ダイアリー

Slick

第1話

「もし――」

 冷ややかな視線と共に放たれた、その一言が始まりだった。


□ □ □ □


”May.21st Wed


 そろそろ衣替えの季節だけど、私はなかなか一歩目を踏み出せなくて。全然大したことじゃないのに、もどかしいものね。

 そうそう、今日の七限目、君が内職しているのが目に入ったの。どうやらこのノートを書いてたのかしら? 先生にバレたら、私もとばっちりを食らいかねないのに。そも内職もいけない。

 そろそろノートが切れるけれど、次は私に選ばせてよね。思うに初めてのノート、今も思い出し笑いを誘ってくれて。では。”


 自分と違う文字で書かれた日記帳を閉じると、僕は小さく溜息を吐いて、デスクライトの灯りを落とした。


□ □ □ □


 朝一番に登校する。そして彼女のロッカーにノートを放り込む。

 大きく深呼吸、教室の匂いって普段意識しないから。

 無人の教室に差す朝日が、整然と並んだ机の天板を煌めかせている。電気を消した静寂と非日常感をかみしめつつ、黒板の前に立つとチョークで一本線を引いた。

 そして、すぐに擦り消した。黒板には白い靄だけが残った。

 僕らはこんな関係だった。

 この静かなひと時は、でも意外と長続きする。だから、どうしてこの関係があるのか未だに忘れそうになる。

 でも、きっといつか崩れる。


 一日が過ぎてゆく、大事な焦点を欠いたまま。その間、何人ものクラスメートがロッカーを行き過ぎる。でも何も気づかない。それが日常で、誰も僕らに気づかないまま。きっと、その方が幸せなんだろう。

 でも終礼までに、ノートは消えている。

 それが、もう一周を意味している。


■ ■ ■ ■


 事の始まりは、ただの誤算だった。


 放課後に居残り自習できる人間とは、放課後に居場所を持たない人間だ。部活? そんなの知らない。少なくともその日、僕だけが居残っていたのはそれが理由だったんだろう。

 下校時刻を告げるチャイムが鳴った。

 参考書を閉じると、気の抜けるようなパフッという音がした。机の脇に掛けている鞄を持ち上げる。

 その時、手が滑った。床に鞄の中身がドッとあふれだす。

 思わずため息をついた。嬉しいね、どうもテンポがいいじゃないか。どういう悪戯だろう、神様?

 そう毒づいた僕は甘かった。


 ガララッ。


 ここにて、部外者のご登場。

 黒髪を揺らして教室に足を踏み入れた彼女。クラスメートだった筈だが、確か名前は――覚えてないや。まぁいっか。

 そんな視線が交差した。

 何を合点したのか、彼女は小さく頷くと僕を手伝ってくれた。意外と優しいんだな、こいつ。

 そんな他人事みたいに考えていた僕は、やっぱり甘かった。

「――あ」

 彼女がふと拾い上げた、とある一冊の表紙。そこに記されたタイトルは。

『日陰者な生徒Aから世界無双勇者への成り上がり下剋上英雄譚~秘められし禁断のアカシックレコード.3』

 ライトノベルのタイトル――ではない。

 それは、僕の日記だった。

 あ、終わった。

 ひどく真っ白な頭でそう思った。

 引きつった心臓の音が、やけに大きく耳の奥で反響していた。


■ ■ ■ ■


 僕らの関係は、あの日から、このノートだけで繋がれている。

 翌日も学校は過ぎてゆく。だがそれは昨日と違ってじれったい。心のどこかが欠けている。取り戻さなければ気が済まないように感じる。焦燥が胸を騒がせる。

 落ち着かない。

 七限が終わり、意図してゆっくりトイレから戻ると、僕のロッカーにノートが返ってきている。地味な色味の表紙を目にして初めて、総身の力が抜けるように安堵する。毎度の感覚だ。次は僕のターン、この間だけは僕の好きなようにできる。少なくとも、そう思い込める。

 何でもないようにノートを引き寄せると、自分の鞄に突っ込んだ。


”May.23 Fri

 最近、自分の文字に違和感を抱いてたんだけど、どうやらちょっと君の書き方に似てきた気がするわ。毎日見比べて書くから、自然とそうなるのかしら。

 衣替え、君曰く男子は気にしないらしいけども、これは私の性格な気もして。ザ・日本人かもねって変な話ね。

 君に勧められたボカロ、聞いてみたの。アレは好き嫌いが分かれそう。時に、私の勧めた本を頑なに読まない君こそよっぽど強情だわ。表紙を開けば面白い世界が待ってるのに。では”


 ――交換日記。

 そういう言い方も出来るだろう。でもこの関係は......それとは微妙に違う。あの日からずっと、僕に選択の余地はない。そしてきっと、その方が気楽なんだろう。大義名分があって、ただ従ってさえいればいいんだから。

 でもこの指先の痺れは何なのだろう?


