第2話


 まぁただ。

 また、帰り道は体が軽い。

 上手くなるほど練習してはいないだろうと考えているが、それにしてもこれっぽっちも成長しない。これが、老化ってやつなんだよ。俺は言い訳をため息に混ぜ込んで、吐いた。

 宗教の勧誘のためにだろう、交差点の端っこで、ぼぅっと突っ立っている婆さんを見つめた。微動だにしない。あれは生きているのか? クラクションが鳴った。この辺の運転はとにかく荒い。婆さんはどうだ? ちらりとも見ない。やはり、あれは――。違う、生きている。動いた。眼前、カモが通る時に、ようやく。

 ビュン、と自転車が視界を横切る。後ろにのっけられているちびっ子が、うわーん、うわーんと泣いている。

「ママぁ、あたし、欲しかったよぅ」

「我慢しなさい。無理なものは無理なんだから」

 母親の眉間には、くっきりと皺が寄っていた、ような気がした。

 イラつきをペダルに込めたのだろうか。グン、と力強く前へ進む。

 耳が弱くなれど確かにつんざかれる、キュキュキュキュ、と強烈なブレーキの音。

 俺は危うく、母娘が死ぬ瞬間を見るところだった、ようだ。

 死にかけた母の顔には、くっきりと皺が寄っている、ような雰囲気。車を睨みつけていた首が、くいっと前を向いた。また、グン、と力強く進みだす。

 ふたりの背中が、小さくなる。

 ちびの泣き声は、まだ聞こえる。


 家に帰ると、誰が返事をしてくれるでもないが、「ただいまぁ」と呟く。霊の一人でも棲みついてくれればいいのに。俺には、喜怒哀楽をぶつける相手がいない。

 最近の晩飯は、大豆食っときゃ間違いないと、決まって納豆ごはんと味噌汁だ。ヴィーガンだかなんだか、流行っているやらなんやら、小難しいことをして生きているヤツのような生活。

 米、米、大豆。大豆、大豆、米。

 なんでだろうか。もう生きることに執着しなくなった俺を、神様は殺さない。年始には必ず、「今年こそは逝きたいです」と願っているというのに。神様は、生きたい人間に死を与え、どうでもいい人間に生を与える。

 本当に、神様ってやつは、仕事のできない、クズ野郎だ。

 俺は口に放り込んだ油あげを延々噛んだ。

 ドロドロになるまで噛み続けた。

 ふと思い立って、今度は噛まずに飲んだ。

 切り刻まれているそれは、詰まることなく食道を下る。

 こんなことじゃ逝けねぇか、と思う。

 こんなことで逝けなくてよかった、とも思う。

 そうだ、今死んだら孤独死確定じゃないか。そんなことをしたら――タカコが困る。死ぬなら病院でぽっくり。それが、最幸の最期だ。

「タカコは今、なにをしてんだろうなぁ。ちゃんと食ってっかなぁ」

 自分よりも質素な食事じゃありませんように。

 願いながら、ぬるくなった味噌汁を飲み干した。

 茶碗汁椀、箸に湯呑み。いくらもない洗い物を、ちゃっちゃか済ませる。風呂に入るのは面倒くさい。次に出かけるときでいい。歯磨きはちゃんとしておこう。いや、歯から健康を崩せばいいか? 否、そういう体の壊し方は、ちょいと怖い。中途半端に壊されたら、死ねないだけではなく、生き地獄だ。

 シャカシャカと歯を磨き、入れ歯を磨き、トイレへ行き、デカいのが出るかを確認するように踏ん張った。体から出ていったのは、薄黄色の液体だけだった。

 そういえば、最後にデカいのをしたのは、いつだったか。

 今度、キャベツでも食うか。味噌汁に、牛蒡でも入れるか。



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