第6話

 翌日の朝以降、明莉は朝食を食べに来なくなった。


 あれから二週間が経過した今でも、明莉からの連絡は一切なく、健からも連絡はしていない。

 健、妹、父の三人になった朝食の時間は、たった一人欠けただけにも拘らず、一番喋る明莉がいなくなったことにより、閑散としていたように感じる。


『お兄ちゃん、明莉ちゃんと喧嘩でもしたの? どうでもいいけど、 早く仲直りしなよ。明莉ちゃん可愛いんだから、隙を見せたら他の男に取られちゃうかもよ』


 何の気なしといった様子の麻由の言葉が、健に重くのしかかった。

 出来ればその言葉をもう少し早く言ってほしかったものだ。


「おい、健、どうしたんだよ?」


 不意に自分を呼ぶ声が聞こえ、我に返る。声の方向に顔を向けると、眉を顰める佐古の顔が映る。

 周りを確認すると、他の生徒が移動を始めている。物思いにふけっていた間に、二限が終わっていたようだった。


「…ああ、何だ佐古か。どうかしたって何が?」

「『何だ』とはご挨拶だな! お前がボーッとして俺達の話聞いてないからだろ?」


 健は佐古のブスッとした表情を見て、少しふざけてお茶を濁すことにする。


「聞いてた、聞いてたよ。 俺はパイナップル入れるのは無し派だよ。あの甘酢ダレにみずみずしい果実は合わない」

「えー、それが美味いんじゃねぇかよ……ってちげぇよ! 誰も酢豚にパイナップルは有りか無しかの議論なんてしてねぇよ!」


 佐古はいつも通り気持ちの良い突っ込みをしてくれる。


「あ、でもピザにパイナップルは有りだよ。酢豚と何が違うのかと言われると難しいところだけどね…」

「確かにあれも美味い! でもそうじゃないんだよな! ちゃんと人の話聞こうな!」

 

 佐古はため息をついて、前の席に座る宮野を顎で指して言葉を続ける。


「だから、佐藤さんとなんかあったのかって、恵がお前に聞いてたんだよ」


 健が驚き、宮野に目を向けると、彼女は困ったような笑みを浮かべる。


「あはは、なんか最近はやけに視線が…じゃなくて、今日は佐藤さんこっちに話しかけてこないし、塩野君元気無さそうに見えるから、なんかあったのかなって」


 女の勘というやつだろうか、健と明莉の様子が普段と違うことに気付かれてしまったようだ。

 健は返答に困る。明莉が八坂と付き合っていることは、あまり広まってはいないため、勝手に言いふらしてしまうのはいかがなものかと思うが、有名人二人のビッグカップルであるため、バレるのも早いか遅いかでしかないだろう。

