第26話 髪の持つ意味
「エディ、灰色じゃなくて銀髪だったの⁉」
部屋に戻ると、開口一番ナイジャーが大声を上げて頭を抱えた。
「え? うん。汚れるとすぐに灰色っぽくなるんだよね。恥ずかしいな」
エデルの髪は細く、癖があって、その上色が薄いので埃がつきやすく目立つ。そのせいで、乾燥した土地柄のギレニア山脈のあたりでは、砂埃やら
もとの色を保つほうが難しいのだが、そう指摘されるとこれまでの汚れがどれほどひどかったのか思い知らされるようで、ちょっと恥ずかしい。
濡れた髪を隠すようにぐいぐいとタオルで拭うと、しかし彼は明後日の方向に嘆いたのだった。
「だったらロイヤルブルーじゃなくてネイビーだったのに!」
「なにが?」
「服だよ! せっかくエディに似合う色を選んだのに……。あーあ。俺の見立てが失敗するなんてなあ」
ロイヤルブルーもネイビーもほぼ同じ色だと思うのだが、何が違うのだろう。
そっとルーシャスを見やると、彼は金の目を伏せてただ首を振った。付き合いが長そうなルーシャスでもナイジャーのこだわりはよくわからないらしい。
ルーシャスはエデルを大きな椅子の上に下ろした。
椅子の前には備え付けの机がある。その壁面に大きな鏡があるところを見ると、机というよりはドレッサーの役割を果たしているようだった。
「髪、乾くともう少し淡い色になるのか? きれいな銀髪だな」
その鏡越しにふたりの動向を見ていると、ナイジャーがにこにこと近づいてくる。その手には何やら筒のようなものを手に握っていた。
一方でエデルを降ろしたルーシャスは、新しいタオルを手に背後に回っている。まさかと思ったが、この状況では嫌でも悟らざるを得ない。
このふたり、エデルの髪を乾かす気でいる。
「自分でやるよ⁉」
さすがに驚いて椅子ごと後じさる。
十七にもなれば、養父にも髪に触れられるのは恥ずかしい年頃だ。なのに、家族でもない、特別な関係でもない男の人に髪を拭かれるなんて、とても考えられなかった。
ものすごく自然に世話を焼こうとするからうっかり任せてしまいそうになったが、もしやこのふたり、
ふたりがどこの層の出身かはわからないが、成人年齢に驚いていたことからもその可能性がある。
エデルは確認するために、そうっと尋ねた。
「あの、さ。緑層では人の髪にはあんまり触らないんだよね。その、髪ってさ、魔力が一番溜まる場所だから大事なもので……。髪に触るのって、恋人同士とか夫婦とか、そういう間柄でしかやらないものなんだ。あとは小さい子どもだったら親には触らせるかもしれないけど。……緑層以外ではそういう慣習とか社会ルールみたいなものってなかったりする?」
髪は人体の中でもっとも魔力を多く有する。だから特別な理由がない限り、人は髪をあまり切らない。生活の邪魔になれば切るが、男女を問わず腰くらいまでは当たり前に長さがあるものなのだ。
髪が長いと仕事の邪魔になる職業の人たちや、長い髪が邪魔になりやすい子どもや老人は短いこともあるが、それでも結えるくらいの長さはある。
そういう、誰にとっても大切な髪について、緑層の子どもは成長過程で誰しもが教えられることがある。
――たとえ友人であっても、安易に人の髪に触れてはならない。
他人にはみだりに触れたり抱きつかないとか、キスしないとか、そういう社会のルールのひとつだ。
エデルにとっては、本人の許可なく髪に触れている人を見かけたらぎょっとしてしまうものだし、それを許している間柄だとしたら「恋人同士なのかな?」と思うわけだ。
しかしあまり頓着していなさそうなふたりを見る限り、もしかして緑層だけに習慣づいたルールなのかもしれない、と初めて気付いた。
だから恐る恐る尋ねてみたのだが、鏡越しのルーシャスは「ああ、なんだ」と軽くうなずいたのだった。
「それなら黒層から白々層まで共通認識だぞ。程度の差はあるが……」
「
「逆に
髪に触れることが特別な意味を持つのは、どうやら共通認識らしい。だがどうにもエデルが思っている認識と違う気がする。
エデルが気にし過ぎなんだろうか。なんだかわからなくなってきて頭を抱えると、ルーシャスが苦笑して両手を上げた。
「緑層の人間は今でも髪を特別に扱う地域が多いな。触れられたくないのなら触らない。だが、きちんと乾かせよ」
と、タオルを渡してくれる。エデルはホッと息をついた。
「ドライヤー、使い方わかるか?」
その隣でナイジャーが持っていた筒を差し出してくれた。しかし、それには見覚えがない。
「なあに? これ」
「髪を乾かすための魔導具だな。タオルで拭うだけよりずっと早く乾くよ」
言いながら、ナイジャーは直角に繋がった筒の持ち手の部分を見せてくれる。
