第1話

 助けを求め、張り裂けんばかりの声をあげる男が何度も殴りつけられる。

 鼻血が出ようが、涙が出ようが、お構い無しに拳は叩きつけられた。

 また右腕が振り上がる。拳に付着した血潮が舞う。馬乗りされている男は短い悲鳴を上げた。

「やめてくれ!許してくれ!」

「お前はどう答えた?」

 振り上げた右腕が、もう一度男の顔を潰した。

「死んじまう…!」

「お前はどう答えた?」

 男がどのような制止の言葉を口にしようと、同じ問いを返し続けた。その度に拳は振り下ろされた。

 何度も何度も繰り返された。

 やがて、男は永遠に喋らなくなった。

 その事実を確認すると、殴る事をやめて彼は立ち上がった。

 身長は170センチを少し超えたくらい。黒いハットを深く被り、その下の表情はさらに覆面を被っているために窺えない。覆面は真っ黒で、赤い返り血が染みているようだった。黒色のコートに身を包み、下は黒色のスーツズボン。革靴も黒色。手には黒い革手袋で、つまりは、全身を真っ黒に染めていた。だが、それでも隠しきれない赤が全身至る所に跳ねている。コートなどで分かりにくいが、コート越しでも十分に鍛えられているであろうと分かる体つき。

 彼は冷たく、動かなくなった男を見下ろし、そしてライターで男の服に火をつけた。

 その他部屋のあちこちにも火をつけた。

 部屋に熱気が充満し、焦げたにおいが満ちていく。

 はらはらと舞う火の粉が黒い男を照らす。その姿は、焦土に佇む修羅のように。

 小さな一つ一つの火の手は盛え、やがて集まり大きな炎と化した。

 彼は、燃えていく部屋をゆっくりと歩いて出て行った。



 暗がりに続く路地から、さらに闇を進むと見え始める地下への入り口。そこにある一つのバーの奥の席に、先程の真っ黒な男がいた。向かいには、恰幅の良い中年の男性が座っている。

 オールバックに、スーツの上から黒色の大きなコートを肩に羽織っている。鋭く開かれる目は相手に威圧感を感じさせ、上に立つ者としての威厳をありありと感じさせた。

 男性は煙草の煙を燻らせ、酒を飲み、未だ焦げ臭い真っ黒な男と会話を始めた。

「依頼は終わったか」

「ああ」

 真っ黒な男は短く返事をした。

 それは、人の命を奪っておきながら何でもなかったかのように平然としたものだった。

 恰幅の良い男性も、この男によってある誰かの命が失われたとわかっていながら淡々と話を進める。

 人として何か、大切なものが欠けた者同士の会話だ。

「より良い街を、と権力を握り始めた平和主義の政治家の一人娘を誘拐、身代金を要求して受け取った後は女としての地獄を受けさせて殺害。その後、逃亡。お前に仕事を頼んで良かったよ。後少し殺すのが遅けりゃ、海外に飛ばれてただろうな。依頼主の、恐怖を味合わせて欲しいという願いも叶えられたか?」

