第21話 幕間 ルーシャスの小芝居

 すっかり寝入った――というよりも意識を失ったエデルを背負い、ルーシャスはナイジャーを伴って緑層りょくそう黒層こくそうの境にたどり着いた。

 ここはギレニア山脈の西方、通称カルネーツの大穴である。

 緑層を代表する山脈であるギレニアには、黒層への入口が多数存在する。上空へ飛ばなければたどり着けない青層せいそう以上と違い、緑層と黒層は地続きだから、土地の様々な場所に二層をつなぐ出入り口があるのだ。

 緑層は広大な大陸と海、それからいくつかの島々を抱えた層であるが、黒層はつまり、緑層と呼ばれる大地の下――いわゆる地底を指す。

 緑層のあちこちの山の中にぽっかりと開いた洞窟や、大陸のど真ん中をくり抜いたような大穴が、黒層と呼ばれる最下層への入口だった。

 今、ルーシャスたちがたどり着いたのは、ギレニア山脈西方に位置するカルネーツ山、その中腹にある大洞窟を擁する街だった。

 街、といっても山中の集落である。緑層と黒層をつなぐ交易の街でもあるから、周囲の村に比べればいくらか人口が多いと言える程度で、実際には周辺の山村がいくつか集まった程度の規模だった。

 ルーシャスはこの街で、まずエスローを宿屋に預けた。

 彼はこの先の黒層には連れていけない。否、連れて行こうと思えばできないこともないが、黒層はエスローにとって好ましい環境ではないのだ。

 広い大地を駆けることに特化したエスローは、閉塞感のある場所を嫌う。それに黒層は地底層と言われるだけあって、狭い道や高低差、段差がとにかく多い。エスローの巨体は連れ歩くと人の邪魔になるし、かといって穴と穴の間を飛び回れるほど浮遊魔法に強いわけでもない。移動手段としては緑層ほど役には立たないのだ。

 ルーシャスは宿屋の主人と交渉して、エスローを預かってもらうための料金を支払った。しかし、自分たちは今日ここに泊まるわけではない。今は一刻も早く黒層に入ってしまいたかった。

「本当に行くのかい? その、背中の娘さん、ちゃんと医者に見せたほうが……」

 エスローを預かるには十分すぎる金銭を受け取った宿屋の主人は、しきりとルーシャスを引き止めたがった。

 背中でぐったりと意識をなくした娘のひどい有り様に善意から心配したのが半分、残りの半分は気前の良い上客を逃したくないからだろう。

 ルーシャスはエデルを背負い直して首を振った。

「いや、このまま穴に入る。知り合いがいるんだ。そこに厄介になるよ」

「だけどあんた、何があったのか知らないけどそんな女の子連れて……」

 宿屋の主人は控えめながら、それでも詮索せずにはいられないと言わんばかりにルーシャスとその背中のエデルを見比べる。

 確かに、見ようによっては誘拐にも思えるだろう。連れ去られまいと激しく抵抗した女を気絶させ、運んでいる最中ではないのか――。

 宿屋の主人の脳裏に、そんな疑いがよぎったのかもしれない。

 ルーシャスは敢えて固い顔で続けた。

「彼女は妹なんだ。少し前に嫁いだばかりだったんだけどな。婚家でこんな目に……」

 急に声を潜めたルーシャスに、宿屋の主人が息を呑んだ。

「嫁ぎ先で? 一体何があったんだい」

「義理の家族に理不尽な目に遭わされていたらしい。夫も味方にはなってくれず日々奴隷扱いされていたと。朝から晩まで働かされ、飯もろくに与えられず、挙げ句には危険な仕事を任されてこの有り様さ。もちろん外部との連絡も絶たれて、俺が時折様子を見に行こうと思っても門前払いだった」

「ひどい……」

「義理の家族は多忙だ外出中だとそれらしい理由をでっち上げて会わせてくれなくてな。俺も最初は婚家で頑張っているならとそっとしておくつもりだったんだが、手紙のひとつも寄越さない。これはいよいよおかしいだろうと周囲にバレないよう接触を図ってみたらこんなことに……」

 ルーシャスは唇を噛む。大切な妹がこんな辛苦を味わうことがわかっていたら絶対に嫁になどやらなかった、と後悔を滲ませた。

「そりゃあ、お兄さん。あんたは悪くないよ。誰もそんなこと予想できるもんかい」

「だが……。あいつらの言うことを鵜呑みにせず、もっと早くに行動を起こしていれば良かった」

「妹さんを助け出せただけでも立派だよ。――しかし、それならなおさらうちに泊まっていったほうが良い。妹さんには養生が必要だよ」

 宿屋の主人は憐憫を込めてルーシャスの背のエデルを見やる。彼女には今、手持ちの毛布を頭からかぶせて顔を隠していた。

 これでは堂々と〝訳ありの女を背負っています〟と公表することになるが、顔を知られるよりずっと良い。それに、今ここで街の情報源となる宿屋の主人の同情を引いておけば、あとは彼が勝手にこの悲劇の兄妹の物語を広めてくれることだろう。

