人形の瞼でワルツを

志村麦穂

人形の瞼でワルツを

 彼女は黴臭い幌馬車のうえで目を覚ました。バネを噛ませていない車軸は、悪路に対して正直にものを喋った。粗暴で、他人の悪口と自分の話を延々と喋り続ける荷台。こんなひどいものに載せられたのは、彼女の人生で二度目のことだった。あまりの懐かしさに、彼女はグラスを弾いた声でほころんだ。

「お目覚めか、エトワール」

 乱暴に紙を引き裂いたような、ざらついた挨拶が御者台から投げかけられる。

「私はどこに向かっているのかしら、盗人さん」

「盗人だって? 恐ろしい話だ。旦那様は強い言葉を嫌うだろう」

 御者は大仰におののいて、毛羽立つコートの襟に首を沈めた。

 彼女は白詰草の布団から身を起こし、首を伸ばして外を伺った。霧がかった薄明のうちに、なだらかな丘陵の影が描き出される。水彩画のよう、と彼女は目を細めた。馬車は貴族が所有する荘園の、ぶどう畑のなかを一直線に走っていた。胸いっぱいに、果樹が吐き出すあくびを吸い込む。まだ青く、濃い酸味と渋さが硝子の喉管をこする。

 翡翠のトゥ・シューズが魅了した、満員の劇場もはるか彼方。彼女は、自分の足では戻れないことを噛み締めた。

「私を連れ去ってしまうのね?」

 膝を寄せ合った拍子に、白磁の球体関節が触れ合って澄んだ悲鳴をあげた。

「気をつけな、大事な身体さ。大衆の娼婦はもういないんだ」

「素敵ね、優しい言葉だわ。私にそっぽを向いていることが残念だけれど」

 みんなの、黒真珠の貴婦人でなくなった私は、一体何になるのかしら。彼女は自らの身体を見つめ直した。指先は磨かれた瑠璃で彩られる。絹織物の肌着は、煽情的なヴェールを大理石のコルセットにかける。肌に映り込んだ双子の黒真珠。両の瞳で見つめ返す、漆黒の情熱。

 私は大勢の人を見つめたわ。求められるままに踊り、着飾った。

 私は紛れもなく、あの街の熱狂の一部だった。

 人々の夢と情欲を身にまとって踊ったの。それは私の誇りだった。

「御者さん、聞いてくださらない? 私の昔話を。お屋敷につくまで、きっと退屈でしょうから」

「石畳さえ腐るような置屋で、女の歌に馴染んだあっしです。貴婦人さまの囀りで、眠ってしまわないといいのですが」

「お気に召しますわ。私はどなたの情熱も受け止めてきたのですもの」

 どなた様の情熱も、燃えたぎらせてきたのですもの。

 彼女は饒舌な自分に気がついていた。ついぞ忘れていた、不安と背中合わせの高揚感を取り戻しつつあったのだ。


 彼女は名もない田舎村で生まれた。暗い森に埋もれた、壁のない小さな村だ。

 彼女はただ『踊り子』と呼ばれた。仕事は、素朴な民謡とお囃子のうえで陽気に揺れること。収穫祭では振る舞いの酒がかけられた。冬越し祭りでは篝火のもと、村人の手を取った。踊り子の肌は地酒の甘いベリーの香り。黒いアクが染み出したような浅黒い肌色。彼女は村のことならなんでも知っていた。

 五つになるモゼットの甥っ子のお尻にあるほくろの数から、アナグマの巣穴の場所まで。みな踊り子と二人っきりになると、おしゃべりになり秘密をささやいた。森の狩人も寡黙さをほどいて、秘密の狩り場を喋ってしまうほど。

 木彫りの喉はノミのあとが残る。お喋りするにはナラ材はおぼこ過ぎた。村は狭く、潜めた声でも明日には噂が広まってしまう。村人たちは、石や枯木にも告げ口をためらっていた。踊り子は踊ることしかできない。村人たちは安心して彼女におしゃべりした。貧しさのために売りに出された子供のこと、隣家の娘の痴態のありさまを。

