たぶん、犬。

西園寺兼続

俺たちのワンダフルライフはこれからだ

 依頼を受けて、犬を撃ち殺す仕事をしている。

「ファーーーーーーーーーーーク!」

 カジノで大負けした犬が、安物の拳銃を取り出した。こいつは常日頃から借金を抱えていて、いつも取り立て人に追われていた。だから俺のことも、同類だと思っていたらしい。だが、残念ながらもう時間切れだ。賭博屋の組合は、取り立て人の代わりに処刑人を寄越すことに決めた。

 半身を切って一発避ける。客の一人が流れ弾を喰らって絶叫。店内がパニックに陥る。

 気にせずカウンタードロー。こいつを確実に射殺するために、ワンマガジン使い切っていい規則になっている。

「ファーッ」

 照準の中心に犬を捉えて、引き鉄を絞る。二回目のファックを言い終わる前に殺す。弾倉の残りはすべて死体撃ちだ。契約だからしょうがない。


 俺は犬が嫌いなんじゃないかとよく言われる。標的を犬扱いするから。

 犬は好きだ。


 撃ち終わった。穴だらけになった犬の死骸が一匹。客が全員逃げて静かになった店内に、着信音が鳴り響く。上司からのコール。店外に出つつ、ビデオ通話を繋ぐ。入れ替わりに死体回収の業者たちとすれ違った。

『ミスター・シェパード、標的を片付けたようだな。よくやった』

 いかめしい中年男が俺の所業を労う。

「ああ。それより、いつものアレを頼む」

『分かっている。少し待っていろ」

 画面の中の上司が右下を向いた。そこから、黒いフワフワが見え隠れする。

『ン~! おいでおいで良い子良い子! いつものおじちゃんに挨拶しなさいリッキーちゃん!」

 上司が猫なで声で名を呼ぶと、画面が揺れた。

『ワン!』

 大きな舌が画面を舐める。それからドアップで黒い小型犬が映り込む。

 来た!

 俺も努めて優しい声で小型犬__リッキーちゃんにご挨拶をする。

「ン~! 今日も可愛いでちゅね~リッキーちゃ~ん! シェパードおじちゃんでちゅよ~!」

 上司の不細工な顔が割り込んでくる。

「相変わらずワンちゃんのことになると気色悪いな、ミスター・シェパード」

「ン~ッ……スウゥ……それはあなたも同じだと思われるが、ミスター・ドーベルマン」

 上司、ミスター・ドーベルマンは俺のたちに理解がある。それはいい。今は邪魔だ。しっしっと手で退けるジェスチャーをすると、彼は渋面で画面から外れた。

 小さな前脚が、画面越しの俺を追う。スクショ。

「アー? 捕まえられるカナ~?」

 目一杯に声を裏返しつつ、携帯を振って顔を見せては隠し。これが結構、犬界隈ではウケるらしい。


 犬の愛らしさについて、今更述べることもあるまい。古今東西の文芸によって語り尽くされている。

 俺は犬が好きだ。ただ、ちょっとした呪いに掛かっていて、難儀している。

 殺しの標的が犬に見える呪いだ。比喩でもなんでもなく、よれよれのスーツを着た犬が俺に殺意を向けて拳銃を乱射するのだ。気が狂いそうになる。

 それでも仕事は生業だから続けている。足抜けは難しい。

 しかし仕事をした後には必ず犬の死骸が残るから、トラウマになった。なるべく死骸を見ないようにその場を立ち去った後、すぐに「生きている可愛いワンちゃん」の姿を見ることで、なんとか精神を保っている。

 やはり、リッキーちゃんは良い。この愛嬌に溢れた犬を飼っていることは、ミスター・ドーベルマンの数少ない美点だ。

「ンンン~良い子でちゅね~!」

 リッキーちゃんは俺に飽きたようで、そっぽを向いて画面越しに肛門を押し付けた。つまらない男で申し訳ない。犬しか趣味がないんだ。

「今度ドーベルマンおじちゃんのところに遊びに行きまちゅからね~! 今夜はちょっと、次のお仕事があるからゴメンでちゅよ~! バイバァ~イ!」

 ミスター・ドーベルマンが可愛い犬ケツを取り上げ、また不景気な面を見せた。

「もういいか、シェパード。お前の仕事の件で俺にも用事が入ったんだ。後で合流しよう」

「ウーッ人間は醜い!」

「人間こうはなりたくないものだな」

 犬を撫でながら部下を蔑むこの中年白人男は資本主義社会の縮図である。殺しの依頼を中受けするだけで報酬の何割を掠め取っているのか、想像するだけで恐ろしい。

 通話を切る。


 標的の死骸を先に片付けた清掃員たちが、担架を持って出てきた。彼らは手際よくステーションワゴンにそれを積み込んだ。俺は無意識に担架から目を逸らしていた。ちゃんと覆いが被せてあるのは知っている。

