第5話 君の物語は続かなければいけない(後)
翌日の放課後、俺たち四人は校舎の隅の秘密基地に集まっていた。
殺風景だった旧手芸部室には、気づけばモノがあふれている。
2リットルのポット、
これらはすべて太陽が家から持ってきた。「使わなくなったやつ」と彼は説明した。ともするとここが進学校の一室であることを忘れそうになる。
俺と高瀬はこの放課後の時間を自習や宿題に充てていたが、これといってやることのない太陽と柏木は野球ゲームで対戦したり、ババ抜きをして過ごしていた。
「さて」と太陽はあらたまった声で言った。「こうして集まるようになってから一週間が経った。大学希望組以外はダラダラと無為に過ごしてきたわけだけど、ここいらで一発、大きいことやるぜ。オレたちの最初の大仕事と言ってもいい」
4シーズン前の選手データが収録されている野球ゲームで柏木と熱戦を繰り広げることが、自身の望む未来につながらないことを太陽が自覚していたことにほっとし、次の言葉を待つ。
「ついに来週に迫った学校行事と言えば何だ? 悠介、言ってみろ」
「はぇ?」
イベントごとに
「ああ、林間学校か」
「そうだ、ついにあの恐怖の林間学校なんだよ」
なんにでも前向きに興味を示す太陽のその物言いは意外で、事情が飲み込めない俺たち三人は顔を見合わせる。
柏木が口を開いた。
「恐怖って、大袈裟な。夜中に肝試しでもやるわけ?」
「肝試しならまだいい方だっつの。ていうかむしろやりたいわ」太陽は肩をすくめる。「なんだ、知らないのかみんな。鳴桜高校名物恐怖の林間学校。てっきり誰かからその恐ろしさを聞いているもんだと思っていた」
俺たちは首を振った。太陽は顔を引きつらせて話し続けた。
「林間学校なんて聞くとワクワクするかもしれない。何を隠そうオレも最初はそうだった。ところが先輩から実態を聞くとね、もうね、仮病を使って休みたくなるね。
行き先は隣町にある
「
「そうそうケーサク」太陽は指を鳴らした。「座禅組みで邪心を払い、精神の美化を果たしたら、今度は還元ということで山の美化――すなわちゴミ拾いがオレたちを待ち構えている。適当は許されんぞ。班ごとに袋の枚数が決まっていて、それをゴミで埋めるまで、終われないそうだ」
俺は自分がケーサクでぶたれる姿や、虫や蛇に怯えながらゴミを拾い続ける姿を想像してみた。誰かさんみたいに仮病を使いたくなった。
太陽は続けた。
「くたくたになった身体を休める間もなく、今度はテント設営に炊事だ。炊事ではもちろんガスは使えん。火起こしからやらなきゃいけないから、とにかく時間がかかる。この頃にはみんなカリカリしていて険悪なムードになる班も出てくるってよ。そんで夜は、設置したテントの中で8時就寝。8時だぞ? ふざけんな。昨今幼稚園児だってもう少し遅くまで起きてるっつの。
そんで何がきついって、山の中だろ? いくら6月といってもとにかく寒いんだよ。疲れきった身体は眠りを求める。しかし寒い。もちろん暖房器具などない。8時就寝なんて慣れていないのもあって、そう簡単には眠れない。起きることもできず眠ることもできず、意識が朦朧としたまま、朝まで耐えるしかないんだよ。……どうだ、皆の衆。これを聞いて心躍るか?」
「きっつ」柏木の顔にある全てのパーツが歪んだ。「せめてキャンプファイヤーでもあればねぇ」
「私はちょっと興味あるかな、坐禅」高瀬が言う。座禅を組む高瀬に俺は興味があった。
「なんでこんな苦行をやるかっていうとだな」と太陽は言った。「それもこれも全ては市内一の進学校という呪縛のせいな。高一の早い時期にこうして辛い経験をすることで、受験のプレッシャーに押し潰されない、たくましい精神を養うとかなんとか……。そういうのって時代錯誤なんだよなぁ」
