第37話 壺

どれくらい時間が経ったのだろう。

本当の暗闇の中、ベリトと取り留めのない話を続け、そのうちベリトがうとうとし始めた頃。


ぱっ。


突然部屋に明かりが灯った。


「わ、眩し……」

「ベリト!」


それと同時に扉が開き、息を切らせたフィルが飛び込んでくる。

それはもう、全身真っ赤に染まった姿で。

右手に「泗水しすい」を握り、左手には……魔熊まゆうの頭をぶら下げている。青いはずの泗水も当然、鮮血に染まって赤黒く滑っている。

魔熊の首からは血が滴り落ち、口が大きく開き、舌がだらーっと垂れさがっている。

正直ドン引きレベルである。

大丈夫? フィル悲しみの向こう側に行ってない?


「ベリト! 重人さん! よかった無事……」


血まみれのフィルが俺たちに飛び掛か……じゃなくて、抱きしめようとして。


「落ち着くの」

「くぎゅ!?」


誰かに襟首を引っ張られて、女の子が出しちゃいけない声を出した。


「ベリトちゃんが血まみれの惨劇後になっちゃうの」


ふぅとため息をついて部屋に入ってきたのは、誰であろうエルファリアさん。


「あ、エルお姉ちゃんだー」

「はーい、エルお姉ちゃんなのよー」


ひらひら手を振りながら、フィルに生活魔法をかける。

瞬間、血塗れだったフィルの全身が、一瞬で普段通りに戻った。

ついでに滴り落ちていた血痕にも魔法をかけ、綺麗にしていく。


「なんでエルファリアさんがここに?」

「なんでもなにも、ねんわ?っていうの? フィルちゃんの半狂乱の声が飛んできて吃驚びっくりしたのよ。しかも私、返事の仕方が分からないし。作業を途中でやめてトーラちゃんと飛んできたのよ」