 数秒悩んだ末、二人には打ち明けることする。

 健は二人に顔を寄せ、声を落として話す。


「……騒ぎになるからあまり話を広げないでほしいんだけど、明莉がさ…八坂先輩と付き合いだしたみたいで…」


「「はぁ!?(ええっ!?)」」


 佐古と宮野が立ち上がり、大きな声をあげたため、健は慌てて人差し指を自分の口に当てて二人に静かにするように伝える。

 二人はキョロキョロと見渡すと、慌てて席に座り直して声のボリュームを落とす。


「す、すまん取り乱した。 でもそれはなんというか…死人が出そうなニュースだな…てか俺にもダメージが…」


 そう言いながら胸を抑えて苦し気な表情を浮かべる佐古に対して、宮野はショックよりも驚きの方が大きいようで、目を丸くしている。


「というか、佐藤さんって塩野君と付き合ってるんじゃなかったの?」


 宮野の言葉を、健がため息をつきながら否定する。


「いやいやいや、本当にただの幼馴染だよ。そういう関係になったことは一度もない。前にも言ったよね?」


 宮野はそれでも納得いってないような表情で、「いや…でも…それじゃあ何で…?」と呟いている。

 健は腕を組み、考えこむように天井を眺める。


「だからさ、俺も明莉との距離をどうするか悩んでてさ……」


 そう言いつつ、ふと時計を見るとすでに十二時を回っていた。

 もう高槻が待っている時間だ。健は荷物を持って慌てて立ち上がる。


「ごめん、ちょっとお昼は行くところがあって……」


 すると佐古が渋い顔をする。


「お前最近どこで食べてんだよ、学食の席とるの大変なんだぞ」


 前は弁当持参している健が席を取っていたため、席取りに苦労しているようだ。

 健は苦笑して答える。


「ごめんごめん、ちょっと最近できた友達と食べてるんだ」

「へぇ? 誰だよ?」

「う~ん、学年違うし、佐古は知らない人だと思うよ」


 健の言葉に佐古は興味無さそうに「へー」というと、それ以上深堀されることなく、自分の荷物を片付け始めた。

 そうだ、友達ならこのくらいの反応が普通だ。明莉のように挨拶にまで来ようとするのが異常なのだ。

 立ち去ろうとすると、宮野が立ち上がり、健に声をかけてきた。


「あの! 塩野君、その、いつでも相談に乗るからね?」


 そう言えば、以前にも同じことを言われた気がする。

 宮野は、健の明莉への気持ちを察してこんなことを言ってくれるのだ。なんて優しい友達だろうか。


「宮野、ありがとう。いずれ頼らせてもらうかも」


 健はそう言い残したあと、二人に別れを告げ、旧校舎のベンチへと早足で向かった。




「こんにちは、今日は何かしら?」

 高槻はそう言って本から顔を上げる。

 相変わらずしかめっ面をしているが、この二週間でだいぶ態度は緩和されたように感じる。


「今日は生姜焼き、先週のリベンジです」


 以前、生姜焼きは祖母より味が劣っていると高槻は言われてしまったが、その原因に心当たりがあった。

 祖母から教わったレシピを、生姜が得意でない明莉のために生姜を減らしたりと、分量を変えて作った部分があったのだ。

 おそらく明莉好みの味付けにしていたため、劣っていると感じてしまったのだろう。

 今日の生姜焼きは祖母のレシピを忠実に再現したため、彼女の求めている味になっているはずだ。

 そう思ってお弁当を口に運ぶ高槻の様子を、注意深く観察する。


「悪くない……けれど、やっぱり少し違うのよね」


 お弁当を口にした彼女は、神妙な面持ちでつぶやいた。


「え? そんなはずは……」


 祖母のレシピの材料はすべてノートに記録してある。分量に間違いはなかったはずだ。


「どこが違うかっていうのは…うまく説明できないのだけれど…。でも、十分よ。問題はないわ」

「……」


 高槻に気を使われているような気がして、健は黙り込んでしまう。

 レシピノートには材料とポイントだけメモしており、詳細な手順は記録していなかった。

 もしかしたら調理手順を誤ってしまったのかもしれない。


 いや、ひょっとしたらーーーー


「俺が教わった頃から、婆ちゃんが味付けを変えてた、とかかな?」


「え?」


 健の言葉に、高槻が箸を止めてこちらを向く。


「高槻さんがウチの店に来てくれたのって、どれくらい前の事ですか?」

「そうね……確か小学校高学年のころだったから、七年くらい前かしら?」


 健が婆ちゃんからこの生姜焼きを教わり、このノートを書いたのは小学五年の頃のため、今から九年前である。あまり時期は変わらないようだが、その二年の間にレシピを変えてたというのは十分あり得る話だ。


 その場合、高槻が以前の味を言葉で表現できない以上、様々な調味料を使ってしらみ潰しで探すしかないが、そのために毎日の弁当を生姜焼きにするという訳にもいかない。

であればーーーー


「高槻さん、ウチに来てくれませんか?」

「…は?」


 思わず出てしまった健の言葉に、高槻は絶対零度の視線と声色を返す。


 健は先ほどの自分の発言を思い返し、とんでもないことを口走ってしまったことに気付き、両手を振って弁明する。


「い、いや、変な意味ではなくてですね、婆ちゃんの生姜焼きの味を探すためです! うちで調理しながら味見してもらった方が早いと思っただけで!」 健は早口に説明するが、高槻の冷ややかな視線は変わらない。 「それにウチには妹もいますし、二人きりという訳ではないです! だから━━━」