「いや、足らなかったかもしれない」

 真っ黒な男は語気に怒りを込めながら言った。

 人が死んでしまうまで顔面を殴りつけておきながら、なおもそんな言葉を吐いた。

「その返り血の量から、とてもそうには思えないがね。どうせ、いつも通り、切ったりなんなりしたわけでもないのにその量だろう」

「思いの外、力が入った。考えているよりも早めに事切れた。逃げられたようなものだ」

 恰幅の良い男性は、その言葉を聞いて鼻で笑った。

 死ぬまで殴られておきながら、微塵も許されていない誰かに少しばかり同情したのだ。

「じゃあ、標的はまだ運が良かったのかもな。ほらよ、報酬だ。お前は強いが、お前が受ける依頼は条件があるから面倒だ」

「そうか」

 真っ黒な男は札束を乱暴に掴み、コートのポケットにそのままねじ込んだ。真っ黒な男にとって、金などさして重要ではないのだと、その表れだった。

 それも、いつものこと。

 恰幅の良い男性は何も気にせず話を続ける。

「依頼主は、精神がイカれ始めてる。このまま重要ポストに就いたとして、平和主義を保てるかどうかは…難しいだろうな。お前が殺した男も、恐らく誰かに依頼されて娘を誘拐し、殺害したんだろう。そいつらの思惑通り、依頼主を壊す事は成功だろうな。だがまぁ、ここから先はお前には関係のないことだ。さて、お前の報告は伝えておく。さぁ、この話は終わりだ。後は、なるようになれだな」

「…そうか」

 真っ黒な男はそれだけ返し、立ち上がって店を出ようとする。帽子の先、覆面の下の表情は今どうなっているのかは、本人にしかわからない。

「おい、馬鹿するんじゃないぞ」

 恰幅の良い男性から掛けられた言葉に、今度は返答せず、足も止めずに出て行った。残された男性はため息をつき、酒をさらに口に含んだ。強いアルコール度数の酒を体内に流し込む。胃が熱く滾り、ふわふわと頭を酔わせる。

 そうして物思いに耽る。


 真っ黒な男は、途轍もなく強い。体術のレベルは高いし、状況に応じて動く力も非常に長けている。だから、その点は安心して仕事を任せられる。だが、悪を憎みすぎている。真っ黒な男自身が、人を殺す違法な存在であるというのに。

 真っ黒な男は、犯罪者を捕まえるわけではない。行き過ぎた感情で、必ず殺す。

 この社会で、適用されるべき法を無視する横行。正義とはかけ離れた存在だ。

 悪を滅するからといって、必ずしもそれが正義と認められるわけではない。社会の均衡を保つ為には、罪に対する相応の裁き、つまりは刑罰によって償うべきである。しかし、真っ黒な男は正規な手順を踏まずに私刑を断行する。法的な観点からも、真っ黒な男は間違いなく許されない存在だ。故に、真っ黒な男は裏の世界の住人として生きていた。

 だがまぁ、裏の住人として生きるには気難しすぎた。なにせ、裏の住人の殆ど、いや、全てが真っ黒な男にとっては敵だ。自分も例外ではない。しかし、自分が襲われないのは理由がある。

 それは、自分には利用価値があるからだ。

 裏の住人、その中でも自分はそれなりの立ち位置にある。表の世界からも裏の世界からも、あらゆる依頼がひっきりなしに自分には来る。闇雲に極悪人と呼ばれるような犯罪者を探すよりかは、効率の為に自分を利用することを選んだ。

 より多く、悪を殺す為に。

 悪を殺す為に、あらゆる情報が即座に手に入るというのは重要だと真っ黒な男は判断したのだ。

 それともう一つ、日本の警察は非常に優秀だ。

幾度となく繰り返される真っ黒な男の凶行、それを止める為に追ってくる警官を煙に巻く必要がある。買収出来るものでもないが、自分ならあらゆる手で捜査を撹乱させる事は出来る。

 無論、確実なものではない。捕まるかどうかは真っ黒な男自身である程度何とかしてもらう必要があるが。

 そういった諸々の理由から、自分と真っ黒な男は契約をした。自分は悪人に関する依頼を斡旋するし、ある程度の環境を用意する。真っ黒な男は、依頼を迅速に解決する。

 それと、先程の馬鹿な事をするなというのは、真っ黒な男があらゆる裏の住人に喧嘩を売らないように言った警告だ。タガが外れているあの男には、言うだけ無駄な気もするが、一応いつも言っている。自分との利害関係を理解しているため、関係が悪化するような事はしないだろうが…。

 いつ、気が変わるかはわからない危険な男だ。


「嫌いでは、ないがな」

 中年の男性は、煙草を灰皿に押し付けた。

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