第1話 誰も見たことがないハッピーエンドを(後)


 「俺が小学六年生のとき、母親が家を出て行った。なんの予兆もなくある日突然、ばったりと。はっきりした理由も行き先も同行者の有無も、わからない。まぁ、ここまでなら、世間でよくある出奔しゅっぽん話なんだろうけど、この先が、ちょっと、な」


 緊張を和らげるために、背伸びをして息を大きく吐き出す。おそろしいほど効果はなかった。葉山は腕を組んだまま、こちらを凝視している。


「その一件で、父親が完全におかしくなってしまった。理不尽としか言いようのない理由で俺に八つ当たりするようになったし、飲めもしない酒を毎晩のようにあおるようになった。そして俺が中学校に上がった夏、あの男は絶対に許されないことをしてしまった」


 飛行機が上空を通過し、重い轟音を響かせている。

 俺は音が鳴り止むのを待ってから、ゆっくりと口を開いた。


「葉山。覚えてないか? 今から三年くらい前に市内で起こった放火事件。駅前の市立図書館が狙われただろう?」


「ああ、全国ニュースにもなったんだよな。よく覚えてるよ――って、まさか」

「そのまさかだ。犯人は俺の親父だ。逮捕されて、今は刑務所の中にいる」


 告白がショッキングだったのか、葉山はすっかり目を丸くした。


「俺の母親は専業主婦で、明るいうちは図書館で過ごすのが日課だった。元々家庭をかえりみなかった母親にとっては、図書館だけが唯一気の休まる場所だったんだろう。そして親父は、母親の家出の理由は図書館にこそあると考えたんだ。それで犯行に及んだ」

 

 俺は記憶をたどりながら、続ける。


「不幸中の幸いでけが人も死者も出なかったけれど、父親が放火で逮捕されたとなると、俺に対する世の中の目は途端に冷たくなった。自分で言うのもなんだけど、俺は子供の頃からそれなりに勉強ができて、わからない子には手取り足取り教えてあげてたりして、ちょっとした人気者だったんだ。


 知っている人を見れば必ずきちんと挨拶もするから『よく出来た子』って近所の人には褒められてたりもした。でも事件以降、それこそ掌を返したように、人々は俺から離れていった」


 忌まわしい思い出がよみがえり、刺すような痛みが胸を襲う。


「犯罪者の血は誰からも恐れられ、疎まれた。それまで仲良くしていた友達はもちろん、教師ですら俺とは距離を取りたがるようになった。まわりのひそひそ話は、いつだって俺を揶揄やゆするものだった。母親が家を出て行って親父が塀の中の住人となると、俺は完全に孤独になってしまった。励まし合う兄弟もいなければ引き取ってくれる親戚もいなかった。

 

 だから俺はあの事件以降、やむなく一人でひっそりと生きてきたんだ。でもこのまま一生やさぐれて生きるつもりはない。人並みの――いや、人以上の幸せを手に入れるため、最底辺から足掻けるだけ足掻いてみるさ。居酒屋で働いて大学を目指すのも、その一環だ」


 葉山は言いにくそうに口を開いた。

「その、住むところとか生活費は、どうしてるんだ?」


「さいわい持ち家の一軒家があるし、親父は逮捕されるまで不動産会社に勤めていてそこそこ貯蓄があったから、それを切り崩してなんとか生きてる」


「なんていうか」葉山は言葉を選ぶ。「月並みだが、その、大変だったんだな。人間不信になって誰とも関わろうとしなくなるのも無理はないか。なんだかオレの悩みは途端に贅沢に思えてきた」

 葉山は恥じ入るように苦笑しながら、こめかみをぽりぽりかいた。


「まぁそう言うな。みんなそれぞれ背負っているものが違うんだ。俺には俺の苦悩があるように、おまえにはおまえの苦悩があるんだろう。どっちが軽い重いの話じゃない」


 俺はそう応じると、右手にある0点の解答用紙を紙飛行機にして、葉山の元へ飛ばした。

「返すよ」


「おい、なんでだ?」


「俺はもう加害者側にだけはなりたくないんだ。もしおまえがこのことを口外したって、おまえの人生を破滅させるような真似はしない。いや、できない」


 葉山はそれを聞くと足下に不時着した紙飛行機を拾い上げた。そして何かを決意したような眼差しでこちらへ歩みを進めてきた。


「よし、もう決まり! やっぱ神沢、おまえで間違いなかった。おまえはオレの本当の友達になれる人間だ。逸材だ! 思った通りいろいろ考えて生きてるんだな。おもしろいよ! あいつらとは全然違う! もう拒否権なんか与えないぞ。今日から俺たちはダチだ!」