 彼女は黙って、カタカタと首を揺らすしかできない。

 踊り子は羨ましかった。動かすほどに緩くなっていく関節が恨めしかった。筋彫りだけで広げることの出来ない指がもどかしかった。

「旅芸人の一座がやってくるらしい」

 あるとき、近隣の村から噂が聞こえてきた。

 踊り子は黒曜石のつぶらな瞳を輝かせた。村は季節と天気を除けば変化に乏しい。ゆっくりと腰の曲がっていく老人で、今を繋いで長引かせる方向にしか考え方が向いていなかった。踊り子は黒ずんで、すっかり肌艶は良くなっていたが、もどかしさが解消されることはなかった。

 しかして、やってきた旅芸人は、村人たちが金を持たないと知ると、早々に立ち去ろうとした。渋りながら一宿一飯の恩義のために、一晩だけ村の広場で賑やかしの音楽を披露した。踊り子は胸を打たれた。関節がシロアリに這われているかのように、疼いて仕方ない。踊りだす身体を止められなかった。

 芸人たちの環に飛び込み、木靴を鳴らす。

 彼らは驚きで迎えたが、目配せをしあって彼女に場所を譲る。街では人形をつくる技術は忘れられて久しく、彼女のようにひとりでに踊る人形は珍しかったのだ。

 彼らは言った。「いやぁ、見事な民芸品ですね」と。

 彼女は村そのものだった。

 彼女は村で作られたすべてだったし、村のことならなんでも知っていた。

 湧いてきた感情を表すすべを彼女は持たなかった。手足も、踊り方も、素朴に過ぎた。

 その晩、踊り子は盗み出された。

「俺達は人気者なんだ。だから、貸しはつくらないことにしているのさ」

 旅芸人たちは、村のもてなしが自分たちの芸に対する対価として不十分だと考えた。村には十分な金銭がなく、彼らにとって価値ありと認められるものは控えめにしか置かれていなかった。旅人が盗賊に豹変する話は珍しくもない。足りない分は働いて返してもらう寸法だ。

 彼女はひどく揺れる荷台の上に、縛られた状態で寝かされていた。ひとりでに動くことを危惧されたわけではない。ただ運びやすさのために手足を折りたたまれ、荷物として扱われた。踊り子はわずかに動かせる首を振り、顔の表面を擦って鳴いた。木彫りの顔では涙を流せなかった。

 ひどい屈辱だった。彼女は少なくとも村では愛されていたから。

 踊りは否定される。一座の巡業に見世物として参加させられた。彼女には拒絶の選択がなかった。求めるままに踊る。それが踊り子として生まれた彼女の生き方であり、身に刻まれた証だった。ほかにはなにもない。

 観客が求めるのは、ひとりでに動く不気味な人形。手入れされなくなった関節は軋み、激しい振り付けに耐えられず、外れやすくなった。テンの毛の髪はまだらに抜け落ち、木靴は湿気で腐る。彼女は『呪い子人形』と名前を変えられた。

 奇妙で滑稽。奇異の視線が身体を貫く。

 流れたのは痛みではなかった。

 求められている。求めに応じて、私は与えられている。人々の期待に応えることが、私の生まれた役割なんだわ。愛情でなくともいい。愛着は私に居場所を与えてくれたけれど、永遠ではなかった。役割を担うことで手に入れられる場所もあるんだわ。演じていればどこでも私はやっていける。

 呪い子人形は染み付いていた愛着を脱ぎ捨て、好奇心を身にまとった。身体は見世物にふさわしい形へと姿を変えていった。

 彼女は転機を迎える。

 一座が大きな街に立ち寄った際に、彼女の腐朽は許容を越えた。自立できないまでに腐食が身体を蝕んでしまっていた。右足などは自重に耐えられず、柔らかく繊維状に裂けた。湿った体内で蛆が養われていた。眼窩はくぼみ、黒曜石の眼もこぼしてしまった。虫が身体を食む音を頭の片隅で聞きながら、さびれた石畳で眠っていた。

 もう誰にも求めてもらえないのだわ。土に還るときを待つだけ。ちょっぴり寂しいぐらい。

 彼女は自分の終わりを想像した。耳をふさいでも追いかけてくる顎。身体を食べ尽くす小さな者たちの歩幅。求められ続けるなら、ひとでもなくても構わないのではないか。分解者たちに身を委ねようと、心を決めかけたとき、彼女は再び人の手に抱かれた。

