第2話 始まりと呼ぶには、あまりにも気まずくて その2

真壁まかべ……こんなところで何してるの?」


「んんっ、人違いだ」


 鋭さを増した眼光から、思わず顔を背けた。

 眼鏡の位置を直すふりをして、手のひらで表情を隠す。

 全身の毛穴がぶわっと開いて汗がにじみ出てくる感覚に、危機感が募る。

 反対に喉はカラカラで……どうにかこうにか絞り出した声は、残念なことに思いっきり裏返っていた。


「ふ~ん」


 サクッと砂を踏む音が耳朶を弾く。

 少し遅れて正気に戻り――息を呑む。万里ばんりが距離を詰めてきていた。

 カラフルなビーチサンダルを履いた、小さな白い足。その透き通った眩しさに目が釘付けになる。


「私の名前を知っている、真壁によく似た真壁じゃない人って……さすがに無理あるでしょ?」


「……」


「……」


「……だよな。自分でもそう思う」


 からかい交じりな問いに、ため息交じりで答えた。

 耳をくすぐってくる笑い声と細められる万里の眼差しにさらされて、冷たい汗が背中を流れ落ちる。

 圧力が凄まじい。


「……なに?」


「いや、なんでもない」


 呼吸を忘れるほどの、強烈な存在感。

 視線が勝手に万里の美貌に吸い込まれてしまう。

 混乱の坩堝に叩き込まれた思考の奥から金切り声に似た悲鳴が聞こえた。紛れもなく自分の声だった。


――こ……こんな偶然ってありなのか!?


 夏休みに地元から離れた海へ繰り出して、いい感じな女性に声をかけたら、よりにもよってクラスメートだった。誰かに話したら『冗談だろ』と一笑に付されそうなシチュエーションなのに、どうしようもなく現実なのだ。

『旅の恥は掻き捨て』と言う軽薄で軽率な前提は、音を立てて崩れ去った。

 あとに残されたのは――水着姿につられてクラスの女子をナンパしたスケベ男『真壁 千里まかべ せんり』だけ。

『どうして声をかける前に、回り込んで顔を確認しなかったァ!?』

 今さらな怒号が脳内を反響しまくって、キリキリと頭が痛む。

 込み上げてくる後悔と、猛烈な自己嫌悪がヤバかった。


「真壁?」


「……」


「真壁、無視しないで」


 気まずいことこの上ないが、完全に手遅れだった。

 力づくで視線を逸らそうにも、薄手のパーカーを内側から盛り上げる豊かな胸元や、大胆なデザインの腰回りや、スラリと伸びた白い脚などなど……どこもかしこも引力が半端ない。

 ひとつひとつのパーツが魅惑的過ぎるし、思春期男子の心臓に悪過ぎる。

 自分がスケベな男であることは疑いようのない事実であったし、万里にバレてしまったのは仕方がない。

 そう割り切ったからと言って、開き直ってガン見しない程度には千里は良識を保っていた。

 ……ガン見しないだけで、目は離せなかったのだが。


――でもなぁ……もうちょっと、こう……


 カッコつけたいわけではないが、うわべぐらいは取り繕っておきたい。

 二学期が始まったら、お互いに顔を合わせる間柄なのだ。

 できれば、いい感じに話を逸らしたい。

 それが偽りない本音だった。


――よし、やるか。


 眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、大きめの深呼吸をひとつ。

 つばを飲み込み、唇を舌で湿らせて――しれっと口を開く。


「こんなところで奇遇だな、いずみ


「奇遇って……真壁から話しかけられたの、初めてな気がするんだけど」


 訝しむ万里に同意しかない。

 二年生になって、同じクラスになって四か月程度。

 直接の会話どころか、近距離で相対した記憶すらまったくなかった。


――奇遇は無理があったか~


 言葉のチョイスを間違ったことは、ひとまず棚に上げる。

 

「それはそうと……そっちこそ、ここで何をしていたんだ?」


「散歩」


「散歩って、海で? ひとりで? え、泉って、家、この辺だったか?」


 適当に並べ立てた問いに、素っ気ない答えが返ってきた。

 素っ気ないどころか胡散臭い。率直に言えばウソくさいと思った。

 脊髄反射的に質問を重ねてしまった千里は――即座に己の失言を後悔した。

 なぜか?