「お、おい」葉山にがしっと肩を掴まれ、俺はたじろぐ。「そんな強引な……」


「神沢悠介。いいか、よく聞け。オレは長いあいだずっと本当の友達を欲していたわけだが、話を聞いていて思った。おまえにも必要なんだ、本当の友達。だから、このオレがなってやる。互いのために、それがベストな選択肢だ」


 葉山の身の上話を聞き、怒りにまかせて無配慮な言葉を浴びせ、更に自分自身の境遇を打ち明ける中で、俺の対人警戒機能はいくぶん麻痺してしまったらしい。


 何はともあれ、葉山のその言葉は俺の心を大きく揺さぶった。全く自分らしくないのだが、それを受けて感銘すら受けていた。


 うれしいような、恥ずかしいような、こそばゆいような、不安なような。様々な思いが、浮かんでは消えていく。


 ただ、この機を逃せば葉山がこだわるような「本物かどうか」は別にしても、“友達”なるものをもう一生得られないんじゃないかという気がしないでもなかった。


 孤独な人生はある程度覚悟していたし、慣れっこだったけれども、心のどこかでは親しい友人を求めていたのは事実だ。


 葉山太陽――大病院の御曹司にして人生の意味に悩めるドラマー、か。


「本当の友達なんて仰々しい間柄になれるかどうかはわからないけど、とりあえず、俺でよければ、話し相手くらいにならなってやる」そこでためしに俺は、微笑んでみた。「よろしく」


「ははっ、それ、笑顔のつもりかよ。硬いんだっつの」


「こ、これでも勇気出したんだぞ」


「よしっ、じゃ、オレのことは以降『太陽』って呼んでくれ、俺も『悠介』でいいよな、相棒」


 彼は枯れた花さえももう一度咲かせてしまいそうな会心の笑みを見せて、言った。


 ♯ ♯ ♯


 それからというもの、昼休みになると屋上に行ってパンをかじりながら葉山太陽と様々な議題で論を交わす日々が続いた。


 テーマは身近な高校生活に関するものから政治的な色合いを含むものまで、実に多岐に渡った。


 初めて太陽と話したときの第一印象は“典型的な世間知らずのお坊ちゃん”だった。しかし何度も顔を突き合わせて話すうちに、その印象は次第に薄れていった。


 彼は世の中のいろんなことにアンテナを張り巡らし、きちんと自分の視座というものを持ってこの世界を見ていた。だから高校一年にしてはずいぶん視野が広かった。彼の口にする意見にはっとさせられることもあれば、自分の無知を痛感させられることもあった。


 いつしか俺は葉山太陽という男をすっかり気に入ってしまっていた。


「悠介、これだけは譲れん。胸には男の夢が詰まっているんだ! 絶対に胸だ」

「いいや、脚だ。脚こそが男のロマンだ」


 この日はどういうわけか「高校生活における自由とは」というテーマが巡り巡って、「女の子の一番魅力的な体の部位は胸か脚か」で我々は討論していた。


「脚はさ、なんつーか、評価の基準が一定だろ。太いより細いのが良いし、短いより長いのが良いんだろ? でも胸は違うな。大きいのはもちろんすばらしい。でも小さいのもそれはそれで味がある。形にだってこだわればそれぞれに魅力があってだな……」


「そんなことないぞ」俺は首を振って力説を始める。「細くて長ければ良い、というのはあまりにも浅はかだ。本当に美しい脚となるためにはある程度の肉付きが必要だし、長さだって上半身との兼ね合いが大事になってくる。制服の下に隠れている胸とは違って学校にいるとじかに素脚を拝むことできるのも大きいポイントだ」


 俺は異性の脚に対し、フェティシズムを持っている。こればかりは仕方がない。俺だって自分の趣向を自在に取ったり付けたりできるわけじゃない。


 余談だが、高校に入るとたちまち女子のスカートの丈が高くなり、はからずもそわそわした日々を強いられていたりする。


「悲しいねぇ。直に見えないからこそ、あれやこれやと想像を掻き立てられるんだろ」太陽は細い目をして頭を指さした。「そしてそれを楽しむのが、男のたしなみというものだよ、神沢君」