鳴桜は市内で最も歴史がある高校でもあるので、旧態とした考えや校風が依然色濃く残るのだ。
柏木は腕を組む。
「林間学校が地獄だってのはよくわかったけど、最初に言ってた“大仕事”って、いったいなんなのよ?」
「よくぞ聞いてくれた柏木よ」太陽は手を叩く。「いくら苦行だからと言って、ただ耐え忍んで過ごすのも、味気ないというもんじゃねぇか。そこでだ」
嫌な予感を湧き起こさせる、そこでだ、だった。
太陽はシャツの胸ポケットから紙切れを取り出すと、長テーブルの上に勢いよくそれを叩き付けた。
皆の視線がその一点に集中する。それは数日前の地方新聞の切り抜きだった。見出しには、ゴシック体でこうあった。
「
「とにかくまずは、読んでみてくれ」
太陽の呼びかけに応え、高瀬が代表してそれを読み上げることになった。
天使が演奏するハープの音色のようなその声に耳を傾け、俺は頭で情報を一つ一つ整理していく。
要約すると、こういうことだった。
なんでも俺たちが林間学校で行くことになる隣町の神恵山は海からさほど離れておらず、江戸時代にはこの界隈の海を根城にしていた海賊団の宝の隠し場所になっていたという。
ある時強烈な台風が海賊船を襲い、船は難破してしまう。数十人いた海賊のうち一人だけが地元の漁師に助けられ、なんとか一命を取り留めた。その青年は海賊から足を洗い、お返しとばかりにその漁村で村民のために生きる決意をし、村の女を
時が経ちすっかり年老いて病床に伏したその元海賊は、遺言として家族に対して、自らが若い頃に海賊団の一員として海を荒らし回っていたこと、そして当時南米を支配していたスペイン帝国の船を襲撃した際に、戦利品として得た淡い緑色に輝く宝石が神恵山に隠したままになっていることを打ち明けた。
子どもたちは父の死を看取るとさっそく神恵山で捜索を試みるが、その宝石を見つけることはできなかった。その後も幾度となく山に足を運んだが、目にするのは狐と狸と鹿ばかり。緑色に輝く宝石などひとつも出てはこなかった。
それでも父親の話が決して絵空事だと思えなかった子どもたちは、年老い自らの死期が近づくと、父が自分たちにそうしたように、自らの子どもにも遺言を語り伝えていく。そしてその子どもたちもまた神恵山に赴くが――と何代も繰り返し、今に至る。
さすがにもはや元海賊を祖先に持つ一族だけでその情報を管理することは難しくなり、現在は知る人ぞ知る隠れた財宝伝説となっているという。
ちなみに俺は隣の市に15年住んでいるわけだが、こんな話は初耳だった。
「宝石、財宝、億万、長者」と柏木が早くも皮算用を始めたかと思えば、「江戸時代のこういう伝承って、日本各地にあるよね」と高瀬は冷静に言った。個性って出るね、って俺は思う。
記事には続きがあって、その緑色の宝石とは、南米からスペイン帝国籍の船が運んでいたことを考えるにエメラルドであろうということ。さらについ数日前、神恵山を遠足で訪れ勝手な行動が元で迷子になってしまった小学生が、実際に緑色に輝く“何か”を山中で目にしたらしいことを報じていた。
一通り情報が明らかになり、時効の成立を確信した逃亡犯のような湿り気のある笑みを浮かべる太陽を見て、俺にはある懸念が芽生えていた。誰もそれを言い出しそうにないので、口を開いた。
「あのな、太陽」声が震える。「その、まさかとは、まさかとは、思うんだが」
「ん? どうした悠介、青白い顔して」
「まさか、この大航海時代の財宝とやらを、俺たちで探そうっていうんじゃないよな?」
太陽の瞳がキラリと光った。
「さすがオレのダチだ。察しが良いな」
「宝探し!」柏木は飛んだり跳ねたり、興奮を隠しきれない。「うん、いいじゃない! 面白そう!」
