第一章

2.

 ◇レイフ視点◇


「五十六点。こっちは七十二点」

 吹き抜けるのは、頁を捲る君の前髪をサラサラ揺らす、涼やかな五月のそよ風。

「王国史の点数が伸び悩んでいるわね。歴史は単語と年号の暗記じゃない。前後のストーリーをちゃんと理解していれば答えられたはずよ」

 騎士団庁舎の端の端。丁寧に植生の整備された外庭の木陰にポツンと佇むテラスには、木目の美しいテーブルと一対のベンチ。配備したはいいものの、機能の集中する庁舎中央から遠く、全くと言って良い程に人気は無い。

「数学はまあまあね。ただこの間違えた問題は前回と同じミスよ」

 揺れる木々の葉擦れ音、ペンを走らせる音、そして君の声。

「こっちはただ公式を当て嵌めるだけじゃダメ。ちゃんと公式が何を意味しているのか、その成り立ちを理解しないと応用が効かないわよ」

 ヨリス村の墓参りから王都へ帰還して早三日。まだ包帯の取れない俺の傷が癒えるまでの間、ライラは俺の家に通って再び看病しようとしてくれた。大変有り難い申し出ではあるのだが、流石にこれ以上はと遠慮してしまい、……本音を言えば、またバブちゃん扱いされるのでは? との恐怖と羞恥心が蘇り断った。次の任務への準備が整うまでは、ライラの提案も有りずっと座学。俺の今までの教育の遅れを取り戻すべく、ライラが懇切に勉強を教えてくれていた。

「なあ。もう勉強なんてしなくて良いんじゃないか? 中央騎士団にも入団できたし、もう意味無いだろ」

 ただし俺にとってこの勉強は不服だ。子供の頃は中央騎士団へ初期配属されるという確固たる目的が有ったため歯を食い縛れたのだが、この目的の無い教養への意義を、平民の俺には見出せない。

「貴方、政治家になるんでしょう?」

「ん? 何で?」

「だってグスタフの代わりになるって」

「……それは、そうだけど」

「なら、脳味噌を鍛えないとね」

 君は目線を落とした本の頁を一枚捲る。

「王国史なんて勉強して何になるんだ?」

 俺は目の前の座学主席へ、その意義の答えを求める。

「愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶものよ。国の流れも、経済の流れも歴史の中で何度も同じサイクルを繰り返している。既に先人が陥った落とし穴にむざむざと引っ掛かる必要は無いわ。歴史を識るということは、未来を識るということよ」

「うーん。……じゃあ数学は?」

「論理的な思考能力が培われるわ。公式なんていずれ忘れたっていいの。つまり耕された脳が大切なのよ。そうすれば胡散臭い占い師とやらにも騙されなくなるわ」

 ……まだアリシアの件を根に持っているのか。

「それに八年前の戦争で功績を残し聖騎士へ上り詰めた北部地方騎士団団長ブルーノは数学の天才だったそうよ。計算が出来るから、混沌とした戦場の現場で適切な采配を振るえたの。私達は聖騎士を目指すんだから、いずれその振る舞いを求められるわ」

 俺は顰め面でぐうの音も出ず、その意義をようやく半分飲み込んで、ただライラの指摘を復習する。

「今日は何を読んでるの?」

「商法総則・商行為法概論。体系的な知識も必要だけど、この著者エドガーの文章は、生々しい実務も挟んであって面白いわ」

 ライラは俺の勉強を見てくれた三日間、ずっと法学や経営学を勉強していた。一人では退屈で集中力が途切れてしまうが、ライラが一緒に努力をしてくれる姿を見せてくれるから、もう一度頑張ろうとペンを握れる。

「法律、好きなの?」

「好き? うーん。好きっていうよりは必要だからよ。叡智はね、剣では斬れないものを斬れるのよ」

 ライラはこちらを見やると決め台詞と共に微笑み、視線をまた本へ戻す。それでも書を読む君はどこか愉しそうだ。

「今思えば、レーヴェンアドレール家の経営は綱渡りだったわ。騎士としての収益だけじゃ不安定。私が復興を成し遂げたって、また未来の子孫が没落するかもしれないでしょ? 財源は複数所有すべきよ。その方が低リスクだからね。安定した事業が必要だわ。地位と金、両方掴んで初めて復興と言えるわ」

