もう施設としては使われていないようだ。ネットで見つけたサイトは、六年前で更新が止まっていた。


「もう一つの方に行きますね」

 背中のぬいぐるみに話しかけ、施設を離れる。ぬいぐるみは何も言わなかった。

 次のバスまで一時間半後の文字を見て、歩いて駅まで戻ることにする。車も人も通らない山奥にある施設は、まるで監獄のようにも感じられた。そう考えれば、舞花ちゃんがここにいなくて良かったと思う。


「舞花は暗いところが苦手でした。だから空が暗い雨の日は嫌だと言っていました」

「本当に向日葵みたいですね」

「舞花には太陽があれば十分でした。水は私が与えられますから。向日葵って太陽だけで生きていけますか?」

「難しいんじゃないですかね。水も太陽も必要だと思います」

「私の代わりは誰かがしてくれるのでしょうか」

 いつもはぬいぐるみが黙って会話が終わるところを、今回は僕が黙って終わってしまった。


 バスで来た道のりを徒歩で戻るのはやはり時間が掛かった。しかし、待っている時間を考えれば、こちらの方が時間を無駄にせず済んだ。もう一つの施設へ向かう前に、ネットで検索してみる。現在も運営していることを確認してから、目的地へと足を動かす。


 電車に乗って最寄り駅へ。雨はずっと降り続いている。リュックに入ったぬいぐるみは少ししめっぽい。家に帰ったらしっかり乾かそうと思いながら電車を降りる。

 施設は駅から徒歩圏内にある。傘を差して向かう道も、やはり人通りは少ない。


「舞花ちゃんはどんな子なんですか?」

「迎えに行くと私が呼ぶ前に舞花から近付いて来てくれました。みんな同じ幼稚園着を着ていますが遠くからでも舞花のことがすぐに分かります。だから迷子になってもすぐに見つけられるんです」

「髪の毛とかは片山さんが結んであげているんですか?」

「私は不器用なので舞花のおままごとには付き合ってあげられませんでした。小さな家具を置いて人形を動かせば全部倒してしまいますから。ただ時間を掛ければ作り上げることはできます。洋服も鞄も舞花が好きなキャラクターで作ってあげましたよ。とても喜んでくれました」

「幼稚園児にも流行りがありますし、好きなキャラクターってころころ変わるんじゃないですか?」

「作ってほしいと頼まれてから半年後にできたものがありました。遅いと言われるかと思いましたが舞花はすごく喜んでくれました。古い子供向けアニメばかり見させていたので舞花の流行りと世間の流行りは少し異なっていました」

 そうなんですね、と答えて足を止める。


 山の上にある施設とは一変、こじんまりとした建物を囲う塀には、施設の名前が記されていた。砂場が見えるがそこには誰もおらず、閉められた窓の向こうから子供たちの声が聞こえる。

 最後の頼みはここだ。ここにいなければ、もう見つけることはできない。


 窓を見ていれば、ちらちらと子供が走っているのが見えた。リュックからぬいぐるみを取り出し、前に抱える。

「どうですか。見えますか」

「舞花は目が悪いです。私に似てしまったんです。小さい頃からずっと眼鏡を掛けています。色は薄い青色。かけっこすると眼鏡が落ちちゃうとずっと言っていました」


 青色のランドセルを背負って、下手なダンスを踊って、向日葵のような。花が好きで、古い子供向けアニメを見ていて、眼鏡を掛けている、名前は舞花ちゃん。

 聞いた特徴を何度も思い返しながら、窓を見つめ続ける。しかし、窓から見えるのは一瞬で、その数秒で舞花ちゃんだと判断するには難しかった。せめて晴れていれば、外で遊ぶ子供たちを見ることができただろうに。舞花ちゃんが嫌う雨は、手がかりを消してしまう。

 中に入ることができれば一人一人確認することができる。子供と遊びに来ましたと言えば、施設の人は僕を中に入れてくれるだろうか。仕事もしていないぬいぐるみを持った男が平日に現れて。……痛い目が僕を見てくる。想像するだけで肌がちくりと痛む。


「舞花は青色が好きです。だからランドセルも眼鏡も青色がいいと言ったんです。ランドセルは赤色の方が女の子らしいと思うのは私だけでしょうか」

 このまま窓だけを見つめているのでは、きっと舞花ちゃんは見つけられない。ここに彼女がいたとしても、いなくても。

 強くなってきた雨は、ぬいぐるみの言葉を掻き消してしまう。何かを話し続けているが、上手く聞き取れない。跳ねた雨はぬいぐるみの体を少しずつ濡らしていく。やはりここには長くいられない。