 ルーシャスは固い面持ちを崩さずに首を振った。

「義理の家族は、どうやら妹の前にも嫁を迎えてはこんな仕打ちを繰り返していたらしい。嫁と言う名の奴隷が彼らには必要なんだ。だから外に噂が漏れることを危惧して妹を取り返そうと探されている。一刻も早く手の届かない場所へ逃げたい」

 沈鬱なルーシャスに、宿屋の主人の顔色が変わる。

「逃げるったってあんた、行き先はあるのかい」

「黒層に知人がいるんだ。そいつを頼ってから考えるよ」

 ルーシャスは少し疲れた笑みを見せながらさらに続ける。

「俺たちがここへ立ち寄ったことと、これからのことは誰にも言わないでほしいんだ。もしかしたら義理の家族が探しに来るかもしれない。だが絶対に口外しないでほしい」

 宿屋の主人は真剣な顔でうなずいた。

「そりゃもちろんさ。絶対に口にするもんかい。だいたい、うちはこれでも上宿で通ってんだ。顧客の情報プライバシーの取り扱いには何より気をつけてるんだよ。お客さんの信頼ってもんがあるからね」

 当然だ。それを見越して、わざわざこんな上宿を選んでエスローを預けに来たのだ。

「ルース、準備できたぜ」

 厩にドゥーベを預けたナイジャーが戻ってきた。それを見やって、ルーシャスはほっとした明るい笑みを浮かべる。

「ああ、ありがとう。――そういうわけだから、くれぐれも頼む」

 そう言って、ルーシャスは懐から更に緑魔鉱石りょくまこうせきを取り出し、そっと宿屋の主人に握らせた。

 彼は手にしたそれが並みの魔鉱石でないことを確認すると、はっとしたようにルーシャスを見る。

 緑層りょくそうでは魔鉱石が金銭の代わりになる。青層せいそう以上では通用しない常識だが、これが役に立つときもあるのだ。

 ちなみに、今渡した緑魔鉱石はエデルの持ち物だった。そこから一旦魔力を放出し、空にしてからルーシャス自身の魔力で満たしている。

 義理の家族はいないが、今後エデルを探す連中は間違いなく現れるだろう。

 彼女の膨大な魔力量を売り物にしようと企む輩だ。確実に魔力の扱いに長けた人間が出てくるはずである。そのときにエデルの魔力の痕跡に気づかれたら、重要な手かがりとなってしまうのだ。

 ルーシャスとナイジャーは移動を始めてすぐ、エデルから緑魔鉱石を預かって、彼女の魔力の痕跡をすべて書き換えていた。

 宿屋の主人はカウンターの内側から虫眼鏡のような器具を取り出し、それに緑魔鉱石をかざす。そうして次に、ルーシャス自身をもそれを通して覗き込んだ。

 オーソドックスな魔力探知用の魔導具である。

 ルーシャスのように戦士であったり、あるいは魔道士だったり、魔力の扱いに特化した人間でなければ詳細な魔力探知はできない。感知はできても、それが誰のものか正確に判断するには技能が必要だ。

 宿屋の主人が持つ虫眼鏡の魔導具は、そうした魔力探知を誰でも簡単にできるようにする道具だった。

 魔鉱石で支払いをするとき、受け取る側はそれが支払いをする本人の魔力で満たされたものであるかどうかを確認する。盗んだ魔鉱石で支払ったりしていないかどうか、犯罪を阻止する役割を果たしているのだ。

 宿屋の主人は確かに魔鉱石の魔力がルーシャスのものであると認めると、しっかりとうなずいてからナイジャーを見やった。

 彼は? と問う視線が投げかけられる。

 同時に、ナイジャーもルーシャスをちらと見やった。

 相棒の竜の目を言語化するなら、「どういう感じ芝居?」といったところだ。

 ルーシャスは如才なく笑みを作り、隣に立ったナイジャーの胸を軽く打った。

「夫の協力もあって無事に妹を連れ出せた。早いところ休ませてやりたいからな……。もう行くよ」

「ああ。気を付けてな。エスローは任せなさい」

 薄い青い目をまん丸くしたナイジャーは、ルーシャスと宿屋の主人、それからもう一度ルーシャスをじっくりと見つめ、しかし懸命にも何も言わなかったのだった。

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