「何が男の嗜みだ」


「なんつーかさ、脚好きってムッツリっぽいんだよな。男が胸に惹かれるのは正当だけどよ」


「なんだよ、そのずいぶん自分に都合の良い論理は?」


「だって結局さ、究極的にはオレたちオスは自分の子を健康に産んでくれる相手を探しているわけだ。そしてヒトは他でもなく哺乳類だ。っていうのは重要なんだ。だから男が胸に惹かれるのは自然の摂理なんだよ」


 まさか生物学的区分まで持ち出して胸の優位性を説こうとは。


「それで言うなら、脚だって健康的な身体かどうか見極めるための重要なバロメータだろうが」


「ふぅん」太陽はニヤニヤする。「本当に脚好きなのな、悠介」

「わ、悪いかよ」


「で、そんな脚フェチ悠介君が選ぶ1年H組のナンバー1美脚は誰よ?」


 俺は自分のクラスの女子を一人一人思い浮かべた。答えはすぐに出た。前の席の柏木晴香だ。彼女は一級品の脚を持っている。肉付き、質感、長さ、血色、全てがハイグレードだ。俺がこれまで見てきた中で一番といってもいい。


 だがそれを口にするのはやめておいた。俺が気にかけているのはあくまでも高瀬優里だ。面倒の種はできるかぎりまきたくはない。

「ノーコメント」と俺は無表情で言った。


「それでは」と太陽は楽しげに言った。「脚に限らず、悠介が気になっている女の子を答えてもらおうか」


「はぁ!? なんでそうなるんだよ。胸と脚の論争はどこにいった?」

「ははっ、今日のところは引き分けだ。いつか必ず、決着はつける。それよりほれ、誰かしらいるんだろ、若者よ」


 まさかこいつ、と俺は身構えた。こいつは俺がいつも高瀬のことを眺めているのに気付いて言っているのか? と。


 背中に悪寒が走った俺は、軽く牽制けんせい球を投げてみることにした。

「なんで俺に気になっている人がいるなんて思うんだよ?」


「H組は1年のクラスの中でも指折りの美人揃いで知られている。健全な男子なら、お気に入りの女の子の一人や二人、いたっておかしくないだろう?」


 どうやら高瀬のことを白状させるつもりで切り出した話ではないらしい。

「おい、健全な色男。それじゃあおまえにもいるってことだよな、お気に入り」


 顔良し、性格良し、家柄良し。そんな葉山太陽は女子生徒にももちろん人気だ。聞くところによればなんでも数々のモテた逸話“葉山伝説”が存在する、らしい。


「言っておくが、オレは彼女は作らない主義なんだっての。フリーの方がよっぽど高校生活を満喫できるぜ」

「そんなセリフ、一度は言ってみたいね」


「さ、悠介。聞かせてみろって。何か力になれるかもしれん」

 太陽は目を輝かせて俺に呼びかける。どうして人は他人の惚れた腫れたがこうも好きなのだろう。


 さてどうしたものか。

 

 揺るぎない事実として“未来の君”の占い以来、俺の心は高瀬優里一色に染まってしまっている。


 俺の幸せを左右する運命の人――“未来の君”とは高瀬優里なのではないかとずっと思ってきたが、俺と彼女が接触する機会もきっかけもないまま、もうすぐ一ヶ月が過ぎ去ろうとしている。


 この停滞した状況を打破するためには、いっそ太陽に全てを打ち明けるのも悪くないように思える。しかし――。


 胸と脚の魅力で馬鹿馬鹿しく論を戦わせるほど打ち解けた間柄ではあるが、果たしてこの男に運命・・なんていう話をして鼻で笑われたりしないだろうか?