「本気か!?」と俺は言った。「こんな
「なんだ悠介、夢がないな、夢が」と太陽は言った。「いいか、よく聞け。男なら財宝の一つや二つ、いつでも掘り当ててやるっていう気概を持って日々を生きなきゃいかん。だいたいそれにこいつは完全な嘘っぱちというわけじゃないんだぞ。記事に書いてある通り、それらしい目撃談もあるんだ。眠っているんだよ、この山には大航海時代の宝石が」
「そんなもんは見間違いか、注目を浴びたいがためのデタラメであってだな……」
見れば、記事は新聞の地域欄から切り取られていた。犬の散歩の途中にツチノコを見たとか、地域一の高齢おばあちゃんの長生きの秘訣は好きなものを好きなだけ食べることとか、そういう、肩の力が抜けた記事の掲載が許される場所である。どうしたってその信憑性には疑問符が付く。
「高瀬はどう思う?」と俺は言った。「こんなの馬鹿馬鹿しいよな?」
同意してくれることを期待したが、彼女の第一声は「でも」だった。
「でも、本当に何もなければ、こういう伝承って長い間残らないよね。この海賊団が神恵山を宝の隠し場所にしていたのは、どうやら間違いないみたいだし」
その声からは高揚感が聞き取れた。高瀬にこの三年間で冒険によって宝探しをさせると心で密かに誓った俺だが、それはあくまで比喩であって、まさか本当に宝探しの話が持ち上がってくるとは、思いもしなかった。
「いいか、みんな」と太陽は言った。「オレたちにはそれぞれ手にしたい“未来”があるというのは承知の通りだ。もし緑色に輝くこの宝石を見つけることができたなら、単純に四等分したって、その未来のための軍資金になるのは、間違いないんじゃないか? 悠介は大学のために居酒屋で夜遅くまでバイトをしなくたって済むし、オレはいざとなれば家を出てドラムに明け暮れる生活を送ることができる。高瀬さんも三年あれば途中で何がどう転ぶかわからない。自由に使える金は多いに越したことはないはずだ。柏木も……いや、柏木は、金、いるのか?」
「あったりまえじゃない!」柏木は身を乗り出す。「幸せな家庭を築くには、ある程度のお金だって必要なんです! あたしは絶対乗るからね、この話」
スペイン帝国の財宝を売って得た金を元手に構築した家庭は、柏木が目指すそれとは一線を
「きれいだよね、きっと」誰よりもきれいな高瀬が目を細める。「もしあるなら、私も一度見てみたいな。緑色に光り輝く宝石」
「ははっ、どうする悠介。一人だけになっちまったぞ、反対派」
太陽の挑発に、俺は口をつぐんで考え込む。
きっと三人とも、心から本気でエメラルドを見つけようなどとは考えていないように思う(一人明らかに先ほどまでとは目の色が違う女がいるが、見なかったことにする)。おそらくそれはあくまできっかけであって、実のところは、それこそ普段はできない、心躍る冒険を望んでいるのだろうと思う。それならば……。
人類未到の地にて湧く泉のような透明度の高い高瀬の表情を見れば、答えは決まっている。
「しょうがない。その代わり、何があっても知らんからな」
「そう来なくっちゃ」と太陽は白い歯を見せて言った。「ようし、決まった。これで地獄の林間学校にもようやく一筋の希望が見えてきた。各自用意するものは、追って連絡する。当日まで風邪なんか引くんじゃねぇぞ。誰が欠けてもダメだ。それでは今日は解散!」
この三人といると、いつかタイムトラベルすることになるかもしれない、とふと思う。
「悠介、来週、幕末に行くから準備しとけ、黒船見るぞ黒船。男なら黒船の一つでも目に焼き付けとかなきゃいかん」とか太陽が言い出し、柏木が飛び跳ね、俺が無理だと訴えて、高瀬が可能性を夢見る。
オーケイオーケイ。
レット・イット・ビー。
どこまでも付き合おう。
