第5話 君の物語は続かなければいけない(前)


 高瀬優里と柏木晴香。


 高校に入学した俺の前に現れた二人の少女。

 おそらくはこの二人のどちらかが、俺を幸せな未来へと導く“未来の君”である。

 

 彼女たちは今高校一年生にしては難儀な問題に直面しており、それを解決するには、俺の存在が必要らしい。

 

 高瀬は高校卒業後の政略結婚を了承してしまったがために、大学へ行くという未来を失いかけている。


 その理由は違えども同じく困難な状況下で大学を目指している俺の姿が、彼女の進学への情熱を再燃させたことを考えれば、他の誰でもなく俺が、彼女が大学に行けるよう手助けしてやらなきゃいけないんだろう。

 

 そしてもし晴れて俺も高瀬も大学に入学し、無事に卒業までできたなら、その先にあるのはきっと明るく充実した未来だ。

 

 一方柏木は小学六年で父も母も失い誰よりも幸せな家庭を築くことを願っているが、皮肉にも自身が家族の温かさを知らないがため、そんな未来を手にすることができるのかと不安に苛まれて日々を過ごしている。


 柏木はその「世界一幸せな家族計画」の礎となる旦那として俺を迎え入れるつもりなのだが、彼女と過ごす毎日はさぞ賑やかだろうし、家庭に到来するどんな危機も彼女となら乗り越えられそうな気もする。

 

 柏木と同じく家族愛に恵まれなかった俺にとってそれは、心にぽっかり空いた穴を埋めるような、穏やかで優しい未来だ。


 俺は一人きりの夕食を終え、自分の部屋のベッドで大の字になっていた。電気はつけていない。月の光が窓から差し込んでぼんやりと部屋の中を照らし、虫たちがまるで指揮者に従うように、調和の取れたリズムで鳴いている。


 考え事をするには、なかなか望ましい環境だ。

 

 満月の夜の占い以来同じクラスの高瀬に心を奪われ、そして彼女が占い師の言った通り未来に困難を抱え接近してきたことから、一旦は彼女こそが“未来の君”だと判断したわけだけど、ここへ来ての柏木の猛追に心は暴風にさらされるシーソーみたいに揺れ動いていた。


「最終的に悠介が惹かれるのはこのあたし。そして一緒に生きていく……」

 朱に染まる屋上で柏木が俺に向けて放ったその言葉は、じわじわと俺の頭を支配して、高瀬や大学のことを考えるのを難しくしていた。


「あいつ」シャープな顔立ちの柏木の顔は、すぐに思い浮かぶ。「どうしてあそこまではっきり言い切れるんだろう、俺と運命で結ばれてるって」


 彼女はなんらかの理由で俺と強い絆で結ばれていることを確信し、俺の気持ちがいつかの時点で自分に向くという自信を持っている。


「あいつと家庭を築くということはつまり……」

 俺は無意識に柏木の艶めかしい体つきを思い出し、下半身が火照ほてるのを感じた。


 彼女と出会ってからこの二ヶ月で、その妖艶さにより磨きがかかっているように思える。ふとした時の表情や視線のやり方などからは完全にあどけなさが消え、腰のくびれは前にも増して際立つようになり、汗ばんだ時に漂わせる芳香などめまいを起こさせる。


 そんなペースで色っぽくなられたら、高校を卒業する頃にはいったいどんな美女になってしまうのか。

 

 俺も健全なひとりの男だ。柏木の肉体を欲望のおもむくままにしたいという願望がないといえば嘘になる。とりわけあの二本の脚は俺が今まで見たどんなそれよりも完成されていて、世界中のあらゆる物体のなかで最も美しいのではないかとさえ思える。

 

 彼女の旦那になるということはすなわち、道徳にも法規にも反することなく、あの極上ボディのいろんなところにいろんなことができてしまう。

 

 想像の中で一線を越えかけたところで、俺ははっとして頭を振った。いかんいかん。このままでは柏木と生きる未来を選んでしまいそうだ。


 もうちょっと真剣に考えようとベッドから起き上がると、スマートフォンが目についた。どうやらメッセージアプリで太陽たちがグループチャットをしているらしい。覗いてみると、あろうことか、話題は俺の悪口だった。


 太陽と柏木がいかに俺の性格が捻じ曲がっているかを議論し、高瀬がそれをなだめるという構図だ。高瀬は以前俺が作ったカレーを気に入ってくれたらしく、また食べたいと言ってなんとか話題を変えようとしている。太陽と柏木もそれには興味を示したが、俺は頭に来ていたので「おまえたちには食べさせん」と打ち込んだ。そして再びベッドに寝転んだ。