「あ、あれ? エルファリアさんに念話の事話してなかったっけ?」

「聞いてないの。だからさっきは本当に焦ったのよ。……念話の方法、あとで教えるのよ?」

「はい、ごめんなさい……」


エルファリアさんがふうとため息をつく。


「何事かと文字通りすっ飛んできたら、遠くの方で戦ってるのが見えたの。それがフィルちゃんだったんだけど……正直、死神の戦いにしか見えなかったのよ……」

「だ、だって、魔石どうしても必要でが……」


エルファリアさんに言われ、フィルの語尾がだんだん小さくなっていく。


「血が次々魔物を呼んで、その魔物をフィルちゃんがなで斬りにして。すごい笑顔で魔石を引っこ抜いてたの。トーラちゃんがドン引きしてたのよ」

「おっかないときのお姉ちゃんが出ちゃったんだねぇ」


ベリトがしみじみ言う。怒らせたことあるんだな。よく生きてたな……。

そしてフィルを怒らせるのはやめようと心に誓う俺。


「とりあえずフィルちゃん、怖いからその頭はポイしちゃうのよ」

「え? ……は? 私なんでこんなのを!?」


エルファリアさんに言われて気づいたのか、手にした魔熊の頭を見て、慌てて部屋の隅に放る。……その魔熊の頭が部屋の隅に転がって止まった。

ちょっと斜めで、俺の方をじっと見てるんだが。無念そうな顔で。

ちなみに魔熊の討伐ランクはD。この森で一番ヤバい奴だ。


「その魔熊は一撃で首を狩られて、魔石を抉るためだけに4等分にされてたのよ」

「お姉ちゃんすっごい」

「え、ええと、あの。必死だったから……火事場の何とかってやつでは……」

「私には正直、惨劇の現場にしか思えなかったの。今トーラちゃんが後始末をしてるの。数が多いけど、放置するにはちょっともったいない素材もあったのよ」


トーラが死んだ目をしながら解体作業をしてるのが目に浮かんだ。

あとで十分にねぎらってあげよう……。


「それで、ここは何の部屋なの?」

「暗かったからわからないよー。ずっと瓶さんとお話ししてただけだもん」


俺をトイレ代わりにしてたけどな。


「壺と壁になにか書いてあるけど……私の【鑑定】じゃ読めないの。君は?」

「俺は普通に読める」

「……【鑑定】無しで読めるの?」

「読めるんだよ、なぜか」

「ふぅん? ……まぁいいの。なんて書いてあるの?」


エルファリアさんがジト目になるけど、深くは聞いてこないらしい。

とりあえず壁に書いてある文字から読み上げてみる。


「ええと……「【自動発酵壺】は必ず蓋をした状態で使用してください。蓋をせずに使用すると異臭騒ぎになります。異臭騒ぎを起こした住人は、棟すべてに生活魔法をかけていただくことになります。十分に注意してください。管理者」だってさ」


「【自動発酵壺】……あ、こっちは【鑑定】できたの。「特定の素材を入れることで自動で発酵を促す」なのね? 壺の文字は……読めないけど」


エルファリアさんの視線を感じたので、続いて壺の文字を見る。


「え……」

「どうしたの?」

「あ、いや、ちょっと予想外のことが書いてあって驚いた」

「ねぇねぇ、なんて書いてあるの?」

「こっちの壺は「醤油」……こっちは「味噌」。でこっちは「こうじ」だって」

「聞いたことがない名前なの。発酵食品なのはわかるけど」

「それらは俺の世界の調味料だ。特に醤油は、転生前の国で必須に近い調味料だぞ」


醤油や味噌の名前が出てくるとは思わなかったので、大分動揺した。

ここで住んでいた人たちは、やっぱり地球の人だったのだろうか……。


『情報レベルが高すぎてお答えできません……ごめんなさい! -女神ペディア-』


ええんやで。先生にはいつも苦労を掛けるなぁ。


しみじみそんなやり取りをしていると、ベリトが目を輝かせて俺を掴む。

というかちょっと涎が垂れてるぞ!?


