2.優しいね





5月21日、火曜日。


この日も、空模様は良くなかった。灰色の雲が太陽の光を遮っていて、教室の中はぼんやりと仄暗かった。


「おはよ~」


「おはよー白坂くん」


「おっす白坂~」


クラスメイトたちと朝の挨拶を交わしながら、俺は自分の席に着く。「今日も曇りだなあ」なんて思いながら、大きなあくびをひとつする。


(ん?)


ふと、隣の席に気配を感じたので、そちらの方へ目を配ると、黒影さんがいた。


鞄から教科書とノートを取り出して、それを机の中に入れていた。


「おはよう、黒影さん」


俺がそう言うと、彼女はびくっ!と肩を震わせた。そして、顔だけをこちらに向けて、小さく会釈をした。


「どう?今日の体調は?」


俺の言葉を聞いて、彼女は黙ったまま頭を縦に振った。


「大丈夫ってことかな?そっか、それならよかった」


「…………………」


彼女は特に何も言わずに、ふいっと俺から視線を切って、また前を向いた。









……今日も淡々と、1日が過ぎていく。


先生たちが俺たち生徒に背を向けて、黒板につらつらと文字を書く。それを俺たちは、目を擦りながらノートに写していく。


そんな作業を何回か繰り返していたら、いつの間にか1日が終わる。最近はそんな感じで、毎日が退屈だ。この曇り空みたいにグレーな日々を送っている。


「つまり、円柱の体積を求める方程式は……」


先生が教科書を読みながら説明しているところを、俺は頬杖をつきながら聞いていた。


(あーあ、つまんねえなあ。彼女とかできたら、こういう退屈さも紛れんのかなあ……?)


霞んでいる頭の中で、俺は居もしない彼女のことへ想いを馳せた。


「…………………」


あ、まただ。


また今日、黒影さんから視線を感じた。


視線を感じるってスゲー不思議なことなだよな。だって、実際に見られているわけじゃないのに、見られていることを分かるってことだから。第6感的なものに近い気がする。


「…………………」


俺は隣にいる黒影さんへ、すっと目を向けてみた。


すると、俺が見た瞬間に、彼女はノートへと視線を落としていた。


(なんだろう?なんで今日は、やけに見られているんだろう?)


頭の中にハテナマークがたくさん浮かんでくるが、かと言って「どうしたの?」と聞くのもなんだか憚れてしまった。



キーンコーン カーンコーン



放課後になり、いつものようにクラスメイトたちは教室から素早くいなくなる。早く部活へ向かいたい者や、さっさと家へ帰りたい者、すぐに友だちと遊びに行きたい者と、教室から出たい理由は人それぞれだが、教室に残りたいと思う者は誰一人としていなかった。もちろんそれは、俺も例外ではない。


リュックに教科書やノートを詰め込み、それを背負って教室を出る。「今日は久しぶりにアニメでも観ようかな~」なんてことを考えながら、下駄箱へと向かう。


「……ん?あれ?」


だが、その下駄箱へ向かう途中の廊下で、俺はポケットにスマホが入っていないことに気がついた。


一旦立ち止まり、リュックの中も探してみるが、どこにもスマホは見当たらない。


(うわ、マジか。うーん、教室に忘れてきちまったのかな……?)


俺はため息をつきながら、小走りで教室へと向かう。


進んでいくごとに、人波が少なくなっていく。そして教室付近までやってきた時には、もう俺以外誰もいなかった。


(頼む、教室にあってくれ~……)


どこか分からない場所に落としたとか、そういう面倒なことにならないことを祈りながら、俺は教室の扉を開けた。



カラカラカラ



電気が消された教室は、不気味なほどに仄暗かった。さっきまで騒がしかったギャップもあるせいか、余計に教室の中が寂しく感じられた。


「…………………」


そんな教室の中に、たった一人だけ、クラスメイトがいた。


それは、黒影さんだった。


彼女はまだ席に座ったままで、帰り支度もしていない様子だった。机に向かい、シャーペンを持って何かを書いている。


「…………………」


黒影さんがまだ教室にいたことに若干驚いた俺は、一瞬何のために教室へ帰ってきたか忘れてしまった。


だが、すぐにスマホを探しに来たことを思い出し、おそるおそる教室の中へと入った。


「…………………」


黒影さんは俺が入ってきたことに気がついて、横目で俺のことをチラリと見た。


何も反応を返さないのも良くないかと思い、俺は彼女に黙って小さく会釈をした。そうすると、彼女は気まずそうに会釈を返した。


(……あ、やっぱりあった)


俺は自分の机の中を覗き込んでみると、予想していた通り、そこにはスマホが置いてあった。あーよかった、どっかの廊下に落としたとかだったら、もう見つからなかったかも知れない……。