合い言葉は、未来。
♯ ♯ ♯
その後俺たちは校舎を後にし、四人で並んで帰途についた。
現代社会の先生のカツラ疑惑について討論したり、ついにこの街にも出店した有名餃子店の寸評で盛り上がったりと、
まぁ実際に高校生なんだから誰の目を気にする必要もないんだけど。
まずは高瀬が市バスに乗るため俺たちから離脱し、次に知り合いの演奏を見るためライブハウスに行くという太陽が抜け、俺は今世界で一番ふたりきりになりたくない人物とふたりきりになってしまった。
だいたいが柏木晴香という女は、掴み所がないのである。
先週に屋上で俺に告白のようなものをしておきながら、それ以降何事も無かったかのように振る舞い続けているのだから。それはそれで気楽な面もあるのだが、俺からすれば、ではあの屋上の一件はいったいなんだったのか、と首を傾げたくもなる。
「なによ悠介」沈黙を嫌った柏木が口を開いた。「優里も葉山君もいなくなった途端に固くなっちゃって。もしかして、今更あたしに緊張してんの?」
「そりゃあほら、こないだのことが、あるからさ」
俺は探りを入れるように言う。
「あれぇ? 結構気にしてたんだ? かわいいでちゅねぇ、悠介君」
「茶化すなって」
「何度でも言ってあげるよ。好きだぞ、未来の旦那さん」
そう言って彼女は体を密着させると、強引に腕を組んできた。甘い香りがふわっと鼻をくすぐる。
もう何も面倒なことは考えないで柏木の気持ちを、そして未来を受け止めることができたなら、どんなに楽だろうという思いが頭をかすめる。
「世界一幸せな家庭を築いてみせる」と柏木は言う。たしかに彼女となら(世界一かどうかはさておき)それなりに幸せな家庭を作れるだろう。
そしてその夢を一緒に目指すことは、未来の幸せを望みながらもまだ具体的な将来像が描けない俺にとって、うってつけの選択のように思えなくもない。
そこでふと冷静になり、いやいや、と俺はかぶりを振る。
高瀬がせっかく自分の未来を変えるべく、大きな一歩を踏み出したばかりなのだ。
もし俺と高瀬が共に四年制の大学へ行き、無事に卒業するという宿願を果たすことができたなら、それは幸せへとつながっていく道を進んでいることになるだろうし、トカイとの政略結婚を回避した未来を歩んでいる以上、彼女の伴侶はこの俺という可能性だって出てくるのだ。
やはり自分の気持ちに嘘はつけない。道のりは険しいけれど、高瀬と歩む未来を捨てきるなんてこと、できやしない。
「柏木。あらためてはっきりしておくけど」俺は組まれた腕をにべもなく離した。「俺は高瀬のことが好きだ。この気持ちはそうかんたんに揺るがないよ。おまえは俺なんかとは釣り合わないほど美人だ。おまえを幸せにしてくれる旦那さん候補はいくらだって見つかるはずだ。だから俺なんかを未来の旦那に想定して動くのは、もうよせ」
どんな反応が返ってくるかと思い変にやきもきしていたけれど、柏木は気にも留めない様子で「はいはい、そうですか」と手を振った。
「すいませんねぇ。あたしはこう見えても、一度決心したことはそう易々とは変えない頑固者なんです。何と言われようと、こっちで勝手に想い続けさせてもらいますからね」
「なぜ俺なんだ?」
「だから、悠介があたしの運命の人だって確信してるから、だよ」
「いったいどうしたらそんな確信が持てるんだ? 明確な理由があるんだよな? いい加減教えてくれよ」
「だめぇ」柏木はこちらを翻弄するような目つきで言う。「今はまだ教えられない。あたしにだってねぇ、作戦ってもんがあるのよ。これは切り札としてもうしばらく取っておく。あの優里から悠介の心を引き剥がさなきゃならないんだから、カードの切り方だって、よーく考えなきゃ」
引き剥がす、と心に留める。あまり穏やかじゃない。