「なんだかんだ言っても、に比べれば、今は恵まれてるよな」

 三人の名前が表示されているスマホの画面を見て、そんな言葉がふいに口をついて出た。


 孤独をきわめた中学時代。こんな馬鹿げたやりとりができる相手は一人としていなかった。俺の精神はいつ崩壊してもおかしくないほどぎりぎりの状態であり続けた。

 

 瞳に映るもの全てがくすんで見えた日々。味のしない給食を作業として口に運ぶ日々。話し声が耳に入らぬよう逃げ回る日々。誰かの意識に留まらぬよう息をひそめる日々。いっそ空気でありたいと願う日々。

 

 そんな日々を三年間過ごすことで、俺の他者に対する興味や関心は、いつしか完全に消え失せていた。

 

 誰もが俺を忌むべき存在とみなし、誰もが俺を避けていた。

 

 俺はスマホを一旦枕元に置くと瞳を閉じて、今の自分が置かれている状況をより正確に捉えるべく、灰色の中学時代を思い返してみることにした。


 人と深く関わることを避ける性質は生まれ持ったものでもあるらしく、俺は小学生の頃から特定の親友を作るということをしてこなかった。


 でも人との関わりそのものを完全に遮断していたわけではない。

 

 雑談ができるくらいの相手は欲していたし、学校という狭いコミュニティでは遠足や体育などで共に行動する人はどうしても必要だった。

 

 そして似たような性質を持つ子というのはクラスに自分以外にも一人か二人は必ずいるもので、俺は学年が変わりクラス替えがあるたび、彼らとその年限りの友好関係というものを築いていった。

 

 小学校から中学校へ上がっても顔ぶれはほぼ変わらなかった。そのため中学一年時では小学時代の「友人貯金」が活きる形で、いわば“仲良しごっこ”をするようになった。

 

 一方で中学入学直後から、俺には焦りのような危機感があった。


 それまでこれといって特色のなかった同級生たちが、部活動を始めることで急に存在感を示し始めた。野球であれ、サッカーであれ、テニスであれ、吹奏楽であれ、勉強以外の活躍の場ができたことで、注目を浴びる生徒の傾向が小学校時代とは変わってきたのだ。

 

 だが中学校の部活動に――入学前から予想できたことだが――いっさい興味など引かれなかった俺は、どこに所属することも、活躍する自信を持つこともできなかった。だからこそ「大学」というはるか先の目標を敢えて明確に意識することで、それまで以上に勉強にだけは真剣に取り組むことにした。そうすることで自分の立ち位置を確保しようとしていた。

 

 部活動もさることながら、勉強が重要事項であるのも、中学校である。他の何ができなくても、勉強ができた俺はそれだけで周囲からもてはやされた。クラスメイトには教えを請われ、教師達に一目置かれる存在になった。そういう中にあっては自らの立場を鼻にかけ、得意になっていた点は否めない。

 

 俺もまだ未熟なガキだったのだ。

 

 そうして迎えた六月の初旬、母が家出をして気が触れた俺の父親が図書館に火を放って逮捕されると、状況は一変する。

 

 まずはそれまで会話を交わしていた“友人たち”が一人、また一人と、俺のそばから去っていった。彼らの親からそういう指示が出ていたのか、はたまた自発的なものだったのかはわからない。ただ元より、その場しのぎの友人関係だったのだ。そうなってしまうのはやむを得ないことだった。俺は去っていく彼らを引き留めたりはしなかった。

 

 そしてクラス内で元より距離を置いていた連中からは、畏怖いふとも侮蔑ぶべつともつかない冷ややかな視線が注がれるようになった。


 大学進学を目指して勉強に励み、教師にも叱られず、素行も悪くなかった俺は、おそらく彼らからすれば付け入る隙のようなものがなかったわけだが、父の事件はそんな俺の、充分すぎる泣き所となった。連中はそれまでの嫉みや憎悪を晴らすかのように、俺の孤立化を押し進めていった。

 

 いくら成績が良くたって人間関係が芳しくなければ、学校生活など苦痛でしかない。ひとたび人の輪から外され孤独になってしまうと、ポジティブな気持ちで日々を送ることはとても困難になってしまった。


 全校生徒参加の防災指導で、本物の消防士が火遊びの危険性を話している時に、近くの生徒が「こいつに言ってやってください」と俺を指さし、あちこちから――教師の中からも――笑い声が噴出したことや、席替えである女子生徒の隣になり、ずいぶんスマートフォンを触っているなと思ったら、一時間もしないうちに彼女の母親が血相を変えて学校に怒鳴り込んできたことや、バレンタインデーに下駄箱に可愛らしい袋が入っていて、開けるとライターが入っていたことや、他にも、避難訓練で俺一人避難することを許されなかったり、クラスで一番発言力があった生徒に「修学旅行に来ないでくれ、頼むから」と懇願されたことなど、かなうならば、掃除機を脳に突っ込んで、海馬から吸い取ってしまいたいエピソードは数え切れないほどある。


