9 舌鋒は上機嫌に
──探していた友人はとうに本人ではなく、その正体は『神』という人外だった。
閉ざされた扉の前でぺたりと冷たい床に座り込み、もうどれくらい経ったのか分からない。肩を丸め、緩慢とした動きで顔を覆う。
先ほどからずっと、ユユは筆舌に尽くしがたい、混乱の只中にいた。
別れを告げられたとき、ユユが覚えたのは怒りや憎悪などではなかった。全く別の衝撃に、ユユは打ちのめされたのだ。
──外に出る寸前、最後に見た顔は、ユユの記憶に残る『本郷鼎』と全く同じだった。
小さい子に向けるような、眉を下げた困り笑い。
表情筋が硬く、わずかにしか上がらない口角は、ユユのようによほど見知った人でないと気付かれないこと。細い目付き、いつもどこか眠たそうに見えるのは瞼が重いからと、本人も気にしていたこと。
全部、普段の彼女そのままだった。
あの三日月のごときかたちをした、狡猾で悪どい『神』の笑みとは似ても似つかない。
けれど、それは紛れもなく同一の存在から向けられたもので。
──「いつから」と、ユユは聞いた。いつから、成り代わっていたのかと。
「答えてもらって、ない……」
頼りなく紡がれた言葉が、顔を押さえた手の隙間から滲み出る。
無回答こそ、時には何よりの肯定となり得るのだ。
ユユが『本郷鼎』を疑うきっかけとなったのは、二週間前のあの出来事だが──仮に、成り代わりが起きたのがそれよりずっと前だとしたら。
──ユユはずっと、誰と接していた?
「……気づけなかった、とか」
情けなくて、今でも信じたくなくてユユは歯を食いしばる。ぐるぐると考え続けていても埒が開かない、それは分かっている。
ようやく重い腰を上げて扉に向かい、引っ張ったり押してみたりするものの、ガチャガチャと耳障りな音を立てるばかりで一向に開く様子はない。
ため息を落としかけ、とそこで「あ」とユユは思い出す。
「そうだ、
怒涛の展開で、彼らのことを完全に忘却していた。そういえばまだ安否確認もしていない。
ユユにはこの地下の正しい入り口は分からないが、とにかく無事を確認したら伝えなくては、とスマートフォンを取り出して、
──ドサドサという、確かな質量を持った何かが扉の向こうで落下するような音がして動きが止まる。
「……い、まのって」
不穏な予感のする響きに、ユユは急いで扉に横頬をぴたりと着けて耳をそばだてる。
──アァ、アァと、重い扉を隔てた先で、微かに聞こえたのは唸り声。しかもその音は、徐々にこちらに近づいている。
顔を青くして、ユユは悟る。もう一つ、ユユがすっかり忘れ去っていた脅威が、その存在を知らしめにきたのだと。
足音はもう、間近に迫っていた。
◆
その男は、死体に囲まれていた。
死体は声とまでは至らない音を喉から発し、緩慢としているが死後痙攣とは言い難いほどの動きを見せている。
その数およそ十数体。それらは一様に男に群がり、何かを口々に訴える唸り声は絶えることがない。
だが男にとっては、それらは──呻いていようが蠢いていようが、すべからくただの死体であった。
「──」
煩い、と男が腕を振るえば、それを避けるようにザッと亡者の群れが割れる。それを不快そうに睨め付けて、男は廊下の奥へと歩みを進める。
祭壇の下、かつてここが異教徒排除の煽りを受けていた時期に作られたという通路を使い、男が向かった先は地下一階。
地上で展開される地獄を置き去りにし、見取り図には記載されていないその場所を、男は確かな足取りで突き進む。使われていない倉庫が多く立ち並ぶ、廊下の最奥へと。
──早く、早く、あの方の元へ向かわなくては。
急ぐその男の道行きを、背後から掛けられた声が食い止めた。
「──やあ、
ゆっくりと首を回し、足を止めた男は声の主を探す。
──金と黒のハーフカラー。低い身長に、利発そうながらも自信過剰な内面が滲み出る顔つき。
奇異な外見をした青年が、男に終わりをもたらすために立っていた。
◆
それは、ユユが少女の皮を被った『神』と対峙したのとほぼ同時刻。
「ダメだろ、顔隠すんだったら僕らみたいにちゃんとしないと」
どうやって入ってきたのやら、背後に立っていた青年──
──ゾンビが入ってきた瞬間、祭壇の前の男が憎々しげに口元を歪めたのを、君月はしっかりと視認していた。
外から吹き抜けた風に煽られて外れたフードの下の、その素顔も。
それを知る由もない男──否、古関は苛立ちを抑えず、低い声で問いただし、
「──誰だ」
「
機嫌よく語尾を跳ね上げ、どこまでも人を食った言い方をする君月に、男の額に青筋が生まれる。それは顔は見えないながら陶酔したきった口調で『メリ様』と『恵み』を崇め、音頭を取っていた姿とは、まるで同一人物と思えない変貌ぶりで、
「さっきの集会の時と全然キャラ違うね。SNSとも」
「──。ふざけたことを、」
「うわあ、君大人気じゃないか! 羨ましい」
わざとらしい歓声を上げ、てくてくと散歩のような気軽さで歩み寄る君月に、ゾンビは見向きもしない。
不自然なまでの光景だが、それは古関に対する様子とはまた違ったものだ。それをあえて見せつけた上で彼は「ご覧の通り、彼らは僕には全く靡いてくれないんだ。悲しいよ」と肩を落としてみせ、
