第3話 襲撃、逃亡

 狼が飛びかかって馬車を引き倒す。予想はしていたから衝撃に耐えようと身を固めたが、木の箱に入れられたまま急斜面を転がり落ちる感覚には閉口した。たぶん、荷台ごとふっ飛ばされて反対側の斜面を滑り落ちているのだろう。

 意識が飛びそうだ。いっそ失ったほうが楽だったかもしれない。壁、天井、床、目まぐるしく重心が変わり、バランスも取れずただ振られるままに身体のあちこちを打ち付ける。

 しかしここで気を失うわけにはいかない。狼と目が合った以上、あちらは箱の中に襲うべき人間がいると判断して必ず引きずり出そうとしてくる。

 エデルは揺さぶられ、ぶつけすぎてガンガンする頭を押さえながら涙目で歯を食いしばった。

「――ッ」

 痛みを越えてもはや衝撃しか感じない。だがその衝撃が強すぎて思考が飛ぶ。身体に力が入らない。

 襲ってきたのはギレニア狼だ。獣魔じゅうまではなく、けものの類である。

 獣魔は魔力を有する獣。獣は魔力を持たない獣を指す。正確には、魔核まかくを持つか持たないかが種を分けることになるらしいのだが、エデルは獣に詳しくはない。ただ、獣には、魔力を有するもの、有さないものの二種類がいる、と養父に教わっただけだ。

 獣魔は魔核に応じて魔法を使う。翼も持たないのに飛んだり、火種もないのに火を吹いたり発火している獣が存在するのは、この魔核を持つためだ。獣魔は魔力を主食とし、魔力を持つ生き物を食らって魔力を補う。当然、捕食対象には魔力を有する人間も含まれるのだ。

 一方、獣は魔法を使わない。ただの獣だ。

 獣魔は総じて獣よりも大きく、強い。ドゥーベが普通の馬より大きく、力も強いのが典型的な例だ。

 襲ってきたのがドゥーベよりも大きな獣魔だったら、ひとたまりもなかったかもしれない。――いや、どっちもどっちだ。ギレニア狼はとにかく体が大きい。雌でも体高はエデルの身長くらいはあるのだ。

 このあたりは獣魔も多く生息しているから、その中で縄張りを広げ、生き抜いていく獣は、みんな大きく強かった。

 ミシミシと木をへし折るような音が真上から聞こえ始めた。エデルは視界もままならないまま、とにかくその場から転がった。

 瞬間、今いた場所に獣の前足らしきものが突き抜けてきた。

 エデルの足よりも太い、狼の前足だ。

 爪は鋭い。あれに引っかけられたら、一度で内臓まで持っていかれるだろう。

 前足が抜けると、今度は牙が突き出す。エデルの手首くらいの太さはあろうかという象牙色が、不気味にぬらぬらと光った。

 低い唸り声が空気を震わせ、咆哮が轟く。狼たちの唾液が飛沫を上げ、生臭い息がそこまで迫っていた。

 エデルが押し込められていたのは、輸送用の頑丈な箱である。身体強化魔法を使ったとしても人の力ではびくともしないはずのそれが、焼き菓子のようにいとも簡単に破壊されていく。

 狼は木の板を噛み砕き、木片をむしり取り、大穴を開けていく。そうして、箱の中のエデルからもついに狼の全貌が見えた。

 恐怖に自分が呼吸できているかどうか、それすらもわからなかった。

 けれど、タイミングを外してはならない。

 ここを脱出できるとしたら――。養父の、もしものときの教えが鮮明に脳裏に思い出された。

 しかしそれは同時に、獣の前に無防備に飛び出すもっとも危険な一瞬でもあった。

 狼と目が合った一瞬、エデルはその懐に飛び込んで前転した。

 狼にしてみたら、仕留めるはずの獲物が突如として猛然と懐に突っ込んできたのである。狼は驚いた様子で怯んだ。それこそが狙いだった。

 ――どうしても勝てない相手と向かい合わなきゃいけなくなったときは、絶対怯んじゃいけない。その逆だ。突っ込め。

 それが養父の教えだ。ただし、相手が防御に特化した獣魔だった場合は、ぶつかりに行ったこちらがダメージを負う。そして、大して驚かすこともできずに、死ぬ。

 もっと生存率を重視した切り抜け方を教えてほしかった――と思わないでもなかったが、たぶん、これがエデルにできる最大限の〝生存率を上げる方法〟だ。

 飛び退いた狼にさらに体当たりをかまして転がり、狼が作った穴から脱出することに成功した。しかしそれで助かったわけではない。

 今度は狼の群れに堂々と姿を晒したのである。

 ここからが生きるか死ぬかの瀬戸際だった。

 エデルはひときわ暴れるエスローを視界の端に捉え、猛然と走り始めた。

 もう、頼みの綱はあの獣魔の馬しかいない。

 走り寄る途中、首のない、人の形をした何かを目にした気もしたが、敢えて思考の外に追いやった。

 この騒ぎでは、まだ戦っている人間もエデルには気づかない。あるいは気づいていてもどうにもできない。

 だから今は、すべてに知らないふりをした。

 六脚の馬は、群がる狼を次々と蹴り倒している。

 エデルが駆け寄ると、四つの黒い目が、しっかりとこちらを捉えた。

 ほんの一瞬、ドゥーベは頭を振り上げるようにした。角ですくい上げるような仕草だ。

 エデルには、彼のその行動の意味がわかっていたわけではない。ただなりふり構わずドゥーベの角を掴んだ。

「うぁっ!」

 体がぶん投げられる。そうしてから、ほとんど打ち付けるように、ドゥーベの背中に腹から着地した。

「――うっ」

 騎乗というより、もはや事故だった。

 内臓が圧迫されて、呼吸ができない。吐き気がこみ上げる。悶絶する痛みだった。

 それでも、掴んだ手綱は意地でも離さない。

 ドゥーベは既に、地獄絵図と化したその場から逃走すべく走り出していた。ぐちゃぐちゃに引き倒された荷や人を越えるたびに振り落とされそうになったが、エデルは必死に手綱を握りしめて堪えた。

 狼が追ってくる。後ろだけではなく、木々の間や前方からも増えてきた。きっと仲間なのだろう。

 ドゥーベが狼を避けて山道を外れ、崖になった急斜面へと躍り出した。これを越えれば振り切れる。エデルは叫んだ。

「ドゥーベ、飛んで!」

 エスローは魔核に浮遊属性を持つ。鳥類や翼竜のように自由に高度を変えて高く空を飛ぶことはできないが、疾走する間は地面からわずかに浮く。

 だから、崖から飛び出したドゥーベは転がり落ちることなく、徐々に高度を下げながらも軽やかに宙に躍り出たのである。

 これが、獣魔にできて獣にできないことだ。

 特にエスローは地面をそのまま駆けることがないから、馬のような揺れが一切ない。

 ドゥーベの背の上で、エデルはようやく体勢を立て直す。背後を振り返ると、崖上から口惜しそうにエデルたちを見つめる狼の姿があった。

 それを遠くに眺めながら、エデルはようやく細く安堵の息を吐いたのだった。

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