第2話 これはどうやらとんでもない高校生活になりそうだ(後)


「高校を卒業したら、結婚しなきゃいけないの」

 

 高瀬はたしかにそう言った。彼女の言い間違いでもなければ俺の聞き間違いでもなかった。


 俺はできることなら目を閉じ、耳をふさぎたかった。あるいはもういっそ、この旧手芸部室から逃げ出してしまいたかった。でもそうするわけにはいかなかった。


 俺はこの部屋に残り、高瀬の顔を見て、彼女の話を聞かなきゃいけなかった。それが未来を閉ざすものの正体を尋ねた男の、せめてもの責任だった。


「私の家、何をしているか、知っている?」

 

 俺はちょうど今朝、太陽から聞いて知っている。市内に九店舗を展開する老舗スーパーマーケットチェーン・タカセヤの経営だ。太陽に続き俺もうなずいた。


「タカセヤね、ここ何年か業績があまり良くないの」とご令嬢は言った。「昔は強かったんだけどね、最近は後出しじゃんけん的にタカセヤの弱点を突くような経営をするスーパーが市内にも増えてきて。でもスーパー同士で競い合っているうちは、まだよかったの」


 ていねいな説明は続いた。


「ここ何年かで、この街にも郊外型の大型店舗が増えたじゃない? お客さんはどうしたってより便利な消費生活を好む。多少遠くても、一か所でお夕飯の食材と運動靴と化粧品が揃う店があれば、そっちへ流れてしまう。食品スーパー一本でやってきたタカセヤは、それでとてもあおりを受けたの」

 

 高瀬の言うように、ここ数年は大型店舗の出店ラッシュが続く反面、市街中心部の空洞化や個人経営の店の閉店などが目立ち、俺がガキの頃とは街の景観が大きく変わってしまっていた。

 

 さしずめ全国区の大型店は、この地方都市に突如現れた黒船といったところか。


「うちはタカセヤをひいきにしてるけどなぁ」と太陽は言った。「なんせおふくろが人混み嫌いだから、常に混んでる大型店じゃなくてタカセヤによく行ってるよ。……あ、いや、タカセヤが人少ないっていう意味じゃなくてな」


「ふふっ。日頃のご愛顧、感謝申し上げます」

 高瀬は会社全体を代表するように礼を述べた。


 俺もタカセヤを褒めようと思ったが、よく使うスーパーは他にあるので、何も思い浮かばなかった。

 

「それでね」と高瀬は続けた。「もうスーパー同士で争っている場合じゃない、強い大型店舗に対抗するため手を組もうという話になったの。その提携先として名前が挙がったのが、三年前にうちが純利益一位の座を明け渡したトカイさん。この街に住んでいたら、もちろん知ってるよね?」

 

 スーパートカイ。


 俺がよく使うのはここだ。老舗の矜持きょうじなのか、悠然と腰を据えてどっしり構えているイメージのあるタカセヤとは対照的に、トカイはいろいろ動く。とにかく動く。ビンゴ大会、くじ引き、ガラポン抽選、のど自慢――スーパーとは思えないほどほぼ毎日何かしらのイベントを行っていて、それ目当ての客も多い。

 

 そんな余興には俺はまったく興味がないが、トカイは生鮮品や総菜が値引きになる時間がわりと早く、夜遅くまで居酒屋でバイトをする身としては助かるのだ。


 高瀬は言った。

「提携するといっても、タカセヤとトカイは長い間市内でしのぎを削ってきたライバル同士だから、互いに不信がるところも多かったの。昔なんて商工会の集まりとかで社長同士が顔を合わせたら、公然とののしり合っていたっていうくらいだから」


 太陽が腕を組んで唸る。

「タカセヤとトカイの仲が悪いっていう話は耳にしたことあるな。あれって噂じゃなかったのか。そう簡単に呉越同舟ごえつどうしゅうというわけにはいかんってことか」

 

 高瀬はうなずいた。

「それまでのいがみ合っていた過去を清算して、本当のパートナーとしてタカセヤとトカイが手を取って歩んでいくために――いいや、そんなきれい事じゃない。どちらかが裏切ったりしないために、書面で契約を交わす以上に双方を固く結びつける方法は何かないか、両社の経営陣は考えたの。そして一つの結論が導き出された」

 

 ここまで聞けばその結論とやらは俺でもわかる。

「タカセヤとトカイがいっそ親戚になればいい」


「その通り」と高瀬は冷たい声で答えた。「それも中途半端なかたちではなく、トップの家同士が結びつくかたちで。そうしてあれよあれよという間にうちからは私が、トカイさんからは現社長の長男――次期社長になる人だけれども――が、担ぎ出されることになったの」