 早く帰るべきだ。その前にやるべきことがある。


 意を決し、雨に押されるように入口へと歩を進めた。

 ──そこにはいつの間にか、人がいた。傘を差した少女が、こちらをじっと見ていた。大きな傘を両手で握り、薄い青色の眼鏡の向こうにある目を大きくさせている。

 赤いランドセルを背負った少女は、僕と目が合うと少し体を縮こませた。声を掛けようと手を伸ばせば、少女はランドセルに下げた紫髪の女の子のイラストが入った巾着を揺らしながら、中へ走って行ってしまった。

 雨音が騒がしい中でも、はっきりと聞こえた扉の閉まる音。その先の出来事を想像し、足に力を込める。

「片山さん、帰りますね」

 返事を待たないまま、僕は駅へと向かっていた。




 帰宅後、濡れたぬいぐるみは洗濯ばさみに挟んだ。他に下げられるものが無かったので、仕方なく耳を挟んで下げておく。その間、ぬいぐるみが言葉を発することは無かった。

 ぬいぐるみは帰宅途中もずっと話さなかった。明確に言えば、あの少女を見つけたときから。


 逃げるように施設から離れ、電車に乗って家に帰ってきた。行きはあんなに話していたのに、帰りは恐ろしいほどに静かだった。電車に乗っている時間が異様に長く感じられたのはそのせいだ。

 聞いてきた話から察せられる特徴に当てはまるものはあった。眼鏡も、巾着のキャラクターも、聞いていた通りだ。ただ、ランドセルの色は赤色だった。青色が良いと言う言葉からは外れているが、途中で気が変わってもなんら可笑しくはない。眼鏡と巾着は当時のものをそのまま使っているのであれば、あの少女が舞花ちゃんであると言っても良い気がする。


 未練を果たせば成仏できるのか、──ぬいぐるみが今少しも話さない理由が、それなのであれば。彼女が舞花ちゃんで合っていたのだろう。

 この状態で返却しても問題は無いのだろうか。中身のないこれは、死者の記憶としての販売はできないだろう。






 昨日の雨が嘘のように、今日は晴れていた。乾いたぬいぐるみを手提げ鞄に入れて、あの店へ向かう。

 店に入ると店員が爽やかに迎えてくれた。


「一週間、どうでしたか?」

 向けられた笑みから視線を外す。少し考えてから、顔を上げる。

「久しぶりに人と話ができたので、その……」

「楽しんでいただけたようで何よりです」言い淀む僕の言葉に被せて彼が言う。「人とコミュニケーションをとることは大切ですからね。相手が生者であれ死者であれ、言葉を話す以上会話は可能です。それが記憶の言葉だとしてもね」

 そう言って店員は手を差し出す。その行為の意味に気づき鞄に手を伸ばし、ぬいぐるみを掴む前に止めた。店員は変わらない笑みで僕を見ている。

「……ぬいぐるみが、昨日の夕方から話さなくなったんですけど、これって不良品とかになってしまいますか?」

「いえ」即答だった。「そんなことはありません。このぬいぐるみには死者の記憶としての価値はありませんが、死者の記憶が消えることはありませんので」

「それって、死者の記憶が天国に行った、……という意味ですか?」

「いいえ」

 それは優しい声だった。

「貴方が持っているじゃないですか」




 持っていた鞄は軽くなっている。何も入っていないそれをわざと下げて歩く帰路は、行きよりも息苦しくなかった。昨日の雨で乾ききっていないアスファルトに映る空はいつも以上に青さを増しているように見える。


 ──ぬいぐるみはもう、話さないんですか。


 店を出る前にそう問うた。

「難しいでしょうね。ただのぬいぐるみは、人の言葉を話したりはしませんから」

「……そうですよね」

「まだ、お話し足りませんでしたか?」

「いえ、……少し聞きたいことがあったので」

 あんなに突然いなくなってしまうとは思わなかった。聞こうと思っていたことは心の底で、居場所を無くして蠢いている。

 店員は小首を傾げていた。僕の言葉を待っているようだ。

「…………車で貴方を轢いた人を恨んではいないか、と」

「どうでしょうね。人によって様々ですから、一概には言えません。ですが、もし恨んでいるのなら、貴方は聞いているはずです。貴方はこの方と、どんなお話をされましたか?」

 帰路、ずっと片山さんの話を思い返していた。家に着いて鏡を見れば、頬には涙の道が残っていた。


 それが本当の気持ちであるとは限らない。店員の憶測でしかない。

 しかしその言葉に、確かに僕は救われたように思う。

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彼方者 薮 透子 @shosetu-kakuko

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