「そのしょーゆとかみそーって、美味しいの? どれくらい?」

「ほっぺが落ちるくらい」

「そんなに!?」


やばい、涎が垂れてかかりそう。

と思ったら、ため息をついてフィルがハンカチで拭いてやっていた。


「この世界ってさ、味付け塩味だろ?」

「そうですねぇ、ちょっとお高いレストランに行けば話は違いますけど」

「それでも胡椒が追加されるくらいなの。砂糖も故障もお高いのよ、すごく……」


エルファリアさんとフィルが遠い目をして黄昏たそがれる。

ベリトは「食べたことないからわかんない」と寂しそうに言った。


「んじゃ、猶更食べさせてやらないとな。稲と大豆を何処かで探してこないといけないけど」

「いね?とはなんでしょうか?」

「穀物だよ、麦みたいな植物で、穂に沢山茶色い粒を付けるんだ」

「だいず?はなんなの?」

「ええと、地面の中に鞘で粒を付けるマメ科の一年草で、元居た世界ではいろんなものに加工されていた、栄養価の高い植物だよ」

「茶色い粒……もしかして堅麦の事でしょうか?」

「地面に鞘……土エンドウの事なのよ?」

「二人とも、知ってるのか!?」

「その辺の空き地にいっぱい生えてるのよ?」

「まじで!?」

「なんでそんなにテンションが高いのか分からないのよ」

「それらがあれば、この壺で超うまい調味料ができるんだよ!」


俺のテンションに付いてこれずに、顔を見合わせる二人。


「堅麦はどう処理しても硬くておいしくないのよ?」

「煮れば食べられますけど、風味が独特で人気はないですよね」

「臭い、まずい、美味しくないで有名なのが堅麦なの。でも、たくさん生えるから家畜の餌にはいいのよ」


エルファリアさんの言葉に俺は衝撃を受ける。


「家畜の餌!? なんてもったいない……!」


お米が食に適さないと思われてるなんて、日本食に対する冒とくだぞ。


「土エンドウは煮ると柔らかくなるから食べられるの。遠い地方では炒った土エンドウ豆をぶつけるお祭りもあるのよ」


節分、あるんだ……。


「でもそれくらいなの。粉にしても美味しくないし、パンにもならないから、農家ではあまり育てられないのよ」

「そっちも勿体ない!」


俺が叫ぶと、エルファリアさんが考える仕草をする。


「君の反応を見る限り……いいものなのね?」


俺はハッキリ頷く。


「世界の食生活が激変するくらいは」

「世界が激変!?」「そんなになの!?」「美味しいの食べてみたい!」


間違いなくするだろうな。

特に醤油や味噌を使った調理方法が世間に知られたら、今の塩オンリーの料理何か食えなくなるだろうなぁ。

みそ汁、丼もの、おにぎり……ああ、夢が広がる。


「あ、一応確認だが、この世界に醤油とか味噌ってあるか?」

「ないのよ?」

「聞いたことないですねぇ」

「麹は?」

「それも知らないの」

「マジかぁ……よし、この壺は持ち帰ろう」

「却下なの!」


俺がそう宣言すると、エルファリアさんが両手で×を作る。



「なんで!? これがあれば豊かな食生活が確約するんだぞ!?」

「この壺、聖域に持ち込むつもりなのよ?」

「それ以外ないだろ?」

「注意書きと罰則ができるくらい、くちゃいのよ?」


え?


「この部屋、生活魔法の【空間保護】がかけられてるの。【空間保護】は温度の一定化、物質の劣化防止、空気の正常化が織り込まれてるのよ?」


エルファリアさんが壁の文字をコンコンと叩く。


「そのうえで、注意書きができるほど匂いが凄いのよ? 何も対策していない聖域にこの壺を持ち込んで発酵を促進させると、どうなるか分かるの?」

「ど、どうなるんでしょう?」

「くちゃいのよ?」


エルファリアさんが真顔で言い切る。


「それはもう、くちゃいの。発酵って言いかえれば腐敗なのよ?」


エルファリアさんが俺達を見て、真剣な口調で聞く。


「二人もいいの? たとえおいしいものが食べられるとしても、聖域がいつでもくちゃいの。耐えられるのよ?」

「無理です」

「絶対嫌だよ!」


真っ青な顔になっていやいやと首を振る二人。

それを見て満足そうにうなずいてから、俺のことを指でつついてにっこり笑う。


「この壺はここに置いておくの。それは決定なの。というかここじゃないと大惨事確定なのよ」

「そ、それじゃ醤油と味噌が……」

「どうせここは君、というか私たちにしか開けられない扉なの。発酵食品はここで制作すればいいのよ」


俺に言い聞かせるように、少しだけ優しい口調で窘める。


「それとも、しょうゆ?とかみそ?って聖域でしか作れないものなの?」

「い、いや……適した温度が大切だって聞いたことがある」

「匂い対策はできるのよ?」

「そ、そうだな……臭いのはダメだな……」

「ダメ、絶対、なの」


俺はベリトの手から滑り、その場で崩れ落ちる。

いつの間にか手足が出ていて、綺麗なorzになっているのに暫く気づかなかった。


「あ、でも稲だけは……米だけは拠点に持ち込みたいんだ」

「堅麦は美味しくないのよ?」

「それに関しては俺に考えがある。絶対美味しい食べ物を約束しよう」


精米の技術とかないだろうしなぁ。

というか俺もほとんど知らないんだが、ちょっと先生の俺の記憶をさらってもらうか。


『お任せください! 廃人にならない程度に引っ張り出します! -女神ペディア-』


いや、ちょっとは自重して!?


とりあえずここを出てトーラと合流することにする。

その辺に生えてるという、稲や大豆も確認しないとな。

時期が早いので実ってはいないだろうけど、苗が見つけられるかもしれない。

陸穂なのか水穂なのかも気になるな。

大豆も収穫できるなら味噌も作れるよな。あ、でもその前に麹造りからか。

くそぅ、何も食べられないこの身が憎い。

でも仲間に美味しいものを食べてもらいたいってのはある。

料理するの好きだしな、俺。


なんだか色々楽しくなってきたぞー。


明らかにウキウキしている俺を見て、三人が三人とも生暖かい目を向けていたことに、俺は全然気づかなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る