 夜の空気をいっぱいに吸い込んで吐き出して、自分の顔を叩く。

 今日は立て込んでいる。残業代は出ない。まごまごするほど時給が下がり、奴隷に近づいていく。しかし金の奴隷か時間の奴隷か、些末な違いだ。


 アメリカの裏社会には、シンジケートと呼ばれる集団がいる。禁酒法時代どころか大航海時代から続く、由緒ある殺し屋の組合だ。当然ながらろくでなしばかりが集まっている。そして俺は、そいつらの末端の犬。古来より人間は基本的に自由ではない。どいつもこいつも犬ばかりだ。気が狂いそうになる。

 頭をかきむしりながら、ホテルのエントランスをくぐる。シンジケートは本拠地を持たず、普通の中小企業みたいにあちこちのホテルで会議室を借りて集会を開く。オンライン会議で済ませることもある。

「8階の小会議室を借りている、全米ペット一発芸大会役員の者だ」

「こちらへどうぞブフォッ」

 ホテルマンにフロント団体の名前を告げると、すみやかに案内された。もはやこの名乗り自体が一発芸みたいなものだ。ホテル勤めの奴らは疲れているらしく、よく笑ってくれる。


 全米ペット一発芸大会のプレートが掛かった会議室に入る。治安の悪い顔ぶれが一斉に俺の方を向いた。中央の重役席に座った老婆が、例外的に品の良い笑みを浮かべた。金の入れ歯が輝く。一皮めくればほら、もう治安が悪い。

「お疲れ様、ミスター・シェパード」

 勧められた席に着く。

「どうも……マダム・プードル」

 シンジケートの筆頭親方にして飼い犬虐待ババア。殺し屋集団の「秩序」を維持する役目を担っている。そして、そのために汚れ仕事を末端に押し付ける。綺麗な殺し屋などいないが、洗い落せない泥を喜んで被る者もまたいない。

「あなたの忠誠を見込んで、頼みがあるの」

「なんなりと、マダム」

 ふたつ返事で承諾する。断ればたぶん殺される。こいつの依頼を断った同業者の噂を聞いたことがないからだ。

「ある男を殺してほしいの」

「喜んで」

 何が喜ばしいものか。絶対ヤバい奴に決まっている。マダム・プードルは俺に拒否権がないことを知りつつ、満足げに頷いた。彼女が指を鳴らすと、部下が俺の席に一枚の写真を置いた。

「コードネームは、ジョン」

 写真には中年男の髭面が収められていた。いかにも私は自由じゃありません、という面構えをしていて好感が持てる。自由を謳歌する殺し屋は、人格破綻者だからだ。

「あのジョン、ですか……」

 俺は白々しく顎を掻いた。顔面汗ビショビショである。

 さて、ジョンというコードネームは普通、使わない。ありふれ過ぎていて不便だからだ。だがこの業界で働く奴なら誰もが、ジョンと言えばコイツの顔を思い浮かべる。

「そうよ、ミスター・シェパード。シンジケートきっての殺し屋、無敵のジョンが足抜けを企んでいる。彼を殺してちょうだい」

 他の重役たちは沈痛な面持ちをしている。

 無敵という二つ名に相応しく、ジョンに勝てる奴はシンジケートにいない。売れ線のアクション映画もかくやという暴れっぷりで数々の敵を殺し、食い扶持を得てきた。奴が何を思ってカタギになろうとしているのかは知らない。されど殺しの稼業から足を洗おうとするのなら、命を以て対価を支払わせなければならない。