 掃除機が無理なら、飢えた狼に喰ってもらってもかまわない。


 そんな過酷な日々の中でほとんどの前向きな感情を失った俺であるが、ただ一つ消えなかったものがある。それは大学への情熱だった。


 それまで蓄えてきた勉強量や成績は肉親が罪を犯そうと霧散するものではないし、現在に居場所が無くとも、になら俺の居場所はあるかもしれないと考えるようになっていた。


 資金面のことを考えるとそれは前途多難な道のりに違いなかったけれど、「あくまで大学へ行くための通過点なんだ」と中学生活を捉えることで、四面楚歌の教室に通い続ける整合性を見出していたように思う。

 

 勉強する機械となって迎えた高校受験。

 

 俺は地域一の進学校・鳴桜めいおう高校に合格した。さほど難しい試験ではなかった。当然だ。なにしろ中学三年間の時間を勉強にしか費やさなかったのだから。

 

 俺を犯罪者の子と蔑んでいたり遊び呆けていた連中が、鳴桜より簡単な高校に苦労して落ちていく姿は、正直言って、相当に痛快だった。

 

 これは、この悪しき心は、もし裁判にかけられるのなら、文化祭も修学旅行も参加できなかった不遇な三年間を堪え忍んだ褒美として、陪審員には許してもらいたい。

 

 陳腐な別れの会や卒業式に顔を出す気など、もちろんなかった。後日家に郵送されてきた卒業証書と文集は生ゴミと一緒にまとめて捨てた。最後の最後まで特異な生徒として存在し続けた俺は、無事に中学校という監獄から脱出することができたのだ。


 ――一度だけ、ただ一度、学校の屋上へ行って、落下防止用の柵をまたいだことがある。今それを思い出してしまうのは、きっとこのあいだの柏木のせいだ。

 

 俺はそこで自分がこの世に生まれてきた理由を空に問いかけ、答えがもたらされないことに絶望し、一度は自分の生涯を終わらせようとしたのだった。

 

 結局絶妙のタイミングで同じクラスの女子生徒が屋上に現れ、声を発してくれたおかげで事なきを得たわけであるが、死すら救いと思えるような果てしない孤独と闘う日々は、ただでさえ未完成で脆弱な心を深くむしばんでいた。


 こちら側の世界に踏みとどまった俺は、人間としての機能をいくつも損なった状態で、この高校一年生の春を迎えたのだった。


 ♯ ♯ ♯


 回想の旅を終えた俺はベッドから起き上がり、窓から夜空を見上げた。

 

 今になって思えば、中学時代の自分の振る舞いにまったく非がないというわけでもない。


 もし俺がインスタントな交友関係を続けるのではなく、努力して“親友”と呼べる存在を一人でもつくることができていたなら――。

 少し勉強ができただけで存在感を示そうと得意にならなければ――。


 そうすれば、ちょっとは違った顔をして、中学校を卒業できたかもしれない。

 

 でももう何を言ったところで、それこそ後の祭りというものだ。


 なにはともあれ俺は俺の物語を続けることができている。ひび割れた心を持ちながら、これからもこの物語をつむいでいくしかない。そしてハッピーエンドを目指すのだ。


 ベッドへ戻ってスマホを見ると、相変わらず高瀬と柏木と太陽がグループチャットをしていた。あろうことか、話題は再び俺の悪口だった。

 

 俺が高校一年生の男子にしてはいかにこましゃくれているか、その議論に今度は高瀬も加わって盛り上がっている。


 俺はその画面を見て思わず顔がほころんだ。彼らは俺が放火犯の子と知りながらも、それを少しも気にする素振りを見せずに一人の人間として接してくれている。

 

 強烈な人間不信を抱えながら、まるで蛇に怯える小動物のように恐々として高校の門をくぐった俺にとって、こんなにありがたいことはない。

 

 少なくとも今はこの三人のおかげで生まれてきた理由なんてことに頭を悩ませる必要がなくなっている。過去の苦い経験は消えなくても、未来はこれから変えていける。


 そしてそれは、太陽にも高瀬にも柏木にも、共通して言えることだ。


「みんなの未来にも幸あれ、だな」

 少し身軽になった心で、そんなことを一人、夜空の星々に祈る。

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