■ ■ ■ ■


 ――終わった。

 食い入るように日記の表題を見つめる彼女。思わず目を逸らす僕。きっと今、顔が熟れすぎたトマトみたいに真っ赤になっているに違いない。それくらいの羞恥だった。

 けれども。


「――もし」


 その一言に、縋るように顔を上げる。

 彼女は日記帳をくるりと裏返すと、静かにポツリと告げた。

「もし、君が勇者なら」

 冷ややかにそれだけ言うと、彼女はノート片手に立ち上がった。

「やあの、え......」

「なに」

 うん。もしかしなくても、そのノートを持って帰る気かい?

「ええ」

 ふーん、はぁ......は? えちょ、別に校則違反とかじゃないよね?

「皆に言いふらされたいなら、別だけど」

 そうですかそうですか、持ってけ泥棒。

 かくてローファを鳴らしながら彼女は教室を去った。全てがあっという間だった。教室の戸が閉まると同時に、思わずその場にしゃがみこむ。

 最悪だ。もうメチャクチャじゃないか。どういう運命の悪戯だ、神様?

 胃の中が派手に搔き回されたように感じる。もう純粋に死にたい。なんだか、とにかくひどい気分だった。


■ ■ ■ ■


 別にじっくり観察した訳でもないが、彼女には特別親しい友人も見受けられなかった。誰とでも気軽に話せて、でも誰の間でも一定の距離感を測っているような。だからどうしてあんな行動をしたのか、今でもずっと謎のままだ。

 あの日の翌朝、登校すると自分のロッカーにノートが戻ってきていた。表紙は伏せられていた。慌ててページを確認したが、何ら変わったところはなかった――最終更新のページを除いて。

 かくて、今に至る。

 多分――これはあくまで多分だが、僕はクラスで一番に彼女のことを知っている、と思う。文芸部に所属していること。登山が趣味なこと。実は自転車に乗れないこと。よく詩を書いては消すこと。

 けれども、あのファースト・コンタクトの日以来、彼女とは一言も会話を交わしていない。教室でも滅多に視線すら合わせない。

 だからページ一枚を隔てた距離が、僕らの関係の行きつく先だろう。とてつもなく遠い糸電話さえ、すぐ耳元で声が聞こえるみたいに。

 この関係は、いったい何と呼べばいいんだろう。


□ □ □ □

□ □ □ □


 勉強机に頬杖を突きながら、私は今日ノートに何を書くべきか漫然と思案していた。キイと軋む回転イスの上で、胡坐を組んで考え事をするのが好きだ。

 何やかんや、書くことを選ぶ時間は嫌いではない。指先でシャーペンを回すと、カリカリと少しずつ文を書き付け始める。

 彼の文章は、いろんな意味で読み易い――時たま嘘が見透かせるくらいには。例えばしばし、文字が微妙に丁寧になる箇所がある。そこはたぶん物事を”虚飾”して書いてるんだろう。きっと色々考えて書くものだから、自然と文字も綺麗になるに違いない。

 それと彼は、自分について多くを語らない。

 もちろん、最初に特大の黒歴史を知られたトラウマかもしれないけれど。そう考えると、何だか私だけ馬鹿みたいだ。馴れ合うつもりなんてないのに、傍から見たらまるで私しかアプローチを仕掛けてないみたいで、自分でも笑ってしまう。

 ため息をつくと、ペラリとページをめくって最後の文章を無心で眺めた。

 とはいえ、このノートからも多くを知ることはできる。彼の書き癖――漢字の「口」の部分をぐちゃぐちゃっと誤魔化して書くこと。文章を何度も書き直すこと。その消しゴムは色付きなこと――これはページに挟まっていた消しカスから分かった。こう考えるとちょっと面白い半面で、私には覗き見の癖があるのかしらとも思う。

 

 そういえば、どうしてこの関係が始まったんだっけ。ときおり忘れそうになる。それくらい当たり前になりすぎている。妙な気分ね。

 そうそう、あれは――


■ ■ ■ ■


「――もし」


 正直言って、吹き出しそうだった。

 何というか、男子ってとことんバカみたいね。今に分かったことじゃないけども。

 彼は顔を背けている。視線の遣り所もなく、ノートの表紙に目を落とす。こっそりめくると、一番最初のページに目次が記してあった。日記なのに目次を? でも気づいた。これ、まだ書きかけだ。未完の目次、その発想にちょっと驚く。

 でもその――いろんな意味で、動揺? それをぐっと堪えてた私は、きっといやに冷ややかな目つきになっていたことだろう。眼前の彼が、急に哀れな犠牲者に思えてきた。

 まったくもう、ほんとに......。

「もし、君が勇者なら――?」

 でも、何で? どうして?

