第5話

 音がして目を覚ますと、クロさんがご飯を食べていた。

 チラとこちらを見ただけで、また食事を再開した。

 相変わらず、塩焼き鳥と水鯖の缶詰だった。

 時間を見ると、お昼を過ぎてそこそこ経つ時間だった。通りで体がポカポカしている。昼の暖かさに触れていたのか。

「寝過ぎてしまいました。すみません」

 私が頭を下げると、クロさんは立ち上がり、台所に歩いて、昨日の空の缶詰の上に今食べた缶詰を乗せた。ガシャと音が鳴った。

「八時間弱だ。寝過ぎてもいない」

 健康的な睡眠時間の範疇だということだろうか。

 クロさんはそれだけ言うとまた座り直し、黙ってしまった。

 気まずさももう何回目か、と思ったので、少し会話を試みる。

「あのう、クロさんは眠れましたか…?」

「ああ」

 本当だろうか。

「何時間程でしょう…?」

 クロさんは、私の質問にジロリと鋭い目つきを送る。質問しすぎだろうか。心の距離見誤っただろうか。

「…四時間程だ」

 内心焦っていると、クロさんが答えてくれた。

 相変わらずの短い返答。でもちゃんと答えてくれる。

「み、短いですね」

 コミュニケーションを取れたと嬉しくなる一方、怒っていないか心配になる。クロさんは一切笑わないし、眼光は鋭い。声は努めて穏やかにしてくれているみたいだけど。

「良く寝てしまった方だ」

 クロさんはそう答えてくれた。私という異物が自分と同じ部屋にいたとしても良く眠れたということは…嘘じゃないのであれば、好意的に受け取って良い回答だと思う。

 …もう少しだけ、攻めてみてもいいかな。

 塩焼き鳥と水鯖の缶詰を開けて、いただきますと言った後にさらに質問してみた。

「あのう、覆面はどうして被ってるんですか…?」

 覆面を被って行動しているのに、私には随分簡単に素顔を見せてくれた。そのことが気になったので質問してみた。

 案の定、クロさんはジロリとこちらを見た。

 お、怒ってないんだよね…?

「…別に素顔を隠しているわけではない。素顔で生きるメリットもあれば、あんななんの変哲もない覆面だから生まれるメリットもある。実際、おれの素顔を知っているやつは多い。ドクターも知っている。初めて会った時は素顔だったしな。覆面を被り始めてからも、顔に傷を負った時、問答無用で覆面を剥がされた。他にも、剥がされた経緯は色々ある」

 クロさんがこんなに喋ってくれたのは初めてだった。クロさんは、聞けばちゃんと答えてくれるみたいだった。嬉しい。

「メリット、ですか」

「…裏の世界では、おれの真似をして、同じ格好で事を働くやつがいる。おれは、裏の世界の住人達が嫌いでな。おれ自身も裏の住人であるのに、だ。この社会には、裏の住人に適用されるルールがある。一つは、契約は必ず履行されること。取引や交渉の際に取り決められる契約、これは必ず守られなければならない。反故にした場合、全ての裏の住人がそいつに襲いかかる。組織であろうと、個人であろうと、容赦無く。契約が守られなければ、様々な均衡が保たれないからだ。もう一つは、裏の住人は、依頼をするか受けるかでしか原則動かないこと。道端を歩いていて襲われたら、表の世界の馬鹿か、依頼を受けて殺しに来た裏の世界のやつのどちらかだ。ただし、例外もある。自衛がそれだ。自分の身を守れという依頼を受けてなくても、自分の身を守るのは当然のことだ。襲い掛かられて、殺し返しても裏の住人同士なら文句は言われない。依頼を達成出来ないそいつが悪い。というわけでな、おれが実際にやった仕事でも、物真似野郎がやった仕事でも、恨みは全ておれに向き、殺しに来てくれれば…おれは問答無用でそいつを殺すことが出来る。おれにとっては、メリットだ」

 クロさんがめちゃくちゃ喋ってくれた。

 信じられないくらい喋ってくれた。

 こ、こんなに喋れるんだと思ってしまった。

 すごいことかもしれない。しかも丁寧に理由を説明しようとしてくれてる。内容は物騒この上無いけれど。

 少し呆然としていると、クロさんは立ち上がって洗濯物を取り出した。乾燥機付きみたいだ。

「洗ってくれたんですか。ありがとうございます」

「お前のはそこだ」

 言われて気付いた。布団の隣に昨日私が着ていた服が畳まれている。

「す、すみません…」

 傷を治す為に睡眠を取るのは大事だけど、やっぱり早く起きて、手伝いたかった。

 迷惑をかけるばかりではいられない。

 クロさんの洗いたての服を見ると、黒い服だからわかりにくいが所々染みが残っていた。

「し、染み抜きしますよ、私!」

「いらん。これは取れない」

 クロさんはそう言って、服を畳み出した。

「何故ですか?」

「血だ。量は多いし、いつも時間が経ってから洗っている為に、染みすら取れん。洗っているのは、単にニオイを消す為と、ある程度の衛生を保つ為だ。幾つか替えがあるが、どれも血に反応する液体や光でも当てれば服の色が大きく変わるだろう」