安堵のため息をついて、俺はそのスマホをポケットにしまった。


「…………………」


だが俺は、まだ帰る気にはなれなかった。隣にいる黒影さんのことが気がかりだったからだ。


黒影さんが何を書いているのか確認するために、横からひょいと顔を覗かせて、彼女の手元を見た。


それは、日誌だった。日誌をつけるのは、日直の仕事だった。


「あっ!?」


その時、俺は思わず声を上げてしまった。なぜなら今日の日直は、黒影さんと『俺』だったことを思い出したからだ。


「うわー!黒影さん、ごめん!すっかり忘れてた!」


「あ、いや……全然、大丈夫」


黒影さんは日誌を書くのを中断し、おどおどした様子で俺にそう告げた。


「もしかして、他の仕事も全部終わっちゃった?」


「う、うん……」


「マジか~!ほんとごめん!なんかジュースでも奢るよ」


「い、いや、大丈夫だから……」


「えー?うーん、でもなんか申し訳ないなー……」


俺はそう言いながら、腕を組んで唇を尖らせた。せめてなー、お礼くらいはしないと失礼だよなー。


「……あ、あの、白坂くん」


不意に、彼女が俺に話しかけてきた。「うん?」と言って答えると、黒影さんはごくりと息を飲んで、こう言った。


「あの、ごめんなさい……」


「え?なにが?」


「き、昨日……その、プ、プリント届けに来てくれたこと、あ、あ、朝方にお礼、言えてなかったから……」


「あれ?そうだったっけ?」


「う、うん……。差し入れしてくれたことも、お、お礼……言えてなくて。ほ、本当は、今日私が登校してきた時に、『昨日はありがとう』って言うべきだったのに、わ、私……言えず仕舞いで……」


「うーん、そうだったかなあ?」


「そ、そのことがずっと気に病んでて、ずっと言わなきゃ言わなきゃって、そわそわしてて……。言うタイミングが見つからなくて……」


「…………………」


この時、ようやく俺は、今日1日何度も彼女から視線を送られていた理由を察した。


「お礼は、昨日言ってくれてたじゃないか。それで充分だよ」


「で、でも、今日は今日で……『昨日はありがとう』って言わなきゃ、し、失礼……じゃないかなって……。と、隣の席だし……」


「…………………」


「で、でも……な、なんか、上手く言い出せなくて……。白坂くんが言ってたとおり、昨日お礼言ったから、き、今日はいらないかなとも思ったんだけど、も、もし言わなかったせいで……し、白坂くんに嫌な思いさせちゃったら、こ、怖いなって……」


「…………………」


「だ、だから……お礼を言うのが遅くなって、ごめんなさい」


……俺は、ぶっちゃけ全然気にしていなかった。お礼を言われたくてしてたわけじゃないし、実際昨日の時点でお礼は貰えてたから、それ以上貰いたいと思う理由がなかった。


(黒影さんは、真面目過ぎるのかも知れないな……)


もっと気楽にしてくれていいんだけど、どうにも彼女は、その気楽にやるというのが難しいみたいだ。


今日もお礼を言わないといけない、でも話しかける勇気がでなくて、ずるずる言えず仕舞いで……そしてそのことをずっと気に病んでしまう、と。


「黒影さん。俺は全然、気にしてないよ」


「で、でも……」


「確かに、全くお礼を言われなかったとしたら、ちょっと思うところがあるかも知れないけど、昨日言ってくれてたんだから、もうそれ以上は大丈夫だよ」


「だ、だ、だけど……」


「…………………」


彼女は困ったような表情で、目を伏せていた。


そんな黒影さんを観ていると、もうこれ以上、俺が「大丈夫だよ」と言っても……平行線な気がする。彼女は俺が思っている以上に、不安が強いタイプらしい。


「……黒影さん」


だから俺は、全く別のアプローチをしてみることにした。



「黒影さんは、優しいね」



「……え?」


この時彼女は、初めて俺と目があった。きょとんと丸くなったその目を見つめながら、俺は言葉を続けた。


「俺にお礼を言わなきゃと思って、ずっと気を揉んでいたんでしょ?優しいなあ、黒影さんは」


「い、いや、そ、そんなんじゃないよ。私は……優しくなんか……」


「優しいと思うよ?だって、本当に優しくない人は、お礼を言おうとすらしないから」


「…………………」


「お礼を言おうとする発想自体が、優しいことの表れだよ」


「そ、そんな……。わ、わ、私はただ、その、し、白坂くんが嫌な気持ちにならないようにって……」


「ほら、それがもう優しいじゃないか」


「う、ううう……」


黒影さんは肩をすくめて、真っ赤になっていた。頬も耳も、鼻の先もおでこも、みんな赤くなっていた。


太ももの上に置かれた手はぶるぶると震えていて、口はあわあわと恥ずかしそうに動いている。


「や、や、止めて、白坂くん。あ、あんまり、褒めないで……」


「ははは、ごめんごめん。ちょっと調子乗っちゃった」


「…………………」


黒影さんは顔を真っ赤にしたまま、日誌を書くのを再開した。


震える手で、彼女はシャーペンを握る。そんな彼女へ、俺は最後にこう言った。


「でも、本当に黒影さんは優しいと思うよ。だから、俺にごめんなさいなんて、言わなくていいよ」


その瞬間、黒影さんはさらに、顔が赤くなった。ペンを持つ手に強く力が入り、目をぎゅっと瞑っていた。



パキッ



シャーペンの芯が折れる音が、教室の中に小さく木霊した。







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