第2話 はじまりの朝

 目が覚めると、夢の中で体験した感情の残り香と、事前に説明にあった通りの喪失感を感じた。


 静寂で真っ暗な視界だと、より繊細にそれらを感じ取ってしまう。


 喪失感とは言ったものの、元からあった心の中の空洞が、以前より少しはっきり見えるようになったと言った方が適切な気がする。


 感情の霧が少し薄くなって、洞窟の入り口がぼんやり見えるようになった感じだ。


 受け取る報酬は、この空洞を埋めてくれるだろうか。


 しばらくしてドアがスライドする音がした。続けてドアが軽く壁に弾む音がした後、ゴムの擦れる音が無機質なリズムで近づいてきた。


「ファスナーを下ろしても構いませんよ」


 眠る直前に会った医師の声が聞こえた。


 指示に従ってファスナーを下ろすと、薄暗い部屋に、昨日とは打って変わって夜の顔をした医師が立っていた。


「お疲れ様でした。心身の具合はどうですか?」


「説明された喪失感が少しあるくらいです」


「そうですか、時間が経てばそれもなくなっていくと思うので、できるだけ楽しいことをして過ごしてください」


「わかりました」


「冷蔵庫に朝食が入っているので、お好きなペースで朝を過ごし、帰る時は向かいの部屋にいる我々にひと声かけてからお帰りください」


 そう言うと、軽く頭を下げて部屋を出て行った。


 スーツから服に着替えている時に、ふと窓の方を見ると、厚いカーテンの隙間から、薄くか弱い光が入り込んでいた。


 冬は朝に目を覚ましても夜のように暗かったのが、春になるにつれあるべき姿に戻るように少しずつ明るくなってくる。


 それは新たな始まりを告げるようで、心を上手く切り替えられない私にとって出鼻を挫く苦手な現象だった。


 そんな嫌な奴の顔をよく見てやろうとカーテンを開けた。周りの建物はどれも背が低かったので、窓いっぱいに馴染み深いしたり顔があった。


 しかし、いつもより置き去りにされる寂しさは小さかった。


 こちら側の実験は成功していたのだと実感した。受け取る側の方は上手くいっただろうか。


 冷蔵庫を開けると、小さなペットボトルの緑茶と、四角いタイプの小さなサンドイッチが複数入ったケースが置かれていた。


 ここまで必要最小限を徹底していたとは。


 実験全体の最小限の中に、被験体の朝食を残してくれていたことに感謝しつつ、冷蔵庫から二つを取り出し、ベッドに座ってサンドイッチを一つ頬張った。


 普通の卵サンドだったが、何か印象が薄い気がする。


 最初は味が薄いのかと思ったがそうではなかった。朝食を削減しない代わりに味を最小限にしたのだとしたら優秀な策士だが、さすがにそこまではしなかったようだ。


 薄くなったのは味ではなく感情の方だった。


 美味しいという感情の広がりが薄くなっていた。懐中電灯の電池が消耗して頼りない光になったような感じだろうか。


 そういう実験をしたのだから当然と言えば当然なのだが、食事が楽しみの一つであったため、失ったものは予想より大きいようだった。


 しかし、それよりも薄まった感情を恐怖に駆り立てるものがいた。それは例の空洞である。


 感情を取り出したにも関わらず、どうして以前にも増して大きな顔で居座っているのか。


 お前は感情ではないのか。


 時間が塞いでくれることを信じて、空洞にサンドイッチをお供えする気持ちで残りを口にした。


 長居するのも悪いので、帰る用意を急いで済ませて医師に報告と労いの言葉を伝え、研究所を後にした。

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