第4話 ふたりの男①

「止まれ!」

「――あっ!」

 急に足元に飛んできた何かに驚き、ドゥーベが立ち止まる。

 もう疲労で泡を吹き、このまま走り続けるか倒れるかしかできない状態だった。そこへ、急に足止めを食らったのである。

 ドゥーベは前脚を上げて甲高く嘶き、大きくよろける。馬上にあったエデルは何かにすがる間もなく振り落とされた。

 ここは、岩肌や倒木もそこかしこにある山中である。この高さから振り落とされては無事では済まない。騎乗していたドゥーベはかなりの体高がある。疲弊した身体ではろくな受け身も取れず、大怪我は免れない――はずだった。

「おっと」

 ぎゅっと目を瞑る。衝撃に耐えようと身を固くしたものの、しかしその気配は一向にやってこない。それどころか、ドゥーベを足止めした誰かにやわく抱き留められたのだった。

 エデルは恐る恐る目を開けた。

 眼前に紫紺が揺れる。その隙間から夜明けのような黄金が覗いた。今はすっかり日も暮れた、夜のさなかであるはずなのに。

「よしよし、生きてるな」

「は……へ?」

 目を白黒させたエデルより体ふたつ分ほど離れたところで、やっぱり耐えきれずに倒れたらしいドゥーベがひどく暴れている。それを宥めようとする人の気配がもうひとり分あった。

「どうどう。大丈夫だ、大丈夫。落ち着け。そうだ、傷つけたいわけじゃない。だから大人しくしてくれな。――よし、いい子だな」

 人だ。男の人がふたりいる。こんな山の中に。

 ドゥーベは足場を選ばないから、彼が走っていたのは整備された道ではなく、ほとんど獣道だった。崖を下り、森を駆け抜け、岩場を飛び越えてきたのだ。

 現にこの場も、見通しの悪い林の中だ。だというのに、人がいる。

 エデルは身を固くした。

 自分は売り物にされる予定だったのだ。こんな山中では襲ってくる獣だって怖いが、それ以上に人のほうが警戒すべき相手だった。目の前の人が、エデルを連れ戻すために追ってきた人でないとは言い切れない。

 ドゥーベはエデルの状況をわかっていたのか、ずっと人目にもつかない獣道を選んで走ってくれていた。だからこそ、こんなところで人に出くわすとは思ってもみなかったのだ。

 助けられた、と思うのだが、警戒が解けない。肩で大きく息を乱しながら、それでもできる限り息をひそめていると、「よくがんばったな」とのんびりとした労りが降ってきた。

「エスローがあんなになるまで馬上にあったのに、お嬢さんもよくしがみついてたな。もう大丈夫だ」

 ああなるほど、とエデルは肩で息をしながら頭の隅で理解した。

 この人たちは、エデルが暴れ馬の上でなす術もなくしがみついているだけだと思ったのだ。止めるに止められず、降りるに降りられなくなった娘を救おうとしてくれた、というわけだ。

 エデルは整わない息の中でゆるく首を振ったが、止めてほしかったわけじゃない、という言葉はついに音にならなかった。

 逃げなきゃいけないのに、かろうじて音になった声は素直な欲求だけを訴えた。

「み、ず」

「ん? ああ、今飲ませてやるから」

 エデルを抱き留めた男のほうが抱え起こそうとするので、それを制して言った。

「ドゥーベに」

「ドゥーベ?」

「こいつのことだろ」

 もうひとりが近づいてくる。首を巡らせる元気もなくて、近づく足音を聞きながら、見知らぬ男の腕の中で息をひそめるしかなかった。

「馬の心配してる余裕、あるのか?」

 ここまで、どれくらい走り通しただろうか。

 混乱に乗じて逃げ出してから、もう何時間経ったかわからない。

 既に日はとっぷりと暮れて夜になっていた。その間、何度か川を見つけては水を飲むくらいの休憩は取ったが、それだけだ。

 ゆっくり休んでいる場合ではなかったのだ。いつ追手が迫ってくるのかもわからない。あの商隊の人たちの中に生き残った者がいるのかどうかすら、確認する暇もなかった。

 エデルはドゥーベの馬上にあったから、浮力を持つ彼のおかげで揺られているだけで良かった。しかし、ドゥーベのほうがもう限界だ。彼は水を飲んでいた時間以外、ずっと走り通しだった。

 エデルだってドゥーベに乗せてもらっていただけなのに、体力はとうに限界を越えていた。

 いくらエスローが魔核に浮遊属性を持ち、地を滑るように空を飛ぶからといっても、限度はある。馬に乗ること自体あまり慣れていないエデルには無茶な逃亡劇だった。

 人は、魔鉱石まこうせきに魔力を満たすだけで疲れを感じるものなのだという。エデルは緑魔鉱石りょくまこうせきに魔力を溜めても疲労など感じたこともなかったが、魔力切れがあるとしたらこんな感覚なのだろうか。