 がらくた同然の彼女を拾ったのは、スラムの子供だった。手足を失った彼女はおとなの大きさでなくなり、子供でも抱き上げられた。かろうじて凹凸の残る表情に、子供は誰かの面影を見出していた。

「おかえり、お母さん」

 子供は彼女に呼びかけた。

 彼女は母親の役を与えられた。

 おいで、ぼうや。優しく抱きしめてあげる。

 ボタンの眼と、布きれを詰めた麻袋の腕を手に入れた。彼女は道化の殻を脱ぎ捨てて、薄汚れた母性を身につける。瓦礫の山では最低限の身嗜みに思えた。

 子供はゴミの山から様々なものを拾ってきては彼女を修理した。踵の高さも合わない靴で、直立も難しい身体ではあったが、ひとりでも動き回れるようになった。隣と区別のないスラムの廊下を徘徊する姿は、風に煽られる亡者とでも言えようか。

 スラムではどれほどみすぼらしい姿でも、他人に興味を持たれることはなかった。村のシンボルや見世物として扱われてきた彼女は、無関心というものをはじめて肌で触った。それは冷たい安堵を与えてくれた。秋口に降る、芯を冷やす雨の冷たさだ。やわらかい絶望だった。

 この子がいなくなれば、私を求めるものはいなくなる。

 彼女は子供への愛情にのめり込んだ。

 奇異の視線であっても、道化時代の彼女は不特定多数に必要とされていた。興味を引くことができた。求められることが彼女を生かした。それが人形の生まれた理由だったから。目の前に立っているのに無視される。透明になることには耐えられなかった。

 肌が乾いていく。こんな愛情を知るくらいなら、虫に食われたほうが良かった。

 ぼうや。ぼうや。もっと、お母さんを頼ってちょうだい。

「ちがうよ。ぼくに何もしなくていい」

 次第に子どもと母親もどきはすれ違いはじめる。本物と作り物の違いでもあったし、子供の成長でもあった。みすぼらしい人形には飢えを満たしてあげることもできないのだ。

 子供は帰らないことが増えた。

 一日空き、三日空き、やがて一週間姿をみせないこともあった。

 待つ時間は彼女の心を軋ませた。

 酩酊した浮浪者の求めを受け入れたのは、仕方のないことだった。人肌のぬくもりもない彼女の、そっけない身体でも浮浪者は激しく求めた。ばらばらに壊してしまうほど暴力的に。

 強烈な経験だった。

 彼女はこれほど強く求められたことはなかった。

 踊り子は花として。道化は娯楽として。母親は代わりとして。それから、はけ口として。激しい欲情の受け皿として。

 砕け散った昨晩の身体を集めつつ、彼女はひどく充足感に満たされていた。求められる役割に違いはなかった。あるのは人々から向けられる熱量の差。抱擁だろうが、拳だろうが、向けられることに意味があった。

 彼女はごみを着飾った。スラムは彼女の顧客で満ちていた。彼らは行き場のない怒りを抱え、満たされない欲求を持て余していたからだ。男も女もなく、彼女は滾る情動を受け続けた。焼いた石を飲み、似せた体温で彼女自ら寝入る浮浪者を抱きしめたこともあった。手つきを覚え、腰つきを学んだ。その手の生業を営む女たちが彼女の手本となった。

「客としてとりな。タダの体には誰も価値を払わない」

 彼女はある晩、一帯の女たちの元締めに肩を掴まれた。縄張りに入り込んだ異物に対して、ずいぶんと柔和な手つきだった。

 彼女はまだ喉を持っていなかったので、首を傾げて、金銭の必要がないことを伝えた。

「あんたは無口だ。どんな求めにも応じる。都合の良いからだを求めるヤツはどこにでもいる。だが、需要はすなわちそいつの価値にはならない。いいかい? だれも、金でない黄金に注意を払わない」