 犬として生きた者は、最期まで犬でいるのがルールだ。他の何者かになろうとするなんて贅沢だろう。

弾避けヒツジを与えるわ、ミスター・シェパード。好きに使っていいから、必ず仕留めなさい。いいわね?」

 マダム・プードルは金歯をギラギラと輝かせている。


 これは……俺の、葬式なのだろうか。犬の死を悼んでくれるなんて良い会社だな。

 俺は、自分の弔辞を読んだ。

「シンジケートの掟に誓い、使命を果たします」

 腹を見せて忠誠を誓うんだ。


 ホテルを出ると、シンジケートの抱えるチンピラ共が3両のバンに詰められていた。ひと山いくらで雇える債務者や不法入国者、あとヤク中。マダムの言う通り、弾避け程度にしかならない屑共だ。窓越しに検分していたらめちゃくちゃ睨まれた。

 先頭車両の運転席にはミスター・ドーベルマンが座っていた。さっきの、俺の仕事に関する用事とはこれのことだったらしい。まぁ殺し屋組織の中間管理職なんて、こんなものだ。助手席へ座るよう促される。

「まったく……シンジケート愛犬家の会でホームパーティーを開く予定だったのだがな」

 恨みがましくホテルを睨むドーベルマン。ナントカ好きに悪い奴はいない、みたいな言説はすべて嘘だ。犬好きは屑だらけだ。俺も含めて。

「リッキーちゃんはいないのか?」

「もうおやすみの時間だ。それに、こんな屑共と同じ車に乗せられるか」

「それ俺のことも指してるのか」

 否定はしないでおく。良い犬を飼うのはステータスだが、品格までは上げられないようだな。


 深夜の街は静まり返っている。郊外のゲーテッド・コミュニティに治安の悪い人種は近寄れない。ジョンはこの世で最も暴力に近い稼業をしておきながら、上手く素性を隠して一等地を手に入れたらしい。

 ここの土地を買えるようなら、部屋飼いの犬よろしく一生寝転んで暮らせる。俺も願わくば、天国でセレブ犬になりたいものだ。

「このままジョンの自宅を襲撃する。肉盾を上手く使って、奴を殺せ」

 ミスター・ドーベルマンは俺に新品の拳銃を渡した。

「そんなところだろうと思っていた」

 この辺一帯を管理する警備会社の詰所を素通りする。マダム・プードルはおそらく彼らに休暇を与えた。これから数時間、どれだけ銃声が鳴り響いても彼らは聞かなかったことにする。なるべく俺も、流れ弾が行かないように努めるとしよう。


 目的地の1キロ手前で降りて、弾避け共の装備を一人一人点検する。最低限の構えを出来ていたのでよしとする。ドーベルマンと他2名の運転手を残し、行動開始。

「よし、行くぞ」

 高級住宅街に相応しくないチンピラの群れが、綺麗な歩道をひた走る。ちゃんと番地を確認して、目的地の立派な邸宅を取り囲む。正門、裏門、ガレージを固める。鼻の利くシンジケートの猟犬なら、この時点で俺たちに気付いているだろう。そこは諦めよう。

 牧羊犬シェパードにも、それなりの狩りの仕方がある。

「報酬は、ジョンを殺した奴に全部くれてやる。正面から派手に突入しろ」

 狼だって、猛進する羊の群れに正面から立ち向かえはしない。

 大半の戦力を正面玄関とバルコニーから突撃させる。もちろん俺もその中に混ざっている。窓ガラスを叩き割り、散弾銃でドアの蝶番を吹き飛ばし、俺たちは堂々とジョンの客人ぶっ殺しゾーンに踏み入った。

「進め!」

 エントランスホールで吠える。直後、銃弾がかすめた。俺は駆けながら身を低くして、肉盾に隠れる。立て続けに二射目が暗がりから閃き、チンピラにヘッドショットを決める。

「怯むな、圧し潰せ!」

 ヤク中たちが一番勇敢だ。犠牲にビビらず、死体を踏み越えてマズルフラッシュのもとへ突撃していく。


 ジョンは、仕立ての良いスーツを纏った精悍な犬だった。毛並みも万全。俺の幻覚の中では、どんな不景気な野郎もハンサムなワンちゃんになる。惜しむらくは、殺すべき敵だけが犬に見えることだ。世界中の人間が犬に見えたら、たぶん世の中は平和だっただろうに。