 言ってみればやはり「たかが占い」なのである。高瀬に限らず一人の女の子も俺に助けを求めてこないことを考えると、老占い師は青臭いガキをおちょくるため当てずっぽうをのたまった可能性だってもちろんあり得る。


 それでも――。


 高瀬の可憐な横顔を思い出すと胸が高鳴ってしまう自分がいるのはたしかだった。占いが当たってようが外れてようが、その“未来の君”が高瀬であろうがそうでなかろうが、彼女のことが気になって気になって仕方ないのが今の俺なのだ。


 この男にすべてを話せば何かが動き出すかもしれない。あるいは葉山太陽という友人を得たことも、考えようによっては運命の導きなのかもしれない。


 ならば――。


 俺はあらぬ方向に波紋が発生するのを覚悟の上で、静かな湖面に石を投げ込むことにした。意を決して、あの不思議な夜の出来事を打ち明ける。



「うおおおっ!」ミミズでクロマグロが釣れたくらい、想像以上の食い付きだった。「そりゃすげぇな! ってか、なんでそんな面白いエピソードを今まで黙ってたんだよ、この野郎!」


「わ、悪い」


「それで、悠介を幸せに導くっていうその“未来の君”っていったい誰だ? 占い師のじいさんの言う通り、心当たりがあるんだろ?」

 

 俺はゆっくりとうなずいた。


「誰なんだ?」太陽は前のめりになる。「悠介。まさかここまで話しておいて『やっぱやめた』はないよな? ほら、さぁ!」


「太陽、もう運命共同体だぞ」

「おう、どこまでも付き合うぜ」


 俺は深呼吸してからを口にしようとした。その時だった。


「きゃああああっ!」

 空を裂くような甲高い声が屋上に響き渡った。


 誰かがいる。俺と太陽しかいないはずの屋上に、女の子がいる。言わずもがな俺たちの関心は、声の正体へと向かう。


「あ、あれは!」太陽は給水コンテナの方を見やった。

 

 彼の視線の先を見て、俺は、肝を冷やすことになった。そこにいたのは、つい今の今までその名前を述べようと頭でイメージしていた人物、高瀬優里だった。


「驚かせてごめんなさい!」と高瀬は言った。そして給水コンテナの陰から気まずそうに出てきた。「大きい蜂に刺されそうになって、つい叫び声を」


 毒々しい黄色いスズメバチが何事もなかったように飛び立っていった。高瀬は髪を手で整えたり、スカートの裾を直したり、ひたすらあたふたしている。

「ごめんなさい。えっと、ごめんなさい。とにかく、ごめんなさい」


 高瀬は低姿勢で謝り続けた。鈍い俺はその理由がすぐにはわからなかったが、太陽はピンときたようだ。

「高瀬さん。そこにいた?」


 なるほど、そういうことか――と納得している場合では、どうやらない。


「あのね……」高瀬は口ごもった。「最初から」


「最初からっていうことはつまり……」

 太陽がつばを飲み込む音が、俺にも聞こえる。


「うん。高校の自由がどうあるべきかっていう話から、なぜか胸と脚の好みの話、それと神沢君に運命の人がいるっていう話も、全部、聴いちゃった。本当に、ごめんなさい!」


 俺の頭の中は放水車で白の絵の具を撒き散らしたみたいに真っ白になった。


 太陽は言った。

「高瀬さん。その口ぶりと慌てようはどうやら、今日がじゃないよな?」


「あのね、本当のこと話すね。私は風紀委員なんだけど、ここ最近昼休みに屋上へ行っている生徒がいるから、注意するようにって委員会から言われていたの」


「校則違反だっけか、屋上」と太陽は言った。


 風紀委員はうなずいた。「それで、最初に注意しに来たのが、このあいだ。最初は葉山君と神沢君、喧嘩してるのかと思っちゃった」


「ちょっと待てよ、高瀬さん。『喧嘩してるかと思った』ってことは……」


 俺と太陽はどちらからともなく顔を見合わせる。


「そうなの! 今日の話だけじゃなくて、二人の屋上でのやりとりは全部聞いてるの。もう、本当に謝るしかないね。ごめんなさい」


「ということは」とつぶやいて太陽は唇を噛んだ。俺に裏口入学を打ち明けたことを思い出しているらしい。「オレがこの高校に入った経緯も聞いちゃったんだ?」


 高瀬は後ろめたそうに首肯した。


 太陽は頭を抱えた。

「オレが本当は人生に悩んでること、表向きは仲良くしている連中を友達だと思ってないこと、そして悠介が人間不信になった理由、高校に黙って居酒屋でバイトしてること、それからそれから、悠介がムッツリスケベの脚フェチ野郎だってことも全部だな?」


「最後のは神沢君に悪いよ」と高瀬は苦笑いしながら言った。俺は礼のひとつでも言おうかと思ったが、彼女はすぐに言葉を継いだ。


「最初はね! 本当に二人を注意するつもりで屋上に来たの! でもそんな私に気がつかないくらい、二人は真剣に何かを言い合っていた。私はなんだか怖くなっちゃって、そこの給水コンテナの陰に隠れたの。落ち着いたら注意する気でね。