「ねぇ悠介、一つ聞かせて?」
「なんだ?」
「優里のどこに惚れたの? 『かわいいから』とかはなしね」
満月の夜の占いが全ての発端だったが、今に至る全てを打ち明けてしまっては、柏木をますますその気にさせてしまう。
なにしろあの夜にもたらされたのは「俺には“未来の君”――つまりは運命で結ばれた人がいる」という情報なのだ。高瀬も太陽もここまでは知っている。しかし幸いなことに、柏木だけがこのことを知らない。そして彼女は俺に運命を感じている。“未来の君”はあたしだよ、となるのは目に見えていた。
自ら進んで、状況を今以上にややこしくすることもないだろう。
「どこって」高瀬優里を構成する全てが俺の好みだ、と言うのはなんだか盲目的なので、別の答えを口にする。「今時珍しいじゃないか、高瀬みたいな女の子。我欲がなくて、よく出来た子だよ」
「我欲の強い」柏木はぐいっと俺の顔を覗き込む。「今時の女で悪かったな」
「別におまえを批判してないだろ」
柏木は面白くなさそうにふんっと鼻を鳴らすと、少し時間を置いてから「まぁたしかによく出来た子だ」と続けた。真面目な声だった。
「ただあたしから言わせれば優里は、良い子が過ぎるけどね」
「なんだよ、ダメなのか、良い子過ぎちゃ?」
柏木は「うーん」と唸り、目をしばたたく。
「優里が中学生の時の話、聞いたんだけどね……」
それは、修学旅行にまつわるエピソードだった。
「出発する当日の朝になって、学校側が手違いで旅行会社に実際の生徒数より何人か少なく申告していたことがわかったらしくて、大混乱になったんだって」
柏木の説明によればバスや旅館はまだどうにか融通が利いても、行きと帰りの飛行機だけは引率の教師を減らすなどしても席を確保できず、やむを得ず生徒の中から一人だけ電車で移動させようという話になったという。
しかしそうなると、その一人は初日と最終日は移動だけで終わってしまう。三泊四日の行程だから、それでは満足な修学旅行になんかならない。そもそもその一人をどうやって決めるのかという残酷な問題もある。生徒を単独で電車に乗せるわけにはいかないから、教師だって付けなきゃいけない。ただでさえ引率の教師は減らしている。
あれこれ悩んでいる間にも出発の時間は刻々と迫ってくる。生徒達の間からはついに「あいつ要らないだろ」と、名指しでその役を押しつける声があがり始める。
「優里はね」と柏木は言った。続く展開は、だいたい予想できた。「そんな状況を見かねて挙手して言ったんだって。『私がここに残るので、みなさん、早く出発してください』って。だからあの子、修学旅行に行ってないんだよ」
中学時代の修学旅行には不参加。思いもしなかった俺との共通点だ。
「良い子もそこまで行くとちょっと行き過ぎでしょ。それを聞いてあたし呆れたもの。そりゃあ誰か一人がババを引かなきゃいけなかったかもしれないけど、何もわざわざ自分から手を挙げて名乗り出ることないって。高校でもまた修学旅行はあるけど、中学校の修学旅行は一生に一度っきりじゃん? それを学校の尻ぬぐいで不参加だなんて、まったく、どこまで自分を犠牲にすれば気が済むんだか優里は」
「極めつけは」この街のため、ウエディングドレスに身を包む高瀬の姿が思い浮かんだ。「政略結婚だな。今度は自分の未来を引き替えにして、多くの人を救おうとしている」
「そうだね」と柏木は言った。「優里は気付いてないけれど、あたしとの間には悠介を巡るライバル関係があるわけだから、トカイの次期社長と結婚してくれればあたしとしては楽だよ? でもできることなら、優里には自分が本当に望む未来を手にしてもらった上で、あたしと悠介が一緒に生きていくっていうシナリオが最高かな。みんな幸せになればいいよ、うん」