 ジョンは堂に入ったCARスタンスで、ヤク中共の突撃をことごとく返り討ちにした。肉盾が早くも剥がされた。バルコニーから入った奴らは間に合わない。使えない奴らめ。

 俺は死体のひとつを担いで勢いのまま投げつける。ジョンは無暗に死体撃ちせず、脇に飛び退いた。そこに体当たり。胴体を掴んで後ろの壁に叩き付ける。銃を持った方の腕を極める。俺の狙いは、最初に武器を奪うことだった。

 だがジョンは壁にし、三角飛びの要領で俺の拘束を逃れた。奴は飛びざまに襟首を掴んで、俺を後ろに引き倒した。

 二人して床に叩きつけられる。

「この野郎!」

 対角方向へ転がる。起き上がった時にはもう、奴の拳銃が狙いを定めている。猟犬の眼光が薄闇に鋭く細まる。

 速い。

 まだだ。ホルスターに手を掛け、腰ごとねじってクイックドロー。

 同時に射撃。お互い回避を優先したため外れた。なんで反応できるんだクソが。手近な柱の陰に飛び込む。牽制で乱射しながらバルコニーの方に叫ぶ。

「さっさと来いグズ共!」

 ジョンの拳銃の型は見えていた。発砲音も数えていた。今ので残弾を使い切ったはずだ。チンピラ共の第二陣が雄叫びを上げてフロアに踏み入る。一呼吸置いて、飛び出す。

 頼りの味方が一斉射撃でジョンをハチの巣に……してない。ジョンが拳銃を捨て、逆にあいつらの方へ突っ込んで行ったからだ。手にスタンドライト。チンピラの一人に叩き付けてノックアウト、コードを振り回して二人目の首に巻きつけて拘束。そいつを盾に銃撃を防ぎ、三人目へと投げ飛ばす。スリーコンボ。

 上手いこと射線を切られた。同士討ちは避けるべきだ。四人目が犠牲になる前に俺が後ろからタックルをかける。もつれ合いながら再度床にダイブ。今更狙いを付けた残りのチンピラが叫ぶ。

「死ねやあああああ!」

 銃弾が俺の頬を掠めた。まさか俺に言ったんじゃないだろうな。

「やめろバカ!」

 指示してる間にジョンが脚をバネに下半身を跳ね上げ、近づきすぎたチンピラの金的を蹴り潰して更にスコアを稼ぐ。あぁ、期待した俺がバカだった。反動で拘束も振り切られた。身のこなしは軽いくせに、一撃一撃が重い。本物の犬みたいに暴れやがる。

 こっちも身を起こしてCARスタンス。だが腕を肩に寄せる前にジョンの手刀が突き込まれた。拳銃を弾き飛ばされる。

 さっきまでの立ち回りでこいつの腕力は嫌ってほど知った。掴まれれば今度こそ骨を持ってかれる。相手が一歩踏み出たのに合わせてローキックで迎え撃つ。

 綺麗に決まったはずだが、ダメだ。木でも蹴ったんじゃないかってくらい効いてない。

 ジャブが飛ぶ。咄嗟に左腕を出す。防いでなんかいない、衝撃で俺は二歩下がった。

 更に踏み込まれる。逃げ癖を見抜かれた。思いっきりタックルを受け、背後のガラス壁を突き破ってバスルームに倒れ込む。マウントを取られた。


 見上げる。猟犬は無言で歯を剥き出し、殺意の息を吐いた。

 良い犬だな。牙から目から毛並みに至るまで、すべてが研ぎ澄まされている。なのに、世の中は犬を粗末に扱う奴で溢れてる。


 ジョンの拳がハンマーのように降ってくる。だが焦ったな、大振りだ。

 素早く両腕をジョンの懐に滑り込ませ、襟を掴む。拳を防ぐと共に、ヘッドバットを奴の顎にお見舞いする。

 顎もとんでもなく硬い。幻覚は犬の感触までは再現してくれない。頭頂部に走る激痛に意識が途切れそうになる。

 ジョンは__のけぞった。効いた、はずだ。だがそれだけだった。

 猟犬は死ぬまで戦いを止めない。奴は再度拳を振り上げた。

 しかし俺が致命必至のパンチを喰らう前に、チンピラ第三陣がバスルームに辿り着いた。

「死ねオラァッ」

 チンピラが叫ぶと同時、マウントが解かれる。俺とジョンは反対方向に転がった。俺たちが倒れていた場所に銃弾が撃ち込まれる。

 またかよ! もしかしてあいつら、本気で俺を殺したいのか。

 風切り音。頭上で何かがしなったと思えば、ジョンがシャワーホースをぶん回していた。ヘッド部分が目の前のチンピラの顔面を粉砕する。血と砕けた歯が俺の顔に降り掛かった。最悪だ。