 そうしたら……その、すごく、聴き入っちゃったんだよね、二人の会話に。どっちも大きな問題を抱えていて、ぶつかり合って、それでも最後は理解し合った。正直、すごいって思った。自分と同じ歳なのに、こんなに考えて生きている人たちがいるんだ、って。


 次の日の昼休みからは風紀委員としてじゃなく、私個人としてここに来るようになった。またそこに隠れれば二人の話を聞けると思って。そして気づけば給水コンテナの陰で聞き耳を立てるのが日課になってた。どの話もとても興味深かった。本当だよ? 胸とか脚とかの話だけはちょっと別だけど」


 俺は太陽を肘で小突いた。

 太陽も俺を肘で小突いた。


「それでね、いきなりだけど、二人にお願いがあるの!」

 高瀬の瞳には強い決心のようなものが宿っていた。その凛とした眼差しもとても気高く美しく、俺の胸はざわめきたつ。


 彼女は言った。「私も、二人の仲間に入れてください」


「俺たちの」と俺は言った。

「仲間」と太陽は言った。「高瀬さん。どうしてだ?」


「私ね、この高校生活でを変えたいの」と彼女は言った。「いや、変えなきゃいけないの。でもを変えるためには、どうすればいいのか私にはまったくわからなかった。心では変えなきゃって思っていても、何もアイデアが浮かばなかった。そして気づけばもう五月になっていた。このままじゃいけないって焦りはじめたまさにその時に、二人の話を聞いて心を打たれたの」


 高瀬は俺と太陽の顔をしっかりと見据えて続ける。


「この人たちと一緒にいれば、私はそれを変えられるかもしれない。そんな予感が芽生え始めた。それは日を追うごとに強くなっていった。だからお願い。私を仲間に入れて」


 俺は教室での高瀬を思い返して首をかしげた。彼女は男女問わず多くの生徒と友好的な関係を築いているし、毎日笑顔を絶やさず過ごしている。授業中の態度も良く教師からの信頼も厚い。絵に描いたような優等生だ。


はたから見ていると高瀬は、とても充実した高校生活を送っているように思う」と俺は言った。「それの何が不満なんだろう? 今のままでいいんじゃないかな?」


「そうだよ」太陽はうなずく。「高瀬さん、すごくいろいろ頑張ってるじゃん。何も変える必要なんてないよ」


「変えなきゃだめなの!」彼女は我を忘れたように声を荒らげた。そしてはっと我に返った。「ご、ごめんなさい、つい……」


 俺と太陽は再び顔を見合わせた。聞きたいことはひとつだった。俺が代表してそれを尋ねた。

「高瀬。もしよければ、どうしても変えたい“あること”ってのはなんなのか、具体的に教えてくれないかな?」


 彼女はじっくり時間をかけて考えた。そして答えた。

「なんて言えばいいのか難しいんだけど、ひとことで言えば、かな」


「未来」と俺は目を剥いて繰り返した。


 すると高瀬が太陽には目もくれず、こちらに近づいてきた。そして言った。

「二人のなかでも特に神沢君。どうしてかはわからないけれど、君と一緒にいると、なんだか未来を変えられるような気がするの」


 それを聞いて俺の体内には電撃が走った。そして老占い師の言葉が脳内で次々とよみがえった。


「あなた様ときわめて強い運命の絆で結ばれているお方がおりまする」


 ――はじめは何事かと思ったよ。〈運命〉だなんて。


「運命の糸が必ずやあなた様と“未来の君”を引き合わせることでしょう。どうやらこの女性も御仁のように今現在、自らの未来に生じた困難に頭を悩ませている様子でございますな。そしてその解決のため、そう遠くない将来にあなた様に助けを求めて来ることになりましょう」


 ――まったく、本当に来やがったよ。きちんと未来に困難を抱えてさ。


「あなた様はもうすでに“未来の君”に出会っております。心当たりがおありなのでは?」


 ――彼女を一目見たその時から、俺は運命に導かれていたのかもしれない。


 思えばあの占いにおいては〈運命〉はもちろんだが〈未来〉もそれと双璧をなすほど、重要なキーワードだった。


 高瀬は何らかの理由で、現状のままだと訪れる未来を変えなきゃという思いをその胸に秘めていた。そしてその未来とは、決して望ましいものではないのだろう。


 俺の〈未来〉と“未来の君”の〈未来〉。


 どちらも今のままでは、暗闇が支配する世界なのだろう。だが二人が出会うことで、そして手を取り合うことでその闇は晴れ、光の射す一つの同じ〈未来〉へ歩んでいけるのではないか?


