第3話 始まりと呼ぶには、あまりにも気まずくて その3

「ねぇ、真壁まかべ……アンタって、今、ヒマだったりする?」


 艶めく唇から放たれた言葉を千里せんりが咀嚼するより早く、万里ばんりがずいっと身を寄せてくる。

 上目遣いな漆黒の瞳……その角度は魅惑的で、その煌めきはあまりにも近かった。

 率直に表現するならば、とてもあざとくて、とても彼女に似合っていた。


――これは……まさか、ワザとかッ!?


 肌が粟立ち、戦慄が背筋を駆け上がる。

 この間合い、この不意打ち。どうにも不利が否めない。

 ここで怯んではカッコがつかないとばかりに歯を食いしばって踏み止まったものの……至近距離に迫った美貌の圧力が半端ない。

 さらには鼻先を甘やかな香りがくすぐってくる。

 本能に直接訴えてくるような、頭がクラクラする匂い。


――なんの匂いだ、コレ?


 眉をひそめた千里は、唐突に理解した。

 芳香は万里から漂ってくる。彼女の体臭だ。

 その事実に思い至った瞬間――全身を稲妻が貫いた。

 一撃で頭の中が真っ白に焼却されて、何も考えられなくなる。


「真壁? 聞いてる?」


「あ、ああ……聞いてる。聞こえてる」


「……ねぇ、ホントに大丈夫? 様子が変なんだけど」


 うわ言めいた返事に万里が眉を寄せる。

 彼女の声色は訝しみよりも心配とか労りの度合いが強かった。

『お前のせいなんだがなァ!』と迸りかけた絶叫を、どうにか飲み下す。

 よくよく考えるまでもなく万里は悪くない。千里が勝手に挙動不審を極めただけだ。


「まぁ、大丈夫って言うんならいいけど……で、真壁って今何してるの?」


「何って……ナンパしてたって言っただろう……言ったよな?」


「はいはい、それはもういいから。ひとりなの?」


 次々と襲い掛かる現実に翻弄されて、少し前の記憶すら定かでない。

 一方で万里の対応はどんどん雑になってきている。

 その殺伐さに、少しホッとする。


「いや、由宇ゆう陽平ようへいと三人で来た」


「つまりヒマなのね」


「なんでアイツらと一緒だったらヒマ扱いになるんだ?」


「だって付き合ってるじゃん、日高ひだか池澤いけざわって」


 あぶれた真壁はヒマしてる。違う?

 しれっと指摘され、千里はヒュッと息を飲んだ。


「それは……」


「それは?」


 由宇と陽平。

『日高 由宇』と『池澤 陽平』

 幼馴染の由宇と、クラスメートの陽平。

 万里が言うとおり、ふたりは互いに想い実って今年の春ごろから交際を始めた。

 どちらも自分たちの関係を特段秘密にしているわけではないのだが、吹聴して回っているわけでもない。

 なのに――


――何でいずみがそんなことを知ってるんだ?


 交友関係を把握されていることに驚きを隠せない。

『どうして?』と首をかしげそうになったが……事実だったから、とりあえず首を縦に振った。


「……まぁ、そうだな。『せっかくの機会だから彼女作れ』とも言われた」


「日高ってアンタの幼馴染よね。それじゃ……ああ、そういうこと」


 万里は言葉を濁し、漆黒の瞳に同情めいた鈍い光を宿す。

 憐憫めいた輝きに――無性に苛立ちを覚えた。


――また、それか……


 千里と由宇は幼馴染でお隣さん。

 幼いころから行動を共にすることが多かったせいで、周囲から付き合っていると勘違いされることが多くて……だから、由宇が陽平と交際を始めたときには色々とあらぬ誤解を受けた。