「僕は『恵み』を口にしていない。君ならこの意味、分かるだろ?」
と、ゾンビの寄らない理由を告げた。実のところ、つい先程までは推測段階でしかなかったが、この教会で起きたある意味盛大な対照実験──自らも含めた──により、図らずも成り立った理論だ。
それに従えば、憮然とした表情を浮かべる古関に彼らが群がる理由も自ずと分かる。
「何故ここが分かったかって? 逆に、君の周りがゾンビが一番いたからね。普通に着いてきただけだが、見失うことはなかったさ──全く、どれほど食らったのやら」
古関の台詞を先取りし、ほくそ笑んでいた顔から一転。文の末尾を緩やかに落として、すっと目を細める。
溜息を吐いた古関が億劫そうに一睨みすると、ゾンビは後退し、心なしか口惜しそうにしながらその姿が暗闇に飲み込まれて消えていった。それを君月は横目にしつつ、
「最初は、『恵み』というのは人の肉の隠語かと思ったんだ。確かに、ここの人たちの中にはそう信じている者もいるんだろうけど。──ゾンビが狙うのが『恵み』を摂取した人間のみとなると、話は違ってくる」
ここに集った多くの人間にとっては、最初の推理はそのまま適用されるはずだ。直接会話した女性や、またウェブサイトのこともある。
一方、まず引っかかったのは、「あの肉に見覚えがない」と言った景だ。加えて先ほど彼と通話したことが、更なる確信へと繋がった。
伝えられたのは、依頼人──ユユが『恵み』を食べたこと。これ自体は君月も頭を抱えただけで、重要なのは彼女の感想の方だった。
──曰く「動物」。要するに獣臭だろう。それを信用し、人のものではないと仮定すると、残る可能性は──。
「ま、考えた結果分かんなかったんだけどね」と肩をすくめ、だからそれを配っていた張本人に聞くのだと君月は言外に語る。
「食した人間にのみゾンビを引き寄せる、あれは一体何の肉だい? 聞かせてくれよ、古関隆司」
「『恵み』は『恵み』以外の何物でもない。無駄な詮索はやめろ」
古関はようやっと口を開き、しかしその返答を聞き終わるより先に「ああ」と瞠目した君月が笑う。それは肉の正体に関するものではなく、古関のその態度に起因していた。
「君は他の
「──」
知らなければ、断言はできないはず。口を噤んだ古関の姿が、言い当てられたという何よりの返答だった。
悍ましい真相が、いよいよ朧げながら輪郭を表し始める感覚に君月は身震いし、その口角が持ち上がる。
奇しくもそれは同時刻、白髪の『神』が嗤った顔を思わせるもので。
「食人願望は元からか。それであのゾンビを……いや。ゾンビなんて言い方、彼らが哀れだね」
意気揚々と口を回転させ、「哀れ」と言うと眉を下げる。それはどちらに対するものなのか。
「彼らはれっきとした人間で──君の被害者だろ?」
袋に詰められ、ゴミ箱に捨てられていた不可食部。そこから這い出た、基本的には霊体のようなゾンビ。
不鮮明だった犯人像が、ここにきて実体を結ぶ。と、君月はふいに得心のいったように、
「なるほど、群がる彼らを見て
回る、回る。一切のブレーキが存在しないこの場所で、瞳孔の散大しきった瞳を興奮気味に揺らす君月は止まらない。
思考より先に口が動き、矢継ぎ早に頭の中身をそのまま舌に乗せ、一足飛びに結論へと達する。
「そして、この復活劇にも何らかのかたちで『恵み』が関わっている。何故なら彼らもまた、ここ『メリの惠』の信者であったからだ」
もしや永久に続くのかと思われたが、君月がようやく息をつき、そこで一旦、一区切り。
反応がなければ、話者冥利に尽きることができない。そういうスタンスだ。
「──僕の予想は合ってるかい? ねえ、教えてくれよ、司教様代理」
意地悪い笑みを湛え、確証がほしいと子どものようにねだる様。しかしその要求は聞き遂げられることなく、射殺すような視線を向けられるだけに留まる。
取りつく島もないと分かると、急に諦めたように彼は声の調子を落とし、「不思議なのは」と首を捻った。
「君が今もこうして立っていられることだ。彼らにとっては格好の復讐の機会だろうに、なぜ君は襲われない? どうして彼らは君の言うことを聞くんだ? そこまで信奉する『恵み』を、君が口にしていないわけがないというのに、何故」
「奴らでは私に敵わないからだ。──そして、問答はこれで最後だ」
重い口を開いた古関に、空気が張り詰める。変化した流れにおっと、と君月は眉を上げた。
「つれないの。聞きたいこと、まだ沢山あるのに」
「続きは土の下ででも聞くといい。耳は最後に調理してやろう」
「……さすが。B級ホラーの悪役にピッタリの脅し文句」
本性を隠さなくなった古関に辛口を叩きながら、じり、と君月は後ずさる。下がりながら、その視線が男の更に向こう、黒で塗りつぶされたような真っ暗な廊下の先へとずらされて、
「じゃ、最後に一つだけ。──この奥には、一体何がいるんだい?」
──言い終わるが早いか、固く握られた拳が君月の腹部をしたたかに打ち据えていた。
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