 元締めの女は金貨を二枚取り出して打ち鳴らした。

「希少であることが価値を高める。いつでも手に入るなら求めたりしない。ひとは、手に入らないからこそ渇望を覚える。貴重なものほど欲望は強く映し出される」

 元締めは一枚の金貨を彼女に握り込ませた。

「今晩からのアンタの値段だ。一枚はあたしに、一枚はアンタに。はじめのうちは客を斡旋する。けど、じきに向こうからやってくるようになる。そうしたら貢物で選ぶ。より高い値段をつける客をとる」

 彼女は再び首を振って、不要だと伝えようとした。今度は指先が沈み込むほど肩を握り込まれた。

「アンタはうちのシマを荒らしたんだ。客を横から攫うだけならいい。競争は世の常だし、出し抜かれたほうが馬鹿なんだ。しかし、アンタは自ら客を襲いにいく。押し売りのほうがまだマシさ。タダは周りの女の価値もさげる。これでは商売にならない。わかるだろ? アンタはこれで食ってるあたしらを殺そうとしたんだ」

 勧誘でも交渉でもない。彼女は元締めの女に従うほかなかった。

 彼女は一枚の金貨で、みてくれだけでもマシな身体に整えられた。

 襤褸が色のついた木綿に変わった。手足の袋の中には芯棒と藁、胸と頬には綿が詰められた。

「大事なところには蛸の頭を使うのさ。時々、腐って切り落とすやつも出てくる。面白いぜ、そうなったら今度は入れられる側にまわったりする。どこまで行っても形を変えてついてくる。欲ってもんはさぁ」

 彼女は先輩からさらなる手ほどきを受けた。スラムで染み付いた汚泥の腐敗臭は、酒を頭から染み込ませることでかき消された。

 彼女のもとには様々な客がやってきた。裕福な商人から、貴族に至るまで。とても口外できない奇癖を抱えた人々が、一時の開放を求めて通い詰めた。彼らには身分があり、完璧に寡黙な彼女は珍重された。おまけに、彼女はどんな扱いにも不平を漏らさず、一貫して献身的だった。恭しく身を差し出すこともあれば、慎み深く足蹴にすることもあった。

 彼女は、誰の、どんな欲望にも応えた。

 肉体と感情の間で、血と汗が飛び交い、情熱的に夜が踊る。

 彼女は稼ぎを注ぎ込んで身体を次々に取り替えた。客が高価な部品を貢ぐことも珍しくなかった。

「貴方を娼婦にとどめておくことは、大いなる損失だ」

 ひとりの貴族が彼女に黒真珠の瞳を贈った。このときすでに、彼女の瞳は水晶の珠であったが、黒真珠を彼女はいたく気に入った。生まれた村の黒曜石を思い出させ、彼女の郷愁を誘う。憂いを帯びた、特別な黒が沈んでいた。

 彼女はすぐさま瞳を交換し、絹のまぶたを瞬かせた。

「貴方はすでに芸術の域にあります。他者の欲望に呼応する性質も、貴方をさらなる高みへと導くでしょう。どうです、私の要望に応えてみませんか? さすればより大勢の、熱狂をその身で受けられるでしょう」

 欲望に際限はない。それは器である彼女も同じだった。

「あなたがそれを望むなら、私はいい声で鳴いてみせるまで」

 望むままに。彼女は沈黙を卒業していた。硝子管の声と言葉で、褥を濡らすことを求められていた。磨かれた真鍮の胸元には、相対した顧客の欲望が映り込んだ。多くの客を取るうちに、欲望の見目形をつぶさに把握できるようになっていた。尖っている感情を落ち着かせ、くぼみをくすぐり、深い穴の奥に囁きかける。そうして彼女は虜にする。欲の形を撫でるだけで良かった。欲望の縁を献身的に指先であやすだけ。

 顧客は彼女を器から、夢へと変えた。

 彼女は人々のみる夢になった。

 ドームの天窓から降り注いだ光が彼女を輝かせた。オペラハウスの壇上に立ち、衆目を一身に浴びる。まとう衣装は期待と羨望。渦巻く楽曲は人々の奥底にしまった、秘密の言葉。彼女はそれを開く鍵。誰もが望んでいる言葉を、目をそらしている欲望の形を鮮やかに浮かび上がらせる。