「……すごい。本当にライラは色んな事を考えてるね」

「ふふ。尊敬しなさい」

 君は本を閉じ、ペンを走らせる俺の腕を、袖口を掴んで引き留める。お喋りが楽しくなったのか、折角集中し始めた俺の勉強を邪魔してくる。全くもって君らしい。

「……何?」

「何でも?」

 特に用は無いらしい。それでも君はテーブルの上に伸ばした自身の右腕に頬を突っ伏し、俺の左小指を掴んで離さない。

「でも貴方、学校に行かないでよく筆記試験通ったわね。足切りの点数も高いのに。しかも十五歳で」

 君はそのまま俺の小指を曲げたり伸ばしたり、何が楽しいのか遊び始める。

「ばあちゃんに教えてもらったんだ」

「ばあちゃん? ああ、トレイス町で一緒に住んでた人だっけ?」

 そして小指に飽きた君は、今度は薬指を弄り始める。

「そう。昔王都で教師もやってたそうだよ」

「ふーん。遣り手なのね」

 そして君は寝返り、今後は自身の左腕に頬を突っ伏す。それでも俺の左薬指は離さぬまま。

「じゃあ、その騎士装束も」

「うん。ヨハンナばあちゃんとカタリーナがサプライズで贈ってくれたんだ」

「……カタリーナって貴方の初恋の人?」

「え! ……いや、だから分かんないって」

 君があまりに楽しそうに俺の指を弄るから、俺も負けじと左手で、君の右小指を掴んでみる。……これ、楽しいのか?

「……カタリーナはいくつ?」

 取り留めのない質問。君は小指を逃がそうと引っ張るが、俺は上手く指を絡めて捕らえたまま。

「俺の一つ下、今年十五歳だよ」

「ふーん。……どんな子なの?」

 君はすかさず俺の薬指を握り返し、支配権を取り戻す。……君は本当に生まれ持ってのお貴族様なんだな。なんとなく可愛らしさを感じ、俺は思わず苦笑する。

「そうだなぁ。……恥ずかしかり屋で、すごい引っ込み思案な子なんだ」

「……それで?」

「でもね、とても温かな体温と、奥底には秘めた強い意志を持っている。村が焼けたあの日も、泣きながら、でも一番に立ち上がって今後の生活について、未来について話し出したんだ。あの三人で、一番幼かったはずなのに」

「うん」

「そして俺が家族を思い出して泣いた夜も、カタリーナは抱き締めて、俺が眠るまでただ慰めてくれた。本当は自分だって苦しかったはずなのに。本来なら、一つ年上の俺が守ってあげなきゃいけなかったのにね」

「うん」

「そんなカタリーナがいてくれたから、俺は腐らず、この復讐のために生き続けて来られたんだ。……本当に感謝している」

「……ふーん」

 ただつらつらと想いを吐き出した今頃気付いたが、君は俺の左手の指に君の右手の指を互い違いに絡めて、掌を重ねている。この手を振り解くことは、もう、叶わない。

「行きましょう」

「? どこに? 勉強は?」

「そんなの意味無いわ。……私が新しい服、買ってあげる」

「? 何で?」

 君は先程の語ったその意義を全否定すると、上手に指を翻し、しかし離さぬまま、先を歩かんと俺の手を引く。急いで荷物を纏めると、そのままテラスより近い裏口から退庁し、何故か手を繋いだまま商店の並ぶ大通りへ。俺は母の厳しい教えの通り、車道側に立ち横へ並んで歩き出す。

「急にどうしたの?」

「いいから。貴方、服なんて持ってないでしょ?」

「まあ、この一張羅しか無いけど。……でも悪いよ」

「良いの。折角初めての報奨金が出たのよ。眠らせたって何にもならないわ。お金は使ってこそ価値があるのよ。レイフは何に使うの?」

「ばあちゃんとカタリーナに仕送りしたよ。身寄りのない俺を世話してくれた恩人だからね」

「それだけ?」

「うーん。残りは貯金。他に使い道が思い浮かばなくて」

「ふふ。貴方らしいわね。まあ、いきなりの大金だからね」

 君は手を引っ張りながら、くるりと振り返る。

「これがフリーランスの旨味ね。組織に対して五〇〇万ヒルドルなんてあまりに安いけど、派閥の口座への取り分が無い私達には、騎士団の一般管理費十五パーセントしか払わなくて済むからね。客先と直接やり取りが出来るのは大きいわ。宿代が持ち出しなんて些細なことよ」

 騎士となってたった一ヶ月で、約半分の二〇〇万ヒルドルもの大金を。本来派閥へ加入していれば手元に残るのは一割程のはずなのだが、俺は一夜にして小金持ちとなってしまった。まあ、ライラにとっては焼石に水かもしれないが。