 割られたガラスを踏み越え、バスルームから脱出する。ジョンがチンピラの拳銃を奪ったのが見えた。俺も死体から銃を拾い直す。背後から立て続けに銃声がした。俺の方にも撃たれた。


 キッチンの陰に隠れて出方を窺う。

 突入させた弾避けたちは全滅した。これだけやってダメなら、残りの要員を呼んでも同じことだろう。殺し屋は吐いて捨てるほどいる。二ダース人送り込んでダメなら次は四ダース注ぎ込む。そいつらが全滅してようやくマダム・プードルは品質改善を検討する。

 犬の調教に金を掛けるべきだと、あのババアは分かっていない。犬を蔑称でしか使わない人種には、分からないさ。俺なら飼い犬に噛まれることくらい想定するね。吠えて噛むしか能のない奴らのほざく「忠誠」に、いったい何の意味があるっていうんだ?


 ジョンが粉々のガラスを踏んだ音が、思ったより近くで聞こえた。

 片手でスライドを引き、薬室を確認する。ちゃんと入ってる。もう片手で手近なガラス片を掴む。


 キッチンから横っ飛びに転げ出る。短く拳銃を構えたジョンの、頭の位置にガラス片を放る。ジョンは一切怯まなかった。砕けたガラスの奥に猟犬の眼光がギラつく。お互いの急所に照準を合わせる一瞬の間。今度こそどちらか死ぬ。

 犬の遠吠えが聞こえた。

 俺の幻覚かと思った。けど違った。

 視界の隅から、小さな黒い塊がすごいスピードで駆けてくる。俺たちはどうしてか、間抜けなことに引き鉄を引けなかった。

「ワン」

 ジョンの足元に縋り付いたそいつは、小さく鳴いた。

 セレブ犬にしちゃ、小汚い雑種だった。もじゃもじゃで、後ろ脚を片方引きずっていた。主人を庇おうとしたのかは知らない。ジョンの脚にケツを擦りつけたかと思うと、そいつは床に寝転がって腹を見せた。


 色々な考えが頭をよぎったが、最終的に出力されたのは、目も当てられない間抜けな行動だった。

 俺は銃を下ろした。

「行けよ」

 敵の前でまばたきした。俺の中でジョンは抹殺対象ではなくなった。殺意が失せてしまえば、そこに立っているのは猟犬ではなく、疲れ切った表情のきったない髭面男だった。

 男は銃を構えたまま、硬直している。しかしその目は俺と、足元の飼い犬の間を行き来している。

「行け!」

 男は犬を掬い上げて、壊れた玄関へと消えた。


 静かになったことで、他の出入り口を固めていたチンピラたちが指示を仰ぐべく集まってきた。あと十人ばかり残っている。誰も率先してジョンを追いかけようなどとは言わなかった。一様に、処刑の順番待ちみたいな面持ちをしている。

「マダム・プードルは、もう俺たちに餌をくれないぞ」

 社畜以下の分際で指示待ちをしてる屑共に言い放つ。当然、俺が一番の屑だ。こいつらの人生に責任など感じちゃいないが、のこのこ雁首揃えてシンジケートに報告に行けばあっさり殺される。

「無能な家畜は屠殺される。それでいいならこの場に残ってろ。死体回収屋が一緒にお片付けしてくれる」

 俺は銃をホルスターにしまった。

「嫌なら……散らばって俺からの連絡を待て。少しだけマシな仕事を持ってくる」


 ミスター・ドーベルマンは路肩に車列を停め、律儀に俺たちの帰りを待っていた。俺は生き残りを他二台のバンに分乗して逃亡させた。ジョンの首を持っていないのを見たドーベルマンは頭を抱えたが、有無を言わさず助手席に乗り込む。