 

 太陽は呆れたように肩をすぼめる。「政略結婚、とはまさにこのことだな」

 

「ちょっといいかな、高瀬」俺は当然の疑問を口にする。「ここまでの経緯を聞くかぎり、高瀬個人のは完全に置き去りにされているように感じるんだ。結婚話が進んでいくなかで、断らなかったのか?」


「最初にこの話を聞いた時はもちろん『なんで私が』って思ったし、拒むつもりでいたよ」彼女はそう言って俺から目をそらした。「でも何度もお父さん――社長から説得されるうちに『あぁ、これは避けられないんだな』って感じるようになっていったの。もっと正確に言えば『私が結婚を拒めば大変なことになる』ってね」

 

「大変なこと?」と俺は聞き返した。

 

 しばしの沈黙の後で、何を思ったのか、高瀬は椅子から立ち上がった。そして窓辺まで歩き、そこから外を眺めた。


「私ね、この街が好きなんだ」窓ガラスに反射する表情は、澄んでいる。「都会っていうわけではないけど、一通りなんでもできるし。田舎っていうわけでもないけど、昔みたいな人と人とのつながりもいまだに残っているし。市街地はビルばっかりだけど、ちょっと外れに行けば自然もすごく多いし。


 春にはこうして色とりどりの花が咲いて、夏はうんざりするほど暑くて、秋にはおいしいものがたくさん採れて、冬にはやっぱりうんざりするほど雪が降る。一年を通して、いろんな顔がある。そんな街は探せばいくつだってあるだろうけど、私にとってはじゃなきゃ、だめなんだ」

 

 母が出て行き、父が放火事件を起こしたこの街になんの愛着もない俺からすれば、故郷愛を堂々と口にできる高瀬は羨ましく、その背中は立派にすら見えた。


 彼女は続けた。

「もし結婚話が破談になってタカセヤとトカイの提携も白紙に戻ったら、両社の規模縮小は避けられない。そうなるととても多くの従業員が路頭に迷ってしまう。その家族も。それは大変なことだよ。私はそれが許せなかった。この街を愛する一人の市民として。そしてタカセヤ社長の娘として。私さえ我慢すれば、多くの人が今まで通りの生活を家族とともに送ることができる。だったら私が取るべき選択はかぎられてくる――」


 そこまで話すと高瀬はこちらに振り返って、視線を俺に定めた。眉間には、同じ歳とは思えないほどの力強さが宿っている。

「だからね、神沢君。私、高校を卒業したら結婚するよ。それが私の。これはこの街の危機なの。愛する街の人たちを守るため、私にはそうするしかないの」


「ちょっと待った!」と俺はまるで、チャペルの結婚式に乱入して花嫁を奪うように言った。「高瀬は未来を変えたいんだよな? たしかにそう言ったよな? だからこそ俺たちに接近してきたんだよな? その変えたい未来って、政略結婚の待つ未来じゃないのか!?」


 それを聞くと高瀬は無表情になって再び窓の方を向いた。

「未来を変えたい。たしかに言ったね。でもごめん。撤回させて。今これまでの経緯を口にしてみて、あらためて痛感した。これは変えられない未来なんだって。変えられるものなら、変えたいよ? でも無理だよ。この街の多くの人を守るには、どう考えたって私が結婚するよりほかに方法がないんだから」


 そんなことはないっ! と喉まで出かかったが、あいにく今の俺にはまだそう叫ぶだけの勇気もなければ根拠もなかった。太陽も何も言えなかった。


 俺たちが黙っていると、高瀬は窓際を離れて、再びテーブルの向かいの席に座った。

「前言を撤回する代わりに、新しく変えたいものが見つかったから、聞いてもらってもいい?」


「なんだろう?」と太陽は言った。

「それは、未来」と高瀬は言った。

「はい?」と俺と太陽は言った。


「混乱させてごめん」と高瀬は言った。「未来は未来でも、高校卒業後の未来じゃなくて、明日から卒業の日までの未来。卒業後に結婚するとなると、高瀬優里が高瀬優里として生きられるのはこの三年しかないってことになる。それならせめて、その限られた時間を精一杯楽しみたいの。普通の高校生活は嫌なの。つまり誰よりも充実した、最高の高校生活にしたいの。君たちと一緒にいれば、なんだかそれが叶う気がする。だからやっぱり、神沢君、葉山君。私を仲間に入れてください。あらためてお願いします」