「分かった、行くわ。」


「ですよね、無理ですよね…って、い…いいんですか……?」


 思わぬ展開に、健は驚愕する。

 高槻はふいと視線を逸らして、少し照れた様子で口を開く。


「まだあなたと話し始めて数週間しか経ってないけれど、変なこと考えるような人じゃないってことくらいは分かってるから。」そして、高槻は俯いて呟く。「…それに、私ももう一度、あの味を食べたいもの。」


 彼女の言葉に、健は彼女が以前ウチの前にいた時の言葉を思い出す。

『それでここの定食屋、ずっと閉まっているのだけれど、どういうことかしら?』

 そう彼女は言っていた。おそらくうちに足を運んでくれたのはあの時の一度だけではなかったのだろう。それも、婆ちゃんの味をもう一度食べたくてきてくれていたのだ。


 理由は分からないが、高槻は婆ちゃんの生姜焼きに相当な思い入れがある。

 健は先日の彼女への恩返しに、その味をもう一度食べさせてあげたい、と考えていた。


 やる気に満ち溢れた健が、生姜焼きに合いそうな調味料をメモ帳に書き出していると、高槻が思い出したかのような声を上げる。


「あ、そういえば今日って月末よね? 手を出してくれるかしら?」


 健は疑問に思いつつも、言われた通り手を出すと、その掌の上にポンと紙幣を複数枚乗せられた。

 昼食代だろうか。そういえば一食当たりいくらにするという話はまだしていなかった。

 そう思いつつ、紙幣を確認して目を丸くする。なんと、乗せられた紙幣はすべて一万円札だったのだ。

 突然大金を渡されて手を震わせる健をよそに、高槻はあっけらかんと言葉を続ける。


「昼食代よ。今月は二週間だったから十万、来月は四週間あるから二十万でどうかしら?」

「いやいやこんなにいらないですよ! なぜこんな大金をポンと渡せるんですか!?」

「あ、ごめんなさい、何かに包んだ方がよかったかしら? でも封筒がなくて…ちょっとまって、今ティッシュに包むから」

「そういう意味じゃないです! お金をティッシュに包むっておばあちゃんですか!?」 高槻は『おばあちゃん』という単語に眉をピクリと動かす。危機を感じた健は、矢継ぎ早に言葉を繋げる。「そうじゃなくて、こんなにもらえないです! 一食一万計算はどう考えても暴利です!」


 そういって健がお金をつき返すが、彼女は渋い顔をして受け取ってくれない。


「学食のまずい生姜焼き定食八百円と比較して、相応かと思ったのだけれど?」

「その評価はありがたいんですが、そもそも家族の分を作るついでなんで、本当にお金はいらないです」

「そういうわけにもいかないわ。労働には相応の対価が必要よ」


 高槻は腕を組んで健を睨む。彼女の瞳には確固たる意志があり、彼女の性格からして意見を曲げないのは見て取れた。


 健は少し考えた後、十万円のうち一万だけ抜き取る。


「分かりました、これだけもらいます。ただ、二週間でこれでも多いので、来月分もこれに含めるってことでいいです。」


 高槻は眉を顰めて納得していないような顔をしていたが、健の本気の目を見て、折れた様にため息をついた。


「…随分と殊勝なのね。分かったわ。」そう呟くと、やっと健の手からお金を受け取ってくれた。


 健がつき返した九万円ではなく、抜き取った一万円の方を。


「そっちじゃなくて、九万円を受け取ってください!!」


 昼食代半月分で、九万を取るやつはどこも殊勝ではない。


 その後、小一時間の説得により、一食五百円ということで何とか話をつけた。高槻は納得いっていないようだったため、健が無理やり押し切る形となった。健は高槻の金銭感覚が如何にバグっているかを思い知ったのだった。

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