 そのとき急に、色んな疑問が湧き上がったんだ。

 ノートを抱えたまま立ち上がる。彼が焦燥に駆られた目で私を追う。

「皆に言いふらされたいなら、別だけど」

 だって、だって......どうしてなんでしょうね。

 彼に背を向ける。その場を去る。ローファの音がうるさかった。教室の戸を後ろ手に閉める。

 そして、その戸に寄りかかった。

 目の前の廊下に、淡い橙の西日が差していた。

 私たぶん......いや絶対に、悪いことしてる。

 ノートの表紙をひっくり返すと、奇妙な笑いが込み上げた。どうしてだろう、こんな愉快な気分になったのは久しぶりだった。ちょっとした悪戯心と......この残りの感情は、何て表現すればいいのだろう。


 あの日、生徒Aだった彼と、生徒Bだった私が出会った。


■ ■ ■ ■


 その日の日記を書き終えると、私は最初のページに戻って、目次に今日の日付を書き足した。その上にはずっと、交互に記録した日付が積み重なっている。

 こんなにも長い間、この関係が続いてたんだ。今更ながら驚く。案外、お互いロマンチストかも......って馬鹿みたいな考えね。

 そのとき、ふと思った。

 この交換日記は、お互いに書きたいだけ書いて、相手の反応にすぐ責任を負わなくていいから、罪だ。


□ □ □ □

□ □ □ □


 悩んでいた。

 少なくとも僕にとっては、ひどい驚きだった。こんなこと言える立場じゃないと分かってるのに。彼女は僕の弱みを握っている。その危うい前提の上に僕らの関係は成り立っている。

 でも。

 彼女ともう一度会って、話を付けたい。

 いや、教室で毎日顔は合わせているんだけどもな。でもこの頃、たびたび不思議な危機感を抱くようになった。それは思いもよらない感覚だった――少なくとも、日常的な感覚じゃない。

 好意?

 違う。当たり前のようにそう思った。これは好き嫌いじゃない。僕らの関係は、ちょっとあり得ないくらい歪な形をしている。それを正すことが、果たして良いのかは分からないけれど。きっと今のほうが楽な筈なのだ。そしてそのまま、きっと関係は廃れていくのだろう。

 それは、嫌かもしれなかった。

 好意じゃない。これはただ......

 ただ、友達になりたいと願ってしまうのは、それほど罪なことだろうか。


□ □ □ □

□ □ □ □


 私たちは、言葉の表面だけ見れば限りなく”友達”っぽくなっている。交換日記の言葉遣いも、最近の彼は少しづつ砕けてきたように感じていた。長らく丁寧語が抜けていなくて、見てるこっちもじれったかったから、これは素直に嬉しかった。

 まるで他人なのに、全然他人じゃない。そう、私たちは限りなく”友達”に漸近している。

 でもきっと、そんな関係になることは一生無いんだろうな。

 再びそんな馬鹿な妄想をした。


 そう思っていた時、彼から誘いがあった。


□ □ □ □

□ □ □ □


 放課後の教室で、彼女を待つ。いやでもあの日のことを連想してしまう。校庭の運動部の声が静寂の中で単発的に響く。所在ないまま単語帳を開くも、目はページの上を滑っていく。

 いろんな感情が、身体のあちこちにこびり付いている。なのに心臓が休息を許さない。ドクドクと生暖かい血が粘っこく身体を巡り、呼吸は否が応でも深くなる。指先に妙に力が入らない。集中できない。落ち着かない。軽い吐き気がする。