「それに、エレオナイトの件もあるし」

「ああ。エレオナイトはどうだったの?」

「良かったわよ! 使用人二人の一年分の給与引当金と外壁の修繕費には充てられたわ。でも外門は直せなかったわね。端数は今後の運転資金にするわ」

 君は上機嫌にスキップしながら話し出す。当面の資金を確保出来たことに安堵しているのだろう。

「次の任務から、宿代はこの運転資金から出してあげるね」

「うーん。……ありがとう」

「あら? 浮かない顔ね?」

「いや、そんなことはないけれど」

 なんとなしに、女性にお金を出させることに対して、母のスパルタ教育から築かれた俺の信条が心をチクチクと刺す。

「何を気にしてるの? ヒモ男?」

「おい!」

 俺の心情をズバリと当てられ、次に続く言葉を失う。

「……宿代は自分で出すよ」

「別にエレオナイトは私一人の手柄じゃないわ。気にしなくていいのに」

 とはいえ、なんとなしに居心地が悪い。これから服代だって出してもらうのに。

「仕方無いわね。じゃあ今晩のご飯はレイフが奢って?」

 悪戯に、しかし無邪気な笑顔で君は俺の顔を覗き込む。

「うん。任せて」

 自身の役割を見つけて少し胸を撫で下ろす。

 すると、王都の大通りを、華美な意匠の馬車がゆっくりとすれ違う。

「身体が治るまでに、乗馬覚えないとな」

 ふと、カノリア村行きの馬車で感じた課題を思い出す。どうやら騎士の必須技能らしい。怪我から回復し始めた今、出撃は出来ないが乗馬を覚えるチャンスだ。

「別に貴族じゃないんだから乗馬なんて覚えなくていいわよ。今は蒸気機関だってあるんだから」

「でも」

「そんな伝統、役立たずの近衛騎士団が格を上げるための口上に過ぎないわ。乗馬じゃ移動中にお喋り出来ないじゃない」

「そうか?」

「今時、そんな古めかしい風習なんて別にどうでもいいわ」

「……まあ、そうか」

 どうせ、任務の移動は常にライラと一緒なのだ。君が乗馬する気の無いのなら、その技能が発揮されることはない。

「それにしても、グスタフの祝福って何なのかしら。『一撃をくれてやる』って言ってたけど、剣で首を刎ねれば終わりよね? 何それ? 死なないのかしら?」

「……あの日、グスタフは死のうとしてたんじゃないかな」

「グスタフを良い人と思っちゃ駄目よ。皆が貴方みたいな御人好しなんかじゃないの」

 君は敢えてグスタフへ罵る。俺が殺す際に、少しでも罪悪感を感じないように、という想いだろう。穏やかな、春のような君に、そんな言葉を紡がせてしまう自分が、…………憎らしい。

「うん。そうだね」

 それでも俺は否定しない。君の吐いた優しい毒に、少しでも柔らかな報いがありますように。

「あの時、俺と一緒に騎士団長殺しとなってしまったら、レーヴェンアドレール家の家名はどうしてたんだ?」

「うーーーーん。……考えてなかったわ!」

「は!? ……いや、まあ、俺が言える立場じゃないけど」

 やはり、ライラを巻き込んではいけない。君には血の滲む努力を積み重ねた先にのみ届く、輝かしい未来が待っている。それは報われなければならない。

「今、巻き込んじゃいけない、とか思ったでしょ」

 ライラは瞼を半分閉じた怪しげな眼差しで、疑惑をねっとりとぶつける。俺は図星を突かれ目を泳がせる。

「言ったわよね? 私たちはバディだって」

 彼女はその桜色の唇を尖らせる。

「そしたら私達で世界を牛耳れば良いのよ! 悪名は無名に勝るわ!」

 弾むような笑顔。俺が躊躇わないよう、敢えて朗らかに振る舞ってくれているのだろう。それでも、俺の表情筋は情けなく、硬直したまま。

「貴方は私の肩の荷を分け合ってくれるのでしょう? なら、貴方も私に遠慮なんてしないで」

 俺の本心を悟ったのか、少し浮かない表情でそれでも微笑んでくれる君。

「そんなの寂しいわ」

 何もかも、お見通し。参ったな、本当に。

「……私達は最後まで一緒。いいわね?」

 人の幸せを願う、願える君。そんな君だからこそ、この地獄への片道切符を、握らせる訳にはいかないんだ。

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