 高瀬はわらにもすがる思いで、俺たちに助けを求めに来たのだ。


 ――おそらく間違いない。


 高瀬優里は俺の“未来の君”だ。


「未来を変えたい、か」と太陽は茶化すことなく言った。「高瀬さんにこうして頼まれちゃ、断るわけにはいかねぇよな、悠介?」


 もちろん俺は迷わずうなずいた。


「それじゃ私も仲間ね」と高瀬はすがすがしい笑顔で言った。それから時計を見て慌てた。「いっけない。私、日直の仕事があるんだった。先に教室に戻るね」


 高瀬は制服のスカートをひらひらさせながら、屋上の入り口へとどことなく楽しげに小走りで向かった。しかし途中で何かに気が付いたようで、足を止めこちらへ向き返った。


「忘れるところだった。神沢君、葉山君。これは風紀委員として注意します。屋上への立ち入りは校則で禁止されています。もうここへ来るのはやめてください。いいですね」


 彼女は戯けたようにかしこまった声でそう言うと、手を振って今度こそ去っていった。


「いやぁ、驚いたなぁ」と太陽は俺の肩に手を置いて言った。「まさかあの優等生の高瀬さんがオレたちに仲間入りしたかったとはな。それにしても悠介よ。『神沢君。きみと一緒にいると、なんだか未来を変えられるような気がするの』だってよ。あの高嶺の花の高瀬さんにそんなこと言われて、おまえさん、惚れちまったんじゃねぇか?」


 高瀬が姿が見えなくなった今でも俺の胸は激しくざわめいていた。


「おい悠介。なんとか言いやがれこの野郎。可愛かったな、高瀬さん」


「彼女なんだ」と俺は立ち尽くして言った。

「は?」


「俺の運命の人――“未来の君”は、彼女、高瀬優里なんだ」


 ♯ ♯ ♯


 その日の夜。


 俺は自室のベッドに寝っ転がり、カーテンを開け放った窓からぼんやり外を見上げていた。


 月はあの占いの夜と同じく、歪みない美しい円形をこれ見よがしに誇示するかのように、空に浮かんでいる。


 今日は大変な一日だった。居酒屋のアルバイト中もいつもに増して高瀬のことが頭から離れず、いくつかヘマをしてしまった。


「運命、か」

 受け取りようによってはどうとでも取れるその言葉を俺は頭の中でこねくり回す。


「俺にはどんな運命が待ち受けているんだろう?」

 運命とは、言うなれば、物語、と置き換えてもよいかもしれない。


「俺の物語……」

 

 それは喜劇か、それとも悲劇か。

 どれだけの登場人物が現れて、去っていくのだろう?

 俺が主人公だとすれば、ヒロインは誰なのだろう?

 高瀬優里だと信じていいのだろうか?

 そして最後はハッピーエンドで締めくくることができるのだろうか?

 それとも――。


 俺は目を閉じると、自分の過去を回想し、未来を想像するよう努めた。しかし過去が思った以上に重く、意識をうまく未来に接続できない。


 起き上がって、頭を数度振る。


「これまでは糞みたいな15年間だった。でもこれからの1年は、そして3年は……」


 過去はもう変えられないが、こんな俺でもまだ、未来はどうにでも変えられる。その機会が与えられている。悲劇ではなく喜劇に、バッドエンドではなくハッピーエンドにしなきゃいけない。


 中学生にして母も父も失い、親戚にも見放され、特別な才能もなければ、これといった特技さえなく、金銭的な危機を常にはらみ、おまけに強い人間不信を抱えている。そんな俺が幸せを手にするなんて誰が思うだろう?


 面白いじゃないか、と俺は思った。


 太陽に宣言した通り、足掻けるだけ足掻いてやるさ。俺をここまで追い詰めた連中を見返すような、誰も見たことがないハッピーエンドを手に入れてやる。


 俺は窓越しに見える月に手を伸ばし、そんな決意を胸に刻みつけた。 

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