 そんな場違いな感想が脳裏を過った。

 一度緊張の途切れてしまうと、体が泥のように重く感じられた。もう指一本動かすことすら億劫だ。

 もしかしたら、今こうしている間にも逃げたエデルを捕まえようと誰かが追いかけてきているかもしれないのに。

 あるいは、この人たちこそがエデルを捕まえるために、ここで待ち伏せしていたのかもしれないのに。

 エデルは視線だけであたりを探る。

 確認できるのは、自身を抱き起こす男と、もうひとりだけだ。見えないところに他にも人がいるかもしれない。逃げられるだろうか。

 今すぐ捕らえられてしまうような雰囲気ではないが、いつ事情が変わるともわからない。

 警戒するエデルをよそに、口元に充てがわれた筒から水が流れ込んでくる。その冷たさに驚いて、軽く肩を震わせた。麻痺していた身体が、渇いていたことを思い出したようだった。次第に嚥下が止まらなくなり、タイミングが合わなくなって噎せてしまう。

「大丈夫か」

 背を撫でる手は驚くほど大きかったが、温かく、労る以外の意図を含んでいない。

「あ、りがと」

 身体が欲するままに水を飲んで、ようやく首まで浸かっていた疲労の泥から這い出たくらいに回復した。

 なんとか自力で起き上がろうと試みたが、びっくりするほど全身のどこにも力が入らない。抱き留めてくれていた男もエデルがどうしたいのかわかったようで、無理はするなと肩を叩かれた。その力強さに、これまでエデルが接してきたどんな人間とも違う気配を感じる。

「ナイ、エスローは」

 エデルを抱えたまま、紫紺の髪の男のほうが相方へと問いかける。

「ん、こっちは動けるくらいにはまだ元気があるみたいだな。さすがエスローだ。おまえも疲れただろうに。助けてやるから一緒においで」

 もうひとりの男がドゥーベに声をかけた。

 ゆっくりと顔を上げると、どうにか落ち着いたらしいドゥーベが、背の高い男に木立の奥へと連れて行かれるところだった。

「お嬢さんも、ここじゃ何の手当てもしてやれない。俺たちの野営場所まで運ぶぞ」

 エデルを抱えていた男がそう言うと、是と答える間もなくひょいと横抱きにされた。そうしてドゥーベと同じく木立の向こう側へと連れられていく。

 どこまで行くのかと問うまでもなく、すぐに木々の間にやわらかな明かりを見つけた。

 彼らはどうやらここで野宿するつもりでいたらしい。

 今時期は、ぎりぎり野宿できる気候ではある。男性の旅人であればそう珍しいことでもないのだろう。ただ野生の獣魔に襲われる可能性は大いにあるので、それなりに知識と腕がなければ危険だが。

「お嬢さんはここに座んなよ」

 ドゥーベを連れて先に焚き火のもとへ戻っていた男のほうが、荷から毛布を引っ張り出してきれいに畳み、落ち葉の上へと敷いた。

「ありがとう」

 エデルを抱えてきた男が毛布の上に丁寧に下ろしてくれる。その流れでもう一度水の入った筒を渡されたので、素直に口にした。

「つめたい……」

「ん? 温かいほうが良かったか?」

 心配そうな男の問いに、エデルは首を振った。

 文句を言ったのではなく、冷えた水を快く分け与えてもらえたことに驚いたのだ。

 さっきもらった水もそうだが、かなり冷えている。

 このあたりは、虫の音が聞こえるばかりで川の音もしない。なのに冷えている。魔導具まどうぐで作り出したものだろうか。だとすれば、きっと質の良い魔導具を持っているのだろう。

 ――あとで対価を要求されたらどうしよう。

 この緑層りょくそうでは、金銭を出せないときは魔力を提供することでその代わりとする。特に、田舎や貧困層では常套手段だ。働いて得る賃金よりも、体力さえあれば誰でも差し出せる魔力のほうが、無い袖を振るよりも簡単だからだ。

 それに、魔力は火や水、光など、ありとあらゆるエネルギーに変換できる。誰にでも需要があるから価値も高い。

 しかしエデルには金銭もなければ、魔鉱石を満たすこともできない。だからこういうときに困るのだ。

 内心で冷や汗をかいたが、ふと、腰帯サッシュに緑魔鉱石を突っ込んでいたことを思い出す。

 もしものときはこれで返せば良い。――そこそこ値の張る緑魔鉱石を持っていることを指摘されたら終わりだから、あくまで最終手段だが。

 そこまで考えてから筒を飲み干し、ようやくひと心地つく。その段になって、エデルは初めて自分を拾った男たちをまともに目にしたのだった。

 この場にいるのは全部でふたり。どちらも旅人然とした若い男である。

 見通しの効かない夜の森の中で、見るからに体格に恵まれた男たちに囲まれている。

 ふつうならすぐにでも逃げ出さなければならないところだが、行きずりとはいえ、彼らは疲弊したエデルを助けてくれた。その上、貴重なはずの飲み水を言うだけ分け与えてくれたのだ。視線を転じれば、ドゥーベだってバケツから水をもらっている。

 見ず知らずの、いかにも怪しい人間と獣魔じゅうまにここまでしてくれるとは。エデルが出会ってきた旅人の中では破格に鷹揚な人たちのようだった。

 事情も知らないのに助けてくれた彼らが悪い人であるはずがない――と判じてしまうには早計だが、ひとまず、今すぐ遮二無二逃げ出さなければならない状況ではないだろう。

 落ち着いて、息を整えるくらいの猶予はありそうだ。

 エデルはようやく深く息を吐いたのだった。

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