 太陽が隣から心配そうに顔を近づけてきて、耳元でささやいた。

「おいどうすんだ、悠介? 判断はおまえさんに委ねるぞ」


 私はトカイの次期社長となんか結婚したくない。政略結婚の待つ未来を変えたい。高瀬

がそう訴えてくるのであれば、俺は二つ返事で受け入れただろう。


 でも変えたいのは卒業までのたった三年と言うのなら、即座に首を縦に振ることはできなかった。


 とはいえ。

 とはいえ、この街のために高校を卒業したら結婚する。それが私の意思と聞いても彼女への気持ちが冷めないのは、まぎれもない事実だった。それどころかむしろ俺が変えてやるという意思が芽生え始めていた。今この時も、その美しい顔を見れば胸が高鳴っていた。


 ここで彼女の願いを拒めば、せっかくできた接点を失うことになる。経緯はどうあれ、今目の前にいる女の子は俺の初恋の人だ。


 ならば、口にするべき言葉は一つしかない。

「歓迎するよ」と俺は言った。「高瀬、一緒にを変えよう」


「ありがとう」高瀬はやわらかく微笑んだ。そして一仕事終えたように一息ついた。「学校では誰も知らない私の秘密、話しちゃった。これで二人とようやく対等になれたかな?」


 俺も太陽もぎこちなく微笑んだ。彼女の打ち明け話がまだうまく呑み込めていなかった。


「なんだか暗い、二人とも!」高瀬は責任を感じたのか、いやに明るい声を出した。「それじゃムードを変えるために、私から質問しちゃおっかな」


 彼女の好奇心に満ちた瞳はどういうわけか俺をとらえた。

「神沢君には運命の人がいるって占われたんだよね? えっとたしか“未来の君”」


 先に太陽がうなずいた。

「悠介は強い運命の絆で結ばれたその“未来の君”と一緒に手を取り合って生きていくことで、幸せな未来が訪れるらしい」


「なんだか素敵」と高瀬は言った。「それでね神沢君。その“未来の君”って、神沢君がもう出会っている人で、誰なのか心当たりがあるんだよね?」


 嫌な汗が出る。すっかり忘れていた。きのうの昼休み、屋上の給水コンテナの陰に隠れて俺たちの話を盗み聞きしていた高瀬が蜂に驚いて姿を現したのは、ちょうど俺が“未来の君”は高瀬だと思っていると口にする直前だった。


 彼女は知っているのだ。俺が強く運命を感じている異性が存在することを。 

「ま、まぁ、一人、いるにはいるね」と俺は高瀬とは目を合わせず言った。


「その一人って、晴香?」


「どうして柏木だと思うの?」

「だって神沢君、教室で晴香と仲良くしてるでしょ。いつも楽しそう」


「とんでもない!」と俺は大きく手を振って答えた。「授業中に居眠りしてるからノートを写させろってうるさいし、忘れ物が多いからあれ貸せこれ貸せって煩わしいし、人のパンは強奪するし、コーヒーは勝手に飲むし……とにかく、楽しいどころか迷惑してるよ。あいつに運命を感じたことなんて一度もない」


「そっか……。神沢君と晴香、お似合いだと思うんだけどな」


 太陽はニヤッとして肘で小突いてくる。余計なことだけは言うなよ、と俺は目で釘を刺した。


「晴香じゃないなら、その“未来の君”って、もしかして……」

 高瀬が頬を少し染め、俺から視線を外し、照れ隠しのように髪を耳にかけたところで、チャイムが鳴った。昼休み終了の合図だ。

「いけない! すっかり話し込んじゃって気づけばこんな時間!」


「次はたしか『鬼のイトー』の倫理だよな」太陽は頭を抱える。「一秒でも遅れたら、ドヤされるぞ!」


 俺は椅子から立ち上がった。「みんな、走るぞ! 教室まで、全速力で駆け抜ける!」


 結局授業開始にはちっとも間に合わず、我々はこっぴどくドヤされた。倫理の伊藤は俺たちをきびしい口調で問題児扱いした。


 しかしどういうわけか、優等生の高瀬はそれがまんざらでもなさそうだった。 


♯ ♯ ♯


 午後の授業は全くといっていいほど頭に入ってこなかった。それもそのはずだ。頭の中は昼休みに高瀬から聞いた結婚話のことでいっぱいだった。勉強どころではなかった。


 老占い師は“未来の君”について「未来に困難が生じ、あなた様に助けを求めに来る」と話していた。そして事実として高瀬は未来に困難が生じ、事実として俺に助けを求めに来た。

 

 ここまではいい。問題はその後だ。


 高瀬はトカイの次期社長との結婚が避けられないものだと自覚してしまった。その未来を変えることを諦めてしまった。彼女は愛するこの街の人々を救うため、みずからが生け贄になるつもりなのだ。


 当然ながらこのままでは俺と彼女の未来はひとつにならない。手を取り合って生きていくことはできない。俺が幸せになるためには、“未来の君”と一緒に生きなきゃいけない。


 高瀬は俺の“未来の君”ではないのだろうか? だとすればいったい誰が? いったい誰が俺と強い運命の絆で結ばれているというのだろう?