「おお……リッキーちゃん……明日から誰がお前の世話をするというのだ……」

 携帯の待ち受けにキスしているドーベルマンの後頭部を叩く。

「いってぇ!」

「諦めるなドーベルマン。ホテルの前で言ってただろ。シンジケート愛犬家の会にジョンの名前がないか?」

「は?」

「交流はなくてもいい。名簿があるならジョンがそこに所属してないか確かめろ」

「は……?」

 同好の志というのは、意外と分かり合えるものだ。素性が殺し屋であっても。

 犬が好きなら、「飼い殺し」がいかに残酷か、理解できるだろう。


 翌朝。俺はドッグランにいた。色々探した結果、ジョンは自分の邸宅からほど近い場所に潜伏していることが分かった。ゲーテッド・コミュニティの人間が多く、まことに治安のよろしい場所だった。

 ジョンはいかつい髭面のまま、犬を抱きかかえて朝露の残る芝に座っていた。手にはスーパーで買ったであろうジャーキー。

 誰も近づこうとしない。めちゃくちゃ浮いてる。そいつに歩み寄る俺も浮いてる。

「よう、ジョン」

 ジョンは犬の名前にも多い。だが反応したのは人間のジョンだけだ。

「その子、なんていうんだ」

 ジョンは首を横に振った。

「名前はない」

「なら、ジョン・ドゥだな」

 隣に座る。名無しの犬ジョン・ドゥにそっと触れる。彼はまるで警戒心がなく、見知らぬ俺の手が頭に乗っても無関心だった。血の匂いも染み付いているだろうに。いや、それにも慣れてるのか。

「まずは、呼びかけに答えてくれて感謝だ。別に上司ドーベルマンを殺して連絡先を奪ったわけじゃない。あいつも仲間だ」

「知っている。奴と、あと十人は仲間がいるだろう。皆でドッグランを取り囲んでいる」

 流石はシンジケートきっての猟犬、鼻が利くみたいだ。

「なぜ、俺を殺さなかった」

 そいつは俺の方が聞きたかった。しかし先に聞かれたなら、答えざるをえまい。

「犬を殺すのに疲れたからだ」

 そう、俺は疲れていた。仕事をすると妙な幻覚が頭を支配するのは、きっと俺が殺し屋稼業に嫌気がさしていたからなんだ。

 ジョンは、わずかに口角を上げた。犬は顎を撫でられ、気持ちよさそうにうたた寝している。

「俺もだ、ミスター・シェパード。俺はこの犬のようになりたい」

「フッ」

 いかつい髭男が真顔でそう言うと、妙に笑えてくる。


 犬になりたい、か。

 どうかな。人間が人間以外の動物に自由を見出すのは傲慢だ。願わくば俺だってこう生きたいものだが。

「愚かしいと、思うか?」

 ジョンはおそるおそる、聞いた。

 俺は正直に答えることにした。逆上してくびり殺されないよう祈る。

「まぁ、犬にも犬なりの苦労はあるからな。俺たちはまさにそうやって生きてきたんだ」

 願わくば、ずっと陽だまりで寝ぼけていたいものだ。しかし俺たちは社会に生きる畜生だ。俺の見る幻は嘘偽りなんかじゃない。結局のところ、同じだった。

「だが、犬なりにもっと上等な生き方があるんだ。興味はあるか?」

 名無しの犬があくびをした。こいつの餌代は、これからもジョンが支払うべきだ。

「ああ」

 ジョンは頷いた。


 ご機嫌な朝になるぞ。

 ドッグランを出た俺たちを、三台のバンが迎えた。先頭車両のドーベルマンがおっかなびっくり、俺とジョンと名無しの犬を乗せた。後部座席には、仕立てのいいケージに納められたリッキーちゃんもいた。

「ン~! お久しぶりでちゅね~リッキーちゅあ~ん! ……ミスター・ドーベルマン、覚悟ができたみたいだな?」

「くそっ、リッキーちゃんと俺のワンダフルホームを引き払うことになろうとは……」

 未練たらたらじゃねえか。独身男特有のお寂しい家だったと思うが。犬しか趣味がないおっさんは悲しいな。俺もか。そしておそらくジョンもだ。

「たかが家を失ったからなんだ。これから仕事も失うんだぜ」

 ジョンに拳銃を手渡す。ジョンはやや疑り深そうに、受け取るのをためらった。

「どこへ向かっている?」

「シンジケートの筆頭親方、マダム・プードルの首を獲る」

 リッキーちゃんにジャーキーをやりながら答える。俺を信頼してくれなくてもいい。犬には餌が必要だってことを分かってくれれば。

「良い考えだ」

 ジョンは今度こそ、はっきりと笑った。そして滑らかにマガジンを叩き込み、スライドを片手で引いた。

 ドーベルマンには、「ジョンの抹殺に成功した」と嘘の報告をしてもらった。マダムが俺たちを疑っているかはどうでもいい。この報告を受けて、シンジケートの上役たちがいつものようにビジネスホテルで会合を開くことを決めたのだから。罠でも首輪でもなんでも噛み千切って、飼い主の手に喰い付いてやろう。