 万里の目が音もなくスッと細められたからだ。

 明らかに機嫌を害している。いつの間にか彼女の逆鱗を撫でまわしていたと気付いた時には、もう遅かった。


――うっ……これは……マズいぞ。


 踏ん張ったはずの足が震えた。

 あとからあとから冷たい汗が噴き出してくる。

 燦燦と照り付けてくる太陽のもとで猛烈な寒気を感じた。生きた心地がしない。

『やっぱり今のナシで』と不躾な前言を撤回しようにも舌が回らなかったし――万里が口を開く方が早かった。


「ひとりじゃないし。ユキとステラの三人だし」


 ユキとステラ。

 いつも教室で万里がつるんでいる女子の名前だ。

 どちらの顔も覚えてはいたものの……そろりそろりと周囲に視線を動かしてみても、ふたりの姿は見当たらない。

 千里の目の動きを察したらしく、万里の口元がピクリと震えた。

 苦笑しているように見える。より正確に表現するならば、苦笑しようとしているように見えた。


「……ふたりとも、今は彼氏と一緒」


「か、彼氏?」


 変な声が出た。

 万里、ユキ、ステラ。

 三人とも校内外を問わず名を馳せる美少女で、彼女たちに数多の男子たちが告白しては撃沈~を繰り返していることもまた、校内外を問わず知れ渡っている。

 もしも彼女たちに恋人がいるなら、とんでもないスクープだ。

 あっという間に噂が広まってもおかしくないのだが……


――そんな話、聞いたことがないぞ。


 ひとりでに眉間にしわが寄ってしまった。

 ウソをついているようには見えなかったが、どうにも納得がいかない。

 じ~っと万里を見つめていた千里をじ~っと見つめ返していた万里は……根負けしたように肩を竦めつつ口をゆがめた。


「男とふたりきりで海とか親がうるさい……って言うか絶対に許してくれない。もちろんひとりでとか論外。でも、せっかくの高二の夏なんだし、彼氏と海で……んんっ、と、とにかく来年はもう受験が間近に迫ってくるから、思いっきり遊べるのは今年が最後なの。だから女子だけで来て、それぞれ現地で合流することにしたってワケ」


「なるほど、ありそうな話だな」


 メチャクチャ納得できた。

 特に『親が許してくれない』のくだり。

 千里が由宇ゆうたちと一緒に海に来た理由が、ズバリそれだった。


「ありそうな話?」


「……と言うことは、泉も彼氏待ちなのか?」


 疑問形にはしたものの、なかば確認のつもりだった。

 ごくごく自然な論理の帰結だと思ったし、足止めしてしまって申し訳ないと思ったし、声をかけた自分はとんだピエロじゃないかとも思ったが……予想に反して万里はプイっと視線を逸らせてしまった。

 わずかに頬を膨らませた彼女は、学校で目にする大人びた姿とは異なり、年相応の少女に見える。


「彼氏とかいないし。まぁ、『今は』だけど」


「そうなのか? それは意外と言うか何と言うか……」


「クソマジメな真壁がナンパするよりかは全然意外じゃないから」


 そうだろうか?

 万里の決めつけに反感を覚えた。

 学校一の美少女『泉 万里』に彼氏がいないことと、彼女曰く『クソマジメな真壁』が海でナンパすること、どちらが意外か。

 千里は前者だと思ったが、万里の意見は違うらしい。

 どうにも腑に落ちなかったが――それどころではなくなった。

 万里がさらに間合いを詰めてきたのだ。止める暇も逃げる余裕もなかった。


「なッ!?」


 至近距離から見つめてくる大粒の瞳。

 漆黒の輝きに充てられて身体の奥からカーッと発した熱が脳を焙ってくる。

 一瞬のうちに思考回路が焼き切れてしまって、だから――艶めく桃色の唇から零れ落ちた言葉を理解するまでに、わずかながらに時を要した。


「ねぇ、真壁……アンタって、今、ヒマだったりする?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る