 ちょうど今、万里が向けてくるような眼差しも幾度となく浴びたものだ。


「確かに俺と由宇は幼馴染だがな……ほとんど家族みたいなものだ。泉が考えているようなことは何もない」


「まだ何にも言ってない」


「ぬぐッ」


 にべもないひと言が胸に突き刺さる。

 反論に詰まる千里をじっと見つめていた万里が、唐突に別の話題を振ってきた。


「アンタって、きょうだいとかいる?」


「弟がひとりいるが……それがどうかしたか?」


「お兄ちゃんなんだ。ま、それはいいけど……その弟くんに彼女が出来たらどう思う?」


「それは……敗北感があるな」


「そうじゃなくって。彼女に弟を取られたって嫉妬する?」


「まさか。兄として『迷惑をかけるかもしれんが、弟をよろしく頼む』と頭を下げるところだろう、そこは」


「そ、そうなんだ? じゃあ、えっと……日高のことを家族みたいなものって言ってたけど、日高が池澤と付き合うことになったとき、同じようなこと思った?」


「それは……」


 イエスだ。

 イエスのはずだ。

 イエスと言わなければならない。

 ……なのに、肯定の言葉は喉に絡まって出てきてくれない。

 じりじりと肌が焙られるような感覚がある。その熱が頭と心を焦がしてくる。

 万里の言い分は理解できる。由宇を家族だと認識しているのなら、本当の家族である弟が異性と交際していると仮定したときと同じリアクションになるのではないか。

 そう言いたいのだろう。


――由宇は……俺は……


 目を閉じれば、いつだって何度だって思い出せる。

 由宇と交際していたわけではないが、陽平と付き合うことになったと聞かされた時には、いまだかつて身に覚えのない衝撃に見舞われたものだ。

 それは紛れもない事実であり、千里の心を強かに揺さぶったショックの正体は――よくわからなかった。

 独占欲か、嫉妬か。

 あるいはまったく別のナニカか。

 いずれにせよ……その醜い感情を飲み下すまでに並々ならぬ苦労を要したことは、誤魔化しようがなかった。

 二の句が継げなくなった千里の前で、万里がパタパタと両の手のひらを振る。

 その顔には狼狽があり、悔恨があって……つまり、苦みが効いていた。


「ゴメン、言い過ぎた……って言うか、アンタもアイツらにダシにされたクチじゃないの」


「年頃の男女ふたりで夏の海というのは、親御さん的には心配になるらしいな」


「どっかで聞いたような話よね」


「どこにでもある話なんだろう」


 なるたけ平静を装って混ぜっ返すと、万里の瞳が煌めいた。

 口元が優しげに緩んでいるところから、どうやら機嫌をよくしていると見える。

 何がどうしてそうなったのか、すぐ傍で観察していてもサッパリ理解できなかったものの……不機嫌なままでいられるよりも、ずっといい。

 美人は怒った顔でも絵になるが、笑顔の方がもっと魅力的だ。間違いない。


「そういうことにしておいてあげる。それでナンパって……気持ちはわからなくもないけど、アンタって『へ~い、カノジョ』とか言うキャラじゃないでしょ」


「言ったぞ」


「メチャクチャ似合ってなかった。声上擦ってたし、顔引き攣ってたし」


「顔って……声はともかく、顔は見えてなくないか?」


「うるさい。とにかくヒマってことよね?」


「……だったら、どうなんだ?」


「私と付き合いなさい」


「は?」


 取り繕う暇もなく、脊髄反射で疑問が口をついた。

 論理の飛躍どころの話ではない。

 わけがわからない。


「い、今、何て言った?」


「『私と付き合いなさい』って言ったの。あ、勘違いしないでね。アンタと付き合うとか絶対ないから」


「どっちなんだ、それは……」


「どっちって……ほら、私ってひとりだと声をかけられまくるワケ。正直うっとうしいのよ」


「つまり、男除けか」


「それ」


 タダじゃないわよ。

 私とデートできるってオマケつき。

 白くて細い指をビシッと突き付けてくる万里。

 その顔に浮かぶ笑みは自信に満ち溢れていたが、嫌味や冗談の類は感じられなかった。

 だから――


「いいだろう。元はと言えば、先に声をかけたのは俺だからな」


「……そう言えば、そうだったわね」


 きょとんとして、明後日の方を見て、首をかしげて。

 最終的に引き攣り気味な唇から零れ落ちた声は――安堵の色合いが強かった。

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