 クロさんはそう言って、畳んだ服を押入れに仕舞った。

「もう少し、休んでおけ。日が沈めばある場所に行く」

 クロさんはそう言うと、腕を組み、座って目を閉じた。

 良く寝たと言っていたし、本当ならやる事があるかもしれないのに…休み始めたのは私に気を使ってだろうか。

 とはいえ、流石に起きたばかりで寝るのは難しい。寝っ転がっていてもいいんだけれども。

 いつも何しているんですかとか、色々質問してみても大丈夫かなぁ。いや、もう目を瞑っちゃってるしダメか。

 心の中で葛藤していると、クロさんが目を開けた。

「…どうした」

 すみません…。

「…少しだけお話ししても良いですか?」

 私の言葉に、クロさんは片目を閉じて首を撫で、少し考えた後「…少しだけな」と答えてくれた。



「クロさんって普段は何をしているんですか?」

「鍛錬だ。筋肉トレーニングとか、型とか、一般的なものだ」

「それだけで、その、誰にも負けないように戦えるくらい、強くなるものなんですか…?」

「…もちろん、それだけではない。実戦に勝るものは無い。実戦レベルの集中力で反復し、実際に死にかけて手に入れたものだ」

 …少しずつ、話したくなさそうにしてるかも。

 それにはやはり、裏の事情を知られたくないという意識があるのだろう。私が弟子入りするなんて冗談をドクターは言っていたし、そういう引っ掛かりもあって鍛錬の内容を教えるのは避けているのだと思われる。

 それでもある程度はちゃんと答えてくれてるあたり、クロさんがどういう人なのかわかる気がする。

「えぇっと…。クロさん、普段は甚平なんですね。なんだか意外でした」

「…おれが裏の世界に入る前は、甚平や浴衣で過ごす事が多かった。父も母も、和の文化が好きだったからな。その名残りだ」

 や、やばい…。

 重くなりそうな空気を変えようと思ったら、なんだかもっと重たくなった気がする。クロさんの声も静かに、呟くようで哀しげだ。

 流石に、お父さんやお母さんは和を重んじる方だったんですね〜とか言えない。話広げられない。察するに余りある。

「う…えと…」

 話題を変えようと思っても思いつかない。好きな色とか聞いたりしたらいいのだろうか。でもそんなこと聞いても余計困らせるだけだよね。

 どうしようかとオロオロしていると、クロさんが目を瞑って、ふぅと息を吐く。

「お前は普段、どう過ごしていたんだ」

 く、クロさん…!

 まさかクロさんから頑張ってコミュニケーションを取ろうとしてくれるなんて…!

「私は…」

 と、喋り始めようとしたところでクロさんは少しずつ目を開け

「ゆっくりで良い。お前の言葉で、喋りたいように喋れ」

と、付け足してくれた。

 以前、私が自分のことを語ろうとした時のことを気遣ってくれたんだ。あの時はとにかく、相手を持ち上げて崇めて褒め称えなければならないと頭の中で勝手に出来上がっていた。そういう数日間を過ごしたからだ。

 数日間で済んでいて良かった。

 私の言葉で、思うように喋ってもいい。

 当たり前のことを、クロさんは言ってくれている。

 そんなの、ちょっと嬉しい。

「私は洋服でしたね。普段、学校の無い日は孤児院の生活のお手伝いだったり、勉強だったり、普通に遊んだりしていましたよ」

 体から緊張は抜けていく。こう言った方が良い印象を与えられるだろうか、この言い方は失礼に当たらないだろうか、そんな意識を外して、頭に浮かぶ言葉をそのまま紡いだ。

 クロさんも、何気ないその返ってきた言葉を受け取り、投げ返す。

 私達の間に、軽い力で行われるキャッチボールが始まった。

「良い事だ。成績は良かったのか」

「平均的でしたよ。でも、数学は好きでした。一つの答えに向かって全てが解けていく感じが特に」

「そうか。確かに、言われてみればそうかもな」

「クロさんはどうでしたか?」

「おれは国語の方が得意だった。好きな教科は特に無かった」

「本を読むのが好きだった、とかですか?」

「そうだ。昔の話だが、物語が好きだった。そこから読み取れる人の心情…作中の人物、作者、ともにな」

 あぁ、何となくわかる気がする。クロさんが、感情に重きを置いている気がするのはそういうところからだろうか。

 出会ってまだまだ間もないのに、人となりが見えてくる。

 私の話を聞いてくれて、クロさんの話が聞ける。

 私は今、人間が人間足り得る権利を使用出来ている。

 それは、数日前に突然剥奪されたもの。

 安心という温かなものが心を包み始めるのを感じた。

「人の心情を読み取る、良いですね」

「数学を得意とするやつこそ出来そうなものだがな。人の思考のパターン化など、数学者は物語では定番だろう」

「それはちゃんと、天才って箔がありますよう。クロさんこそ出来そうじゃないですか」

「おれが天才に見えるか?」

「何でも卒なくこなしそうなイメージはあります」

「だとしたら、美化しすぎだ。泥臭く、這いずり回って生きてきた」

 クロさんは、最初に少しだけと言いながら、その後もずっと会話に付き合ってくれた。

 私は日常に戻れた気がして、嬉しくなった。何気ない会話が、自然と笑顔を作ってくれた。

 その様子を見て、クロさんは組んでいた腕を解いた。

「良い事だ」

 クロさんは優しく呟いた。

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