 気分が悪い。

 でも、そんな時に限って挑まなければならないんだろう。

 教室の磨りガラス窓に、人影が灯った。琥珀糖の模様のようだった。


「久しぶり」

 自分の第一声に、まず違和感を抱いた。僕はこうじゃない、きっと何かがおかしい。思わず顔をしかめる。

 ともあれ、普通の声を出せたことに若干驚いた。なにせ彼女とは、最後に話して以来……。

「たしか、もう半年ぶりかな」

「そんな、昨日文章を交わしたばかりじゃない。それに毎日顔は合わせてるのに」

 その共通認識は彼女にもあったようで、内心安堵する。彼女が何かを求めるように視線を彷徨わせ始めたので、僕は机から二つのビニール袋を取り上げた。

「ちょっと付き合ってくれないか」


□ □ □ □

□ □ □ □


 彼に連れられて、学校のそばを流れる川に向かった。

 道中は二人とも無言。考えたら不思議な話だ。あれほど日々文章を交わしたはずなのに、まるで初めて会うように感じる。それもただの初対面じゃない。未視感と既視感がごちゃまぜに錯綜する。まるで神様のイタズラで無理やり運命の糸を繋げられたような、そんな気がしていた。

 私たちを結ぶ糸は、例えるなら、いったいどんな色をしているんだろう。


 川べりは平石で舗装されていたものの、河口に近いからか、川岸には大きめの岩がごろごろしていた。その境界ギリギリにしゃがみ込むと、彼はビニール袋から割り箸とタコ糸、それに割きイカの袋を取り出した。

「なにそれ」

「僕も久しぶりなんだけどね」

 彼は器用にタコ糸に割きイカを結びつけると、割り箸の先端の切れ目にタコ糸を挟み込んだ。

「ほら、カニ釣り」

 そう言って、その即席の竿を私に差し出した。彼も手早く同じ竿を組み立てると、川岸の岩場に割きイカを投擲する。

 曰く、このままじっとしていれば岩影からカニが現れて、割きイカに飛び乗るらしい。そこをひょいと持ち上げて釣り上げるそうだ。父親に教わったと言っていた。

 二人して川べりにしゃがみ込み、じっと割きイカだけを見つめる。依然、無言が続く。静かな川のせせらぎが二人の空間を満たす。

「……そう言えば」

 沈黙に音を上げたのは、私が先だった。

「君、どんな色が好きとかあるの?」

 何の気無しに尋ねる。

「面白い聞き方だね」

 彼はそう言うと、ポツリと答えた。

「何て言うか知らないけど……くすんだ黄色」

「あ、金糸雀色のこと?」

 そう答えると、彼は不思議そうな目で私を見た。

「そんな言葉を知ってるのも文芸部だから?」

「まぁそうね」

 しばらくすると、彼が再びポツリと呟いた。

「本当、僕は君のことを知っていると言えるのかな」

 川の側道に植えられた桜並木から、青い葉が一枚舞い落ちた。そっと着水したその若葉は、波紋を歪ませながら水面を下流に流されていった。

「結局僕は、どうしたって君に勝てっこないんだし」

 秘密のことだけを言っているのでないのは明らかだった。

「――でも、さ」

 私は答える。

「君、やっぱり純粋だよね。今だってカニ釣りなんか、女子を誘う場所としては斜め上すぎるよ」

 彼はひどく赤面した。

「じゃあ……どうしろっていうんだよ」

「あ、別に怒ってはないから。君のそういうところ、嫌いじゃないよ」

 別に好きでもないけど。そう付け加えると、私はしびれた脚を労って尻餅をついた。

「あ。じっとして」

 いきなり彼が言ってきたので、何かと思えば、私の割きイカに一匹のカニが興味を示しているようだった。少し離れた場所からハサミでツンツンとイカを突いたかと思えば、ソロソロと近づいてくる。

「焦らないで……タイミングが大事だから」

 アドバイスする彼が、自然と竿を持つ私に手を重ねてきて、でもそれが意外と不快ではなかった。別にときめいたとか、そんなわけじゃ絶対に無いんだけど、それでも不思議な安心感……というか、実体を帯びた納得みたいなものを感じた。

 彼とは文字を通してしか交流してなかったけど……当たり前だけども、彼の手にはちゃんと温もりがある。この手があの文字を綴っていたのかと考えると、しげしげと眺めてしまった。

「ほら、いま!」

 我に返ると、カニが完全にイカを抱きかかえていた。思わず勢いよく引き上げる。

「あ」

 あまり急に引っ張ったせいか、カニは途中でイカを離してしまった。岩場にコツンと落下したカニは、脚をシャカシャカ動かして慌てて岩陰に潜り込む。

「残念、やり直しだね」

 それでもどこか楽しそうに言うと、彼は自分の竿を引き上げた。

「場所を変えよう。上流のほうがもっと釣れるよ」


□ □ □ □

□ □ □ □


 彼女は飲み込みが早かった。始めて僅か三十分足らずで六匹を釣り上げ、僕はと言えば三匹目からめっきり釣れなくなっていた。

 そして今も、新たなカニが僕の割きイカを狙っている。思わずぐっと息を詰める。普通の釣りと違って、獲物がルアーを掴み取る瞬間をすぐ目の前で見ることが出来るから、それだけでも楽しいのだけど。

