第29話 手配書
大皿のギレニアオオムカデの他には、レバーパテのバゲットに香草とチーズの味わいが豊かな肉のフリット、茸に玉ねぎのみじん切りとテリマヨを和えたソースをかけて焼いたものなど、おいしそうな料理がどんどんやってくる。スープ系はポタージュが主だったメニューだったが、エデルはこれは頼まなかった。
商隊で捕まっていたとき、それから今日までの療養食で飽きるほど食べたからだ。
それ以外はほとんど初めて食べるものばかりだった。どれもボリューム満点で、味はエデルが慣れ親しんだものよりやや濃い目である。パンチが効いていておいしかった。
太陽の光が届かない黒層では植物を育てることが難しいから、どうしても肉食に偏りがちになるらしい。だから味付けも肉に見合った濃いソースが主流になるのだそうだ。
エデルは好き嫌いがないから大満足だが、惜しむらくはこれまでの粗食のせいで食べられる量が減り、早々にお腹いっぱいになってしまったことだった。
まだまだ食べたいものがいっぱいあるのに、お腹が受け付けない。非情に悔しい。
仕方がないので、蜂蜜酒をちびちびと飲みながらルーシャスとナイジャーの食事が終わるのを待つことにする。ふたりの胃は無尽蔵なのか、次から次へとエデルの気になっていた料理を注文しまくっていた。
眺めていると余計に悔しいので、エデルは周囲に視線を転じる。
生まれ育った階層と別の層に来たのは初めてだが、地元の人らしい店員も、遠くから来たような観光客っぽいグループも、誰もがエデルが
地底層で生まれ育った人も、エデルと変わらない人間なのだと思わされた。
ただ時折驚かされるのは、やってくる客が高確率で互いの額にキスをし合っていることだ。
実のところ、ここで食事をし始めてからもう三回は見ている。一回目は友人――あるいは恋人同士で、二回目は親から子へ。そして今目に飛び込んできたのは、老齢の男性から、息子くらいの年齢の――といっても、こちらも三、四十代に見える――男性の額に唇を押し当てていた。
こうなると、単に恋人間や親子間の愛情表現というわけでもなさそうな気がしてくる。
エデルはふたたび眼前のナイジャーを見やった。
「さっきナイジャーもわたしにやったけど、
「でこちゅーのこと?」
口にするのも恥ずかしかったのだが、あっさりと尋ねられて頬に熱が上る気配がした。
コクコクとうなずくと、ナイジャーはわははと笑ったのだった。
「やっぱりこれって黒層独自の文化なのかあ」
ナイジャーは麦芽酒から切り替えていた葡萄酒を飲み干す。
「そう。黒層流の挨拶は全部これなんだよね」
言いながら、体を伸ばしてテーブル越しにルーシャスの額にキスをした。
大きめのテーブルだが、それよりもはるかに体格の良い彼にとっては、この程度の障害は些末なことらしい。
突然ナイジャーがルーシャスにキスをしたことより、そっちのほうに気を取られて目を丸くしてしまう。
キスをされたルーシャスは弓なりになった眉をぎゅっと寄せて、心底嫌そうな顔をした。
「全部は言いすぎだ。親兄弟、親族、友達、仲間くらいの間柄なら当たり前にやるが。……飯を食ってるときにはやるな」
「ごめんごめん。でも俺とルースの間柄でも別に違和感のない挨拶じゃん?」
「上司部下の関係ではやらんだろ」
「上司から部下ならやるんじゃない? 俺、黒層の組織で仕事したことないからわかんねぇけど」
エデルが首をかしげると、ルーシャスが自身の額を指さした。
「元は、親から子にする挨拶の基本がこれなんだ」
「ほんとはね、挨拶っていうか、親や親族の大人が子供に魔力をあげるためにやってるんだよね」
「魔力をあげるの? キスで?」
エデルが目を瞬く。
「そ。昔の黒層の人間ってほんと魔力がほとんどなかったからさ。特に子供は魔力が足りなくて、遊びに行くにしろ働きに出るにしろ、朝家を出て夕方帰って来るまでに魔力切れを起こして倒れるなんてヤツもザラにいた。だから出かける前の子どもに、親が挨拶として魔力を渡すんだ」
「魔力というのは、物理的な接触が深ければ深いほど相手に譲渡するのが簡単なんだ。見ただけでも相手の
「現代じゃ、出先で倒れる子供もほとんどいないけどな。出かける前の習慣だったのが形骸化して、今では親しい間柄なら誰にでもやるようになったんだ。――そういう意味で言えば、さっき俺がエディにやったのは正しく〝魔力の再構築と魔術式の付与〟なんだけど」
ナイジャーが「食うか?」と示したフリットの最後をルーシャスが口に入れる。
実はあれの〝肉〟も彼が苦手としそうな生き物なのだが、エデルは賢明にも黙っておいた。原材料はともかく、淡白で弾力のある身質をしているから、香草やチーズなどの香りの強い食材とよく合うのだ。
ルーシャスはそれを麦芽酒で流し込み、口を開く。