「ここに魔鉱石を入れると、こっちの口から温かい風が出てくるんだ。風魔法と熱魔法を組み合わせた魔導具だな。吹き出し口は触ると火傷するくらいには熱くなるから気をつけろよ」
なるほど、便利そうな魔導具だ。けれども使われているのはふつうの無色透明の魔鉱石で、だからエデルひとりでは使い物にならなかった代物である。どうりでこれまで見たことがなかったはずだ。
「もっと青層や
「魔鉱石は俺の魔力で満たしてあるから好きなように使ってくれ。足りなければ補充する」
と、ルーシャスは気軽に請け負うが、ふつうの魔鉱石だってそう気軽にほいほいと満たせるものではない。
このドライヤーだって、直径四センチほどの平たい魔鉱石が三つ使われているのである。エデルの住んでいた村では、この大きさの魔鉱石だったら大人でも一日に十個満たせるくらいが平均だった。
「もう三つも満たしてくれたんでしょう? 他にも魔鉱石に魔力を溜めなきゃいけないときなんていっぱいあるのに、良いの?」
魔力切れを起こしたりしないのかと尋ねると、ルーシャスはちょっと面映そうに笑った。
「そんなふうに気を遣われるのは久しぶりだな。……気にしなくて大丈夫だ。俺もナイもおまえの思う一般人よりはよほど魔力量がある。確かにエデルほどじゃないが」
「あ、そっか。ふたりとも自由戦士だもんね。ごめん」
彼らは魔道士より戦士寄りだが、それでも戦うことを生業にするなら一般の人とは比べ物にならないほどの魔力量が必要になる。当然、魔力量の底上げのために長い間修練を積んできたはずだ。
そんな人達を相手に魔力切れを心配するのは、下手をしたら失礼に当たる。彼らが軽く笑い飛ばしてくれて助かった。
髪を乾かすのは自由にやって良いと言ってくれたので、ドライヤーと櫛を借りて、もつれを避けながらあらかた乾かす。その間に、ルーシャスとナイジャーは食事の手配をしてくれていた。
基本的に、宿屋は
気前のいい上客からしっかりと心付けをもらっていた宿は、これまでも毎食エデルのために特別な療養食を作り、部屋まで運んできてくれているらしかった。
確かに、熱でウンウン唸っている間にも、何かしら寝台の上で口にしていた覚えがある。あれは宿の人が特別に用意してくれていたものだったのか。
乾かし終わると、ようやくもとの癖のある銀髪が戻る。エデルの髪は細いから、うねるわりにボリュームがすくなく、すとんと腰のあたりまで落ちている。
その左肩の一房――正確には腕の太さくらいの幅で、ごっそりと肩から切り取られていた。フロウの巣穴から逃げるときに彼らにあげた部分だ。
これも切りそろえないといけない。エデルは他の同年代の少女たちのように髪を結ったり飾ったりして楽しむ趣味は持っていないが、さすがにこのままで良いと思える感性もしていない。それに、あれだけ洗って櫛で梳いても完全に取り切れなかったもつれがまだ残っている。それも切ってしまわないといけなかった。
「ねえ、この間貸してくれたナイフ、まだある?」
「あるぞ。なにするんだ?」
ルーシャスが荷を探り、渡してくれる。エデルは受け取ったその刃をもつれの部分に当てた。
「もつれちゃったとこ、ここだけどうしても取れなくて。あと髪も揃えたいし……」
瞬間、ふたりともが絶叫した。
「待て待て待て‼ 何をするつもりだ⁉」
「やめろやめろ‼ せっかくきれいな髪なのに!」
さすがにびっくりして動きを止めると、ひったくる勢いでルーシャスにナイフを奪われた。
剣の扱いも心得ている人だが、そう乱暴に刃物を扱われると心臓がひやっとする。
「もつれちゃうと、頭が引っ張られて痛いから早く切りたいんだけど……」
「切るな! 俺が整えるから!」
「え? ええ……?」
必死なルーシャスに肩をがしっと掴まれ、ナイジャーは扉を開いて叫んでいる。
「すみませーん! 鋏貸してー!」
あれほど髪に触れられるのを嫌がったエデルだが、結局、ナイジャーには短くなってしまった部分に合わせて残りの部分を切って整えられ、ルーシャスには丁寧に梳られてもつれを解いてもらったのである。
養父でもない男の人に髪を触られ、最初こそ首をすくめて身を固くしていたエデルだったが、鏡越しのルーシャスはエデルの髪を真剣に大切にしようと扱ってくれている。そんな姿を眺めているうちに、やがて、触れられるのを嫌がった自分のほうが心の狭い人間に思えてきた。
次第に緊張に身を固くしているのもばかばかしくなってきて、ルーシャスになら良いやとふっと力を抜いて、椅子の背もたれにもたれる。
そのとき、鏡越しの金の目が嬉しそうに溶けたのを目の当たりにしたのだった。
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