 カニは必死に割きイカにハサミを伸ばそうとしている。まるで、決して届かないものを求めてる僕みたいだ、と自虐的に思う。

 つい応援したくなる。ほら、すぐそこだ。あとほんの少し手を伸ばせば届くのに。僕は分かっている。分かった上で想像する。彼女が僕をどんな目で見ているか。そして、後悔したくないが為に何もできない。彼女との邂逅で味わったような苦しみは、もうこれ以上感じたくない。

 これは恐れだ。恐れと切望だ。

 友達。

 その一言が、ページ一枚分の距離と肩を組んで、僕らを阻んでいるような気がする。

 でも、この関係はいつかきっと崩れる。

 好きとか嫌いとかじゃない、ただ彼女と友達になりたい。

 だからせめて、一言だけでも自分の口で――。

「やった!」

 七匹目を釣り上げた彼女に、小さく拍手を送ると、僕は心を決めた。

「ねぇ」

 ちょっとさ、って振り向いて「ん?」って間は、ほんの一秒間。

 この刹那に、僕は今までの自分を全部凝縮させた。

「よければその――僕と『友達』になってくれない?」

 彼女は、濃色の瞳で僕を見た。

 その居たたまれなさに、思わず目を逸らしたくなる。ちょうどあの日のように。でも、ぐっと堪える。いま顔を逸らしたら、絶対に一生自分に顔向けできない気がした。

 鼓動一拍分の沈黙。

 そして彼女は、プッと吹き出した。

「アハッ、何を言うかと思ったら。てっきり告白でもされるのかと思ったわ」

 今更ながら、僕はひどく赤面する。いや、赤面どころの騒ぎじゃない。ドワッと恥ずかしさの揺り返しが押し寄せる。それはもう、穴があったら飛び込んで防音加工の蓋をして溶接で完全に密封して叫び出したい、それくらいの羞恥だった。

 でも……でも、あの日の恥ずかしさとこれは、微妙に違うような気がした。

「それで……答えを聞いてもいい?」

 蚊の鳴くような声で尋ねると、彼女は笑いをかみ殺しながら。


「君がよければね」


 そうか、そうなのか。

 この時、ようやく気が付いた。今までの羞恥心も、恐れも切望も葛藤も、全部自分から剥がれ落ちていくような気がする。そしてその先には、彼女がただ一人立っている。白い日差しに包まれて、彼女は凛と顎を上げて立っている。

 そうか、そうだったのか。

 あぁ、きっと大丈夫だ。だってこの痛みの始まりには、全部君が居てくれるんだから。


□ □ □ □

□ □ □ □


 翌朝。

 私は登校しながら、どうすべきかあれこれ考えていた。通学路のスズメたちは、今朝も元気に電線の上で歌っている。

 友達。

 昨日の一言に、いやでも胸が踊る。

 友達、なんて素敵な響きだろう。

 いやもちろん、私にだってたくさん友達はいる……たぶん彼以上に。でもきっと、そんなの関係ない。わざわざ誰かと「友達だよね」って確認したことなんて今まで無かったし。高校生の友人関係なんて、所詮そんなものだろう。学校を卒業すれば、皆とはきっと離れ離れになってしまう。俗に言う、席が隣だったゆえの『友達』。それはもしかしたら、彼も同じかもしれない。

 それでも。

 でも彼のことは、互いに正真正銘の『友達』として信じ続けられる。約束を交わしたのだから。これは絶対に嘘じゃない。この一点だけは、ずっと変わらずに心の中で輝き続けるのだ。きっと。

 それが、純粋に嬉しかった。


 教室に足を踏み入れる。いつか彼が書いていた、教室の匂いってものを意識してみる。大きく息を吸い、吐く。そして視線の先に彼の姿を見つける。

 彼も私を見る。私たちの視線が交差する。

 そして。

「「おはよう」」

 朝の挨拶を交わす。きっと今日から、新しい一日が始まる。

 

 私は。


 僕は。


 この時間がずっと続くように、そう信じた。


(終)

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ダイアリー Slick @501212VAT

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