「補助魔法を自分以外に施す場合で一番手っ取り早いのは、発動時に対象者に触れておくことなんだ。それを普段から挨拶レベルでやってるから、黒層の人間は他者に補助魔法を施すのがうまい」
だからナイに頼んだ、というルーシャスからナイジャーに視線をスライドさせる。
すると、かち合った竜の目がきゅうと細くなり、甘く溶けたのだった。
「俺、黒層出身だから」
「そうだったんだ⁉」
彼の場合、竜人族の血筋が混じっていることのほうが印象的で、あまりどこの階層の出身なのかは考えていなかった。というより、ルーシャスとふたり揃って
「そうだぜ。だからなんかあったらまたキスしてあげるな?」
お代わりした葡萄酒のグラスを揺らしたナイジャーは、幾分か酒が入って、彫刻のように整った顔立ちがわずかに紅潮している。
垂れた目尻は朱を帯びて、さらに甘く誘うように睫毛が瞬いた。
しかしエデルは「そういうことだったんだ」と納得してうなずいてから、しっかりとナイジャーを見据えたのだった。
「次やるときは先に言ってね。必要なことってわかっててもびっくりしちゃうからさ」
「……そんだけ?」
「うん? うん」
他に何か必要だっただろうかと首をかしげたが、ナイジャーはルーシャスに向かってため息をついたのだった。
「……こりゃ手強いわ。おまえ、ほんとに大丈夫なわけ?」
「バカなことを試すな。おまえは本当に酔うと見境がないな」
ルーシャスは最後の麦芽酒を飲み干し、一息つく。
「飲むのもそこまでにしておけ。明日は朝一番に発つんだぞ」
「わーかったよ。エディは大丈夫? 酔い過ぎちゃったり飲み足りなかったりしてない?」
今日はエデルも酒を飲んだ。病み上がりだから控えめに、と言われていたから、蜂蜜酒を二杯程度だったが。
村で大人たちに勧められる酒は好きではなかったが、今日の蜂蜜酒は特別おいしかった。
エデルは満面の笑みでうなずいたのである。
「うん。蜂蜜酒おいしかったー」
「なら良かった」
「今日の蜂蜜酒、すごくおいしかったな。黒層の地酒だったりするの?」
「いいや? 蜂蜜酒はどこにでもありふれた酒だな。今日エデルが飲んだのはどちらかというと緑層で作ったものじゃないか?」
ルーシャスに言われて、エデルは目を丸くした。
「そうなの? 黒層のお酒は特別なものなのかと思ったのに」
「エディ、なかなかイケるクチだな。なら明日も次の街で飲もうな」
「しばらくは移動続きだから控えめにな」
宿に戻るか、と席を立とうとしたときだった。
食堂の一角がどっと沸き起こる。満席のテーブルからも何人もが席を立ち、その賑やかな中心部へと向かっていく人がいた。
「なに? あれ」
みんなが注目している。
席を立って見ている人も多い。だから騒ぎの中心がなんなのか、エデルにはよく見えなかった。
落ち着き払った隣のルーシャスを見やると、彼も金の目はそちらに固定しながら答えてくれた。
「依頼の更新だな」
「依頼?」
「各
「ここ、ギルドじゃなくて食堂なのに?」
「人の多いところに貼り出すのが一般的なんだ。食堂、宿屋、ギルドと提携してるなら店先にも貼り出す。もっと小さな街だと寄合所、とかな」
エデルは納得してうなずいた。
「ああ、そっか。それなら村にもあったかも。一番大きな集会所に貼り出してたよ。……村で貼り出してた依頼はほとんど村の中の人同士の依頼だったけど」
「小さな村はそんなものだ」
ルーシャスは笑って、それからエデルを促す。
「見に行ってみるか」
「良いの?」
「どうせ確認してから帰るつもりだった。更新されたならちょうど良い」
ルーシャスに誘われて人だかりのほうへ向かうと、なるほど壁際一面にびっしりと依頼が貼り出されている。
エデルはこんなにたくさんの依頼が貼り出されているのを見たことがない。驚いて呆然と眺めていたが、一緒に来てくれたルーシャスは前に行けとばかりにエデルの背を軽く押した。
「そこからじゃ何も見えないだろ」
「ああ、うん」
そこにいる誰もが、自分に関係のある依頼を目にしようと押し合いへし合い揺れている。その隙間を縫うように割って入り、ようやく傭兵業向けの依頼が貼り出された場所の最前までやってきた。
「何か依頼を受けたいの?」
「いいや。忘れてるだろうが、今が依頼遂行の真っ最中だ。おまえのじゃなくて、もともと俺たちが受けていたやつのな」
「あ、そうだった」
だから、エデルの依頼をこなすために青層に行くのではなく、一旦黒層に連れていくと、彼らと出会ったあの夜に言われたのだった。
「じゃあ何のために――?」
「確認していたことがあったからだ。……ほら、ついに出たな」
「え?」
ルーシャスが一点を指差して、ぐっと声を低くした。
「おまえの手配書だ」
「――え……?」
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