黒と白の境界線

チャッピー

プロローグ

 濃く映る思い出に、彼は強く顔を拭った。

 大粒の雨が強く降る。

 身体を痛いほど叩く雨。服はどんどん重くなる。

 視界がぼやけているのは、遮れない雨のせいなのか、それとも、目頭が痛いほどに熱いせいか。

 目の前に広がる赤い水溜まりを、雨が排水溝に流していた。

 それは、とても長い長いラインを引いていた。

 強い雨であるのに薄まらず、とても長いのにあまりにも濃いライン。それだけで、目の前の人であったモノから、生きる為に大切な液体がどれほど溢れ出してしまったのか。もう取り返しのつかない状況であることを突きつける。彼に突きつけて、離してくれない。

 優しく笑いかけてくれた頃を思い出す。今も、穏やかに笑っている。しかし、その表情が変わる事はもう無い。固まってしまった。意思はとうに奪われた。

 徐々に失われていく熱。目の前の、肉塊になってしまったものは冷たくなっていく。

 雨が追い打ちをかけてさらに流していく。

 もうこれ以上奪われたくなくて、強く手を握った。

 わかっていてもやらずにはいられなくて、体を揺さぶった。

 全てが、もう遅い。もう、変わらない。


 いやだ。ぼくを、独りにしないで。


 とても寒かった。

 雨のせいだけじゃない。これからの未来を考えると、寒くなるのは身体だけではなかった。

 雨に濡れる自分の身体も、そして、心も冷えていくのがわかった。

 暗い、暗い、これからのこと。

 暗い、暗い、目の前のこと。

 輝く思い出が、心の闇を深くする。

 光が強ければ強い程、影は濃くなる。

 遠くから、赤色灯と共に耳障りな高音が近付いてくるのに気付いた。

 誰かが見ていたのだろうか。ならば、その誰かは助けてくれなかったということだろうか。

 誰も助けてくれなかった。

 認めたくない現実は、一向に容赦してくれないようだ。

 流れ出るものが止まらぬように、時間も止まることはない。


 父さん


 掠れた声は、闇に溶けた。



 腐った街で起きた一つの殺人事件。

 夜に出歩いていた若い男性と中年の男性。

 雨が降り始めた、肌寒い夜だった。

 お酒を少し飲んだ後、家に向かって小走りで楽しそうに笑っていた。日常の中のささやかな幸せを噛み締めながら。

「雨を避けたら傘もいらないからな。見よ!」

「馬鹿だなぁ、父さん」

 さぁさ、早く帰ろうよと言いながら、人通りの少ない道に笑い声が響く。だんだん強くなってきたとはいえ、降り始めた雨では二人の笑い声を遮ることは出来ない。

 そんな二人組に、突然ナイフを突きつけて金を要求してきた見るからに貧しそうな男がいた。

 急な不運に、二人は足を止めて顔をこわばらせた。

 若い男性を下がらせ、中年の男性はポケットから財布を取り出す。

 急展開であれど、ここは腐った街。追い剥ぎは日常茶飯事の如く、どこかで必ず起きている。たまたま自分達の番が回ってきてしまった。中年の男性は焦ることなく、命を第一に財布を渡した。

 しかし、ナイフを持った男はさらに要求をした。

 若い男も財布を持っているだろう。出せ、出せ。


 出せ!


 感情がどんどんと昂っているのがわかった。

 最初から金を奪い取る方法は、襲ってからだと決めていたのかもしれない。ナイフを振り回しながら叫び狂い、怒号をナイフに乗せて切りかかろうと距離を詰めてくる。

 ジリジリと、時に飛び掛かるように。

 中年の男性は、若い男性を庇いながらナイフを持つ男に抵抗した。今さら金目どうこうという騒ぎでは無くなっていた。

 揉み合う中、ついにナイフは中年の男性の胸部に深く突き刺さった。

 一度突き刺さればそこからは連続で。数箇所を幾度となく刺された。

 倒れ伏しながらも、中年の男性は、身体に深く刺さったナイフを奪い取り、遠くに放り投げた。

 男は放り投げられたナイフを見て、若い男性を見て、舌打ちをした後に中年男性を一発蹴り、そうしてやっとその場から慌てて去っていった。

 中年の男性は多くの血を流しながらも、それでも若い男性に微笑んだ。


「…今日は、少しばかり運が悪かったなぁ」


 中年の男性は申し訳無さそうにそう言って事切れた。

 途端に雨の強さを感じた。雨は、激しさを増していった。

 

 後日、強盗殺人を行った男は無事に捕まった。

 長い月日を経て、裁判が行われた。

 犯人は泣いていた。泣いて反省している『風』だった。

 彼には無期懲役の判決が下る。

 だから何だと言うのだろう。

 死刑であれど、無期懲役であれど、若い男性は納得が出来ない。

 出来ないのだ。

 出来るはずも無いのだ。

 何故、あの人が殺されなければならなかった。

 何を泣いてやがる。

 お前が今流している涙と、あの日ぼくと父さんが流した涙にどれほどの違いがあると思っている。

 貴様に相応の罰とは、より残虐な地獄だろうが。

 ふざけるな。

 ふざけるな。

 何をのうのうと生きてやがる!!!

 

 この腐った街では、こんな事件はよくある事だ。

 よくあって、たまるか。


   ○


 冷えて壊れた心は、強く、硬く、そして歪んで何とか形を保っている。同時に身体も。

 若かった男性は、長い年月を経て変わり果てた。

 正義の味方になるつもりは無い。

 彼の行いは、明らかに正義を超えている。

 彼も、悪に堕ちたのだ。

 だが、彼にしか救えない人もいるのだ。


 暗い、深い、夜の闇。

 男は今日も、黒い感情に生きる。

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