「なぁジョン、お前……殺しの標的が犬に見えたことはあるかい?」

「何の話だ?」

「いや。なんでもない」

 同じことだ。人間は本質的に犬と同じ。俺の脳みそはそう訴えていた。そもそも食いもしない生き物を殺して金をもらうなんて頭おかしいんじゃないですか……ってことなんだろう。だから、これが最後の仕事だ。

 リッキーちゃんと名無しの犬を両手に抱えて遊んでいたら、シンジケート上役の待つホテルに到着した。

 決めた。この仕事が終わったら、俺も犬を飼おう。

 バンがエントランスホールに突入する。ガラスをぶち抜いてダイナミックにチェックイン。チンピラ共の前に律儀に出てきたホテルマンに、笑顔でご挨拶しよう。

「全米ペット一発芸大会役員の者だ」

 案内はいらない。群れをなして、非常階段を駆け上る。安っぽい会議室のドアを散弾銃でノック。マダム・プードル含め上役たちが待っていた。俺が任務をほっぽりだしたのには勘付いていたらしく、ちゃんと護衛の兵隊を用意してやがった。

 俺たちの方が速い。俺たちは今、誰かに追われるでも従うでもなく、本能で抜き放っていた。人生最速のクイックショットで護衛たちを右から一、二、三、頭を撃ち抜く。脇をジョンが低く唸りながら駆け、左から残りを仕留める。

 やはり俺の幻覚は醒めてくれない。犬を殺すのは心が痛む。マダムが叫ぶ。

「ミスター・シェパード! これは、シンジケートへの反逆ですか?」

「答えは出てるんだろ? マダム」

「忠誠は!? いったい誰が今まで飼ってやったと思ってるの!」

「犬ってのは、あんたが思ってるより浅ましい生き物なのかもな」

 幻覚の中で、マダム・プードルはもっちりした白い犬になっていた。たとえ不細工だったとしても、俺が犬に悪感情を抱くなんてあり得ない。犬を殺す映画なんぞ最近はとんと見ないが、もしこんなふうに犬を撃ち殺すシーンがあったらクレームを入れてやるね。


 俺たちは……どうしようもなく、犬が好きだ。

 ジョンは静かに笑った。チンピラたちも死体を片付けながら下品に笑った。下で待ってるドーベルマンは多分まだ頭を抱えてるだろうが、リッキーちゃんが元気なら別にいい。

 誰にも頼まれなくたって、俺たちは犬を撃ち殺して生きていくんだろうな。野良だろうとセレブに飼われようと殺し屋組織にこき使われようと、同族の死骸を何食わぬ顔で踏み越えていく。俺たちは常日頃から、犬に対して幻想を抱き過ぎている。幻覚はきっと、これからも俺の頭を悩ませていく。そんな気がする。

「シンジケートは俺たちを逃がさないだろう。まずは潜伏するとして、これからどうする」

 ジョンが不景気な面をして聞く。その顔やめろ。せっかく資本主義の犬共を始末したんだから、もっと愉快な表情をすべきだ。

 確かに、首なんぞいくらでもすげ変えられる。犬たちのリードが投げ出されたら、必ず誰かが代わりに握る。だがそう心配するものではないだろう。ジョンの問いに、俺は目一杯の笑顔で答えた。

「そうだな、愛犬家同士でホームパーティーをするのはどうだ。まずはお前の名無しの犬に、イカした名前を付けてやろうぜ」


 おっさん、無職、社会の屑。それがどうした。犬と戯れるしか趣味がない犬、結構じゃないか。たぶん、皆そんなもんだろ。

 俺たちのワンダフルライフはこれからだ。

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たぶん、犬。 西園寺兼続 @saionji_kanetsugu

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