俺はそれを聞いて素直に感心していた。柏木は何も考えていないように見えて、実はきっちりいろんなことを考えている。柏木と高瀬の仲は、俺と太陽のそれより深く確かなものなのかもしれない。
「柏木おまえ」たまには褒めてやろうと思った。「案外いいやつなんだな」
「な、何よ」照れているのだろう、声が上ずる。「今頃晴香ちゃんの魅力に気付いたわけ? そうだよ、可愛いだけじゃないんだよ!」
胸を張って堂々とそう言うのだから、始末が悪い。
「ま、優里の行き過ぎた良い子ちゃん精神、それがいつか命取りにならなきゃいいけどね」
命取り、と聞いた俺の頭に思い浮かんだのは、例のあの件だ。
「あのな柏木」立ち止まって、慎重に言葉を選ぶ。「今もまだやってるのか、その、答えの模索作業」
強烈な西日の中、屋上の縁に立つ彼女の後ろ姿は、鮮明に
柏木も俺の隣で足を止めた。「うん、まぁね」
「悪いことは言わないからやめろって」と俺はため息混じりに言った。「足を滑らせでもしたら、それこそ本当に命取りだぞ? おまえの抱えているわだかまりをきちんと高瀬と太陽にも話して『いつでも死ねる状況』なんかに自分を置かなくても、答えが出せるようにすべきだって」
「悠介、あたしのこと心配してくれてるの?」
「あんな光景に出くわした人間の、せめてもの責任だ」
そこで老婆に散歩させてもらっているセントバーナードが柏木にじゃれつき始めた。
「あーん、可愛いねぇ」彼女はしゃがみ込んた。そして犬に向かって話し続けた。「だからさ、悠介が『柏木、俺と一緒に生きていこう』って一言言ってくれれば、そこでジ・エンドなんだってば。全て解決。ねぇワンちゃん。そうだよねぇ?」
気のせいかセントバーナードは「そうですね」と肯定的な表情をしているように見える。いや、柏木の愛撫が心地良いだけか。
飼い主の老婆と目が合い、たまらなく居心地が悪くなる。
老婆は俺たちに軽く会釈をすると、犬を
「脅しをかけるような真似はよせ。さっきの言い方じゃまるで、俺がおまえを屋上の縁に追いやっているみたいじゃないか」
「あたしがもし死んだら悠介のせいだから。ノートに成就しない想いやうらみつらみを散々書き殴って、屋上に残しておいてやる」
「ふざけんな」
「冗談だよ」柏木はくすくす笑うと、体中の空気を入れ換えるように大きな深呼吸をした。そして「でもね」と続けた。
「でもね、まともなことではないと思ってはいるんだよ。『死ぬのが怖くない』なんて。これは本当にどうにかしないとねぇ。悠介と生きていくっていうプランが仮に立ち消えても、生きることに希望を持てるような何かを見つけなきゃ、だめかなぁ」
母親の自死は、今まさに少女から女へと脱皮しようとしている柏木の
彼女はそれを体験して以来、不条理で不完全なこの世界に、うまく自分を馴染ませることができなくなってしまったのだろう。俺が父の事件以降そうであるように。
柏木はもがき苦しんでいる。決して表だって嘆くことはないが、心では涙を流している。
「柏木、生きるんだ」と俺は心で語りかける。とにかく生きていくしかない。君が求めるどんな正解も、こっち側の世界にしかないのだから。生きることでしかその正解は得られないのだから。柏木、君の物語は続かなければいけない。他の誰でもなく君自身が続けなきゃいけない。
なぜ、らしくなく柏木のことを「君」と呼んでしまったんだろうと考えを巡らせる。ああ、と声が漏れる。その理由はすぐに思い当たった。
四月の満月の夜の占い以来、俺の中では「君」という二人称は、ちょっと特別な意味合いを持っている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます