第3話


 くぅかくぅかと寝て、起きた。

 ちゅんちゅんと、小さい鳥が鳴いている。

 コップに水を注いで、飲んだ。

 人間って本当に、水でできてるんだなぁ、と、潤いを感じながら考える。水の中では、生きられないくせに。身体中、水ばかりであふれた、生き物。

 世の中には〝持たない暮らし〟なるものに憧れているヤツが大勢いるのだと、いつの日だったか、ラジオで聴いた。

 持たない暮らしは軽やかでどうたらと、ぺちゃくちゃ言葉を絶やさずに繋げていた。

 それを初めて聞いたとき、俺は「ただの貧乏人の強がりだろう」と思っていた。そいつらは、持たない暮らしをしたいんじゃない。持てない暮らしを肯定したいだけなのだと。

 けれど、ある日。その考えは、くるりと変わった。

 そいつらは、存在に縛られることなく、自由であることを欲しているのだと気づいた瞬間に、くるりと変わった。

 持たない暮らしは自らを、大切な人を自由にすると、気づいた瞬間に、くるりと変わった。

 けれど俺は、あるものにずぅっと縛られている。だからきっと、いつまで経っても自由になれない。とはいえ、俺は、縛られたくて縛られている。だから俺はきっと――死ぬまで不自由なんだろう、と、思っている。


 俺はいつも、財布の中に、ぺろっと1枚カードを入れている。俺のことを縛り、自由を奪う、呪いと祝福のカードを。

 これは、いつのことだったか。菓子コーナーに置いてある、何が出るかはお楽しみとかいう、何かしらかのカードが入っているらしい、ぼったくりガムを買わされたのだ。その時に、「これはもう持ってる。欲しかったのはこれじゃない」なぁんて言って、俺にくれたカード……あれ、違うか? これは、ゲームセンターの何がなんやら分からないゲーム機が、べぇ、と吐き出したものだったか?

 クマが描かれたそれは、長年雑に扱われたからか、ところどころ折れて傷んでいる。大事にしようと心に決めてからも、貧弱な安物の財布に突っ込むからか、その傷は増える一方だ。

 毎日、カードを、クマを見る。

 これさえあれば、それでいい、という気になる。

 家がなくなって、どこかの草っ原を布団と思い込んで寝ることになっても、だ。


 冷蔵庫の中を見る。

 普段からろくなものなど入っていないそれは、空腹だ、と喚くように、ジジジジジ、と鳴っている。

 食い物がねぇから電気をたらふく食っておくわ、とでも言っているかのように、ジジジジジ、と鳴っている。

 前回、買い物に行ったのはいつのことだったか。思い出そうにも、思い出せない。

 さっと身支度を整えた。玄関ドアを開けて、出た。閉める時に、否応なしに視界に飛び込む、自分の家の全体像。まるで、今現在の冷蔵庫かのように、空腹の。突然に、冥土へ行くこととなっても、タカコにできるだけ迷惑をかけないように、と、地道に減らし続けた、軽やかな。


 ト、ト、ト、と歩きながら、何を買おうかと考える。油あげ、味噌、納豆。米は、今日はいらない。たまには、肉を食おうか。いやいや、それを言うなら、野菜を食ったほうがいいだろう。野菜かぁ。ガキの頃から嫌いなんだよなぁ。ああ、たくあんだったら食ってやってもいいなぁ。あとは、そうだなぁ。味噌かつおニンニクも、悪くないなぁ。そういや、キャベツだか牛蒡を食べようとしてなかったか? 気のせいか?

 今日も世界は、乱暴だ。

 あっちでは、自転車が歩道をチリンチリンとそこのけそこのけ駆けていく。

 そっちでは、ぶつかったのはわざとだなんだと、暇を持て余して喧嘩を楽しんでいる。

 こっちでは、信号無視した車が車列を縫って、走って消えた。

 行きつけのショッピングモールに着いた。

 クラクションが、プ、プ、プ、プ――おい、そこのジジィ、邪魔なんだよ、どけ――と叫ぶ。

 俺はヨボヨボの爺さんを演じ始めた。のっそのっそとカメのように歩く。クラクション? ンァ? すまねぇな、耳が遠いんだ。……嘘だがな。



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