 いくら考えてもわからなかった。


 それにしても、俺にしろ、太陽にしろ、そして高瀬にしろ、俺たちは高校一年生にしてはいささか厄介な問題を抱えている。


 すっきりしない気分のまま迎えた放課後、日直の俺は減ったチョークを補充するため、一人で授業準備室の前まで来ていた。


 必要なチョークの色と本数を書いたメモを確認して、ドアに手をかける。そこで中から女同士の会話が聞こえてきた。どちらも聞き覚えのある声だった。そういえばここの掃除は我々1年H組の担当だった。その声を聞くかぎり、話しているのは柏木とそれから末永すえながというお調子者であることがわかる。そして掃除をサボっていることも。


「いい加減、白状しなさいよ晴香」と末永は嬉々とした声で言った。「三限目のあとの休み時間に認めたじゃない。好きな人がいるってこと。いったい誰なのよ?」


 柏木はとてつもなく大きなため息をつく。ドアを隔てても聞こえるくらい。

「もう、なんでみんなそんなにあたしの好きな人が気になるわけ?」


「そりゃあ入学して一ヶ月そこらでもう9人に告白される学園のアイドルだもの。気になって当然!」


「10人」

「え?」


「さっき、昼休みにも告白されたから10人。振ったけど」

「二桁到達……」


 すげぇな、と俺は感心した。「すっごいね」と末永は実際に言った。「その10人の中で『ちょっとは付き合ってもいいかな』って思う人、いなかったの?」


「いないいない」と柏木は迷わず答えた。「あたしはもう『としかそういう関係にならない』って決めてるから」

「よけい知りたくなってきた。天下の柏木晴香にそこまで言わせるその罪な男って、いったい誰よ?」


 俺も知りたくなってきた。ここに来た目的も放棄して、いやしく耳をそばだてる。


「教えませんよー」と柏木は言った。「これはトップシークレットですから」


 むむむ、と末永は唸った。「仕方ない。奥の手を使うか。晴香も鳴桜生ならもちろん好きだよね、きなこメロンパン」


「嫌いな人いないでしょ。一回しか買えたことないけど、美味しくてびっくりした」


 それは購買部でたまに不定期で売り出す言わばレア商品だった。数量限定な上にすぐに売り切れるので“幻のきなこメロンパン”と呼ばれていた。


「私、購買部員なの。教えてくれるなら、部員の特権で5つ調達しますぞー!」

 むむむ、と今度は柏木が唸った。「もうひと声!」


「7つ!」

「もうひと声!」


「ええい、晴香が振った男の数と同じ10個だ! 持ってけドロボー!」

「そこまで言うなら手を打とうじゃないの!」


 案外すんなり教えるんだな、と俺はあやうく口に出しかけた。


 末永は言った。

「誰なのか聞く前に、どうしてその人を好きになったのか、教えてよ」


「笑わないでよ」と柏木は釘を刺す。「あたしね、この人にを感じたの」

「運命! そう来ましたか! いいねいいねぇ!」


「感覚的なものだけじゃないのよ? それにはちゃんとした理由もあるの。あたしとこの人は運命で結ばれてる。そうとしか思えない。あたしが将来幸せになるにはこの人が必要だし、この人が将来幸せになるにはあたしが必要なの」


 それを聞いて俺の手は汗でびっしょりになった。まさかな、とその汗を拭って思う。


 もちろん俺を幸せに導くという“未来の君”が柏木晴香である可能性は否定できない。老占い師があの夜、水晶の中に見たのは天真爛漫な少女の姿だったのかもしれない。


 しかし、だ。


 それでは、高瀬はどうなるというのか? 俺と高瀬の未来は――?


 俺は呼吸が荒くなるのを必死で堪えながら、ドアの向こうに意識を集中させた。そしてその名が柏木の口から飛び出したことで、これはどうやらとんでもない高校生活になりそうだ、と覚悟を決めなければならなかった。


「神沢悠介。間違いない。あいつ、あたしの運命の人だ」

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