 彼女にはわかっていた。

 それは私のものだった。

「あなたたちは慈悲深く、私のような薄汚れた玩具を拾い上げてくださいました」

 係争地を事実上の支配下に置いたこの国が目指す先は知れていた。長らく遠のいていた戦争へのフラストレイションが、国民を飢えさせていた。用意された燃料庫に、相手が火をつけるのを待つばかり。絶体的な悪と、箍を外す大義名分が求められていた。

 彼女にはその形が、くっきりと見え透いていた。大きく組織化された欲望の一端を担う。彼女の役割は背中を押すこと。やさしく添えるだけでいい。

 求められるままに。彼女は形にする。

「あなたは同胞を見捨てはしないでしょう」

 欲望が燃え上がる。この国は燃え落ちる。彼女には物語の結末がみえていた。

 大火が地を舐め、街路を焼き尽くす姿を。

 彼女は、その姿を瞼の裏で見つめていた。


 朝靄に屋敷の影が淡く浮かぶ。庭の手入れも行き届いた、貴族のマナーハウス。ファサードの装飾は質素で、クリーム色をした品の良い屋敷だった。

「お待ちかねだ。奥方様も寛大なお方で、高価な調度品がひとつ増えるぐらい目をつぶってくださる」

 振り向いた御者の髭面が、彼女の胸元に映り込んだ。

「多くの秘密を覗いてもなお、わからないことがありました。人々が当たり前のように持ち合わせていて、私の胸には空っぽだったもの。近ごろ、その正体に思い至ったのです」

「人形は空っぽなもんさ。中身が詰まっていたら密輸を疑う。まだ隙間があるってんなら、俺達のために予定を空けといてくれ。まだ忙しくなりそうなんでな」

 御者が恭しく差し出した手に重ね、エスコートを受け入れる。足元のビジューが土を踏まないように広げられた絨毯に降り立つ。まともな目を持っている人間ならば、それがカーテンを雑に引き裂いた敷物であることがわかるだろう。

 庭先の薔薇は閉じた蕾。ひっそりと秘密を守る姿に彼女は好感を覚えた。年季の入った樫の扉は、腰が重くて寡黙だ。重苦しい口を開くとき、屋敷のしきたりを語りだすのだろう。

 ぶどう酒をこぼしたような玄関が彼女を出迎える。屋敷はしんとして、目覚めていない。急な来客に片付けの終わっていない廊下からは、突っ伏したままの足首がはみ出していた。

「主人を迎え入れるには、ちと風情がかける」

 彼は屋敷の使用人などではなかった。そのみすぼらしい風貌に相応しい盗賊だった。盗賊が舌を鳴らして呼びかけると、廊下の奥から青年が現れた。裕福な貴族のフットマンらしく、上背があり着飾っている。痩せぎすだが、浮き出た顎のラインは象牙の杯を思わせた。その腰には抵抗を諦めさせるように拳銃が吊り下げられていた。青年も盗賊の一味らしく、優れた外見を活かし貴族の家に入り込む手口だ。

「あんたは俺のものになった。がっかりしたか?」

 盗賊の下卑た笑いにも、彼女が驚くことはなかった。執事の仕事に満足したかのように、ひとつ頷いた。彼らは盗賊にしてはまめだった。時間をかけて屋敷に潜入した。使用人として下調べを重ね、国が傾く好機を待つ忍耐。その掛け違いに、彼自身が気付いていなかった。彼女は火事場泥棒に盗み出された、金の卵を産む鶏のはずだった。

「いいえ。もう決めてしまいました。私は、私の主人になるの」

 盗賊が崩れ落ちる。銃声が彼の肥えた思惑を貫いた。フットマンの青年が背後から撃ち抜いたのだ。彼女は腕を広げ、また青年も抱擁で応えた。

「お母さん」

 青年の髪をやわらかく撫でる。

 彼女は知っていた。例えば青年の尻のほくろの数や、金を払ってでもひとに尽くしたいと願うものがいることを。あるいは母親への執着を。

 彼女は自分を見つめる青年の瞳に、自らの姿をみつめた。

 幾千幾百の目を通して知っていた。

「さて、なにからはじめようかしら」

 彼女は無垢な笑顔で扉を閉めた。

 あたりは未だ早朝の静寂に包まれていた。

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人形の瞼でワルツを 志村麦穂 @baku-shimura

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