8 叶わなかった再会
──外から扉が無理に開け放たれ、ゾンビがなだれこんできたその瞬間に。
祭壇の前で立ち尽くす、一人の男だった。
◆
「──繋がった!
そう君月から連絡が掛かってきたのは、景が階段の崩落箇所より前にいた数人とともに、安全な二階の礼拝堂に逃げ延びたときだった。
その場に座り込み、ワンコールで取った景が息を弾ませつつ現状を報告する。
「事前の指示通り、二階に。それと、依頼人を見失いました。俺の不手際です。申しわ、」
「謝るな、時間の無駄! どこで見失った!?」
「それが──」
──壊れかけの階段を破壊し、諸共に落ちていった。
滅多にしない悔しさを口調に滲ませて、景がつい先ほど目にした光景を口にする。
怒られるか、探しに行けと怒鳴られるかと覚悟して──電話口から「はっ」と息が溢れるような音がして、「は?」と景は眉の皺を深くした。
「──ふははははは、正気じゃないね!! 根性あるなあ!」
「笑っている場合ですか!」
「そうだよなんなんだよもう!! 命大事にしろよ!!」
空気が爆発するような笑い声を響かせたかと思えば、急に声を荒げる。
情緒不安定も甚だしく、彼が今頃その口角を引き攣らせ、瞳孔をガン開きにしているであろうことは景の想像に難くない。
生憎その怒声の対象はここにはいないため、なんだか別ベクトルで叱られたような気がした景が目を細めるだけだったが。
「真面目な話、呼びかけてはみたかい?」
「はい、何故かゾンビが追ってくる様子はなかったので。ですが応答がなく。落ちた先は暗く、姿も見えませんでした」
「なら、一旦は放っておいて問題ない」
「正気ですか?」
「正気正気、喜んでくれていいよ。多分僕の近くにいるだろうから、こっちでどうにかする」
そう言いながら、ふいにノイズじみた、ガチャガチャといった雑音が混ざる。そこに、景は違和感を覚えた。
──妙に音質がクリアというか、異様に会話が通じるのだ。
景がいる場所が比較的静かというのは自明だが、君月の側からも悲鳴や唸り声といった、ゾンビパニック独自の音はあまりしていないように思える。
耳をすませば聞こえないこともないが、雑音が耳に入るくらいなのだから極々小さい。
「……君月さん。今、どちらに?」
「──僕はやることがある。至急、
声を潜めた景の問いかけに答えるように、電話口の向こうからギィ、と何かが押し開かれる音がした。
◆
ユユちゃん、とそう呼ばれるのが嬉しかった。
中学生になり、一部は高校生になり。成長していくにつれ周りの子は『ちゃん』付けなんかやめて、可愛げのない名前の呼び捨てに変わり、いつしか苗字で呼び合うようになる中。
会った時からずっと変わらないその呼び方は、周りから見れば子供じみていて笑えるかもしれない。
だがそれが何よりの証明──証明をし続けてくれていることの、証明──のように思えて、ユユはひどく喜ばしかったのだ。
追いつけずに立ち止まってばかりのユユの手を引いてくれる、言葉を合わせて目線を合わせて、ユユの名前を呼んでくれる。
唯一無二の、私の友達。
──そう、ユユはいつも追いつけない。
ユユは心の中で述懐する。こう見えて意外と慎重派で、人を信用することも苦手で、頑張って考えているうちにどんどん追い抜かされるのが常だった。置いていかれるのは、寂しかった。
だから今回ももう、全て遅いのかもしれない。
彼女が突然消えたあの時から、探して探して、危険な目にも遭って、ちょっと泣きそうになりながら、ようやくここに辿り着けた。
そして──、
「──かなちゃんじゃ、ない」
やっと追いついた目の前の存在を、ユユは否定する。
「ひどいよ、ユユちゃん」
灰色がかった髪がふわりと揺れる。
薄い膜を張るような微笑は、眠たげな目つきと相まって見る者を心穏やかにさせる安寧さを湛えていた。
狭い部屋の中、褪せた色をしたベッドに腰掛け、最小限の明かりに照らされる少女がこくりと首を傾げる。
小柄な体格の少女だった。ユユよりも更に。髪は柔らかな髪質で、跳ね放題とまではいかないがくるくると所々丸まっていて、見た目に頓着しない
ユユの記憶にある中の彼女──『
無意識のうちに溢れ出す安堵感に、ユユは立ち止まりそうになる心を叱咤する。唇を噛み締め、その存在と対峙する覚悟をもう一度。
「……そっか。じゃあ、かなちゃん」
「うん」
「なんで、ここにいるの?」
少女は答えない。無言のまま、双眸に嵌め込まれたガラス玉は濁ったまま。
その沈黙を返答と受け取ったユユの顔が、一瞬泣き笑いのようなかたちに歪む。ぎゅっと力を入れて無理くりそれを押し込むと、ユユは追って語り出した。
「
「──」
ぽつぽつと溢される、懐かしむような響きの思い出話。灰髪の少女は不審げに、未だ首を傾けている。
「前髪終わってて、着けようと思ってたリボンもどっかいってて、とりあえず三十分遅れるってメールした」
「結局見つかんなかったの。まだ探せてない」とユユは苦笑を交えた。
着地点の不明な話に、少女の穏やかな表情に混ざる一抹の訝しげな色が、その濃さを増す。
「すっごい焦ってユユ、結構頑張ったんだよ。──着いたのは、元々会おうって言ってた予定の二十分後」
語られたのは思い出ではなく、証拠。
目を鋭くしたユユの、これは追求なのだと──理解した少女の変貌は目覚ましかった。
「──。──ああ」
純朴そうな顔から一変、にい、と裂けるほどに口の端が持ち上がる。
「見てたのか、オマエ」
悪辣さに顔が醜く歪み、少女のかたちをした
その姿に、二週間前からずっと考え続けてようやく成された答え合わせに、ユユは瞑目した。
──あの日、遅刻に変わりはないとはいえ、予告した時刻の十分前に着くことのできたユユは可愛らしく鼻高々だった。
驚かそうと何も言わずに待ち合わせ場所に近づいたが、待てど暮らせど彼女は見つからない。しょうがないので、立場が逆転したような感覚を覚えながらもユユは彼女を探しに行き──そして、あの景色を見ることになった。
人気のない場所で、道端を歩く鳥を口に含んだ少女が、それを噛み砕いて咀嚼する。何匹も、何回も。
声も出せずに、ユユはそれを──およそ五分もの間、繰り返される『食事』を見続けた。
ユユの告げた時間になると、口を拭い、何事もなかったかのように待ち合わせ場所に戻っていった彼女。
彼女が視界から消えた瞬間にユユが感じた耐えがたい安堵を、誰が否定できると言うのだろう。
異様な行動を取る友人を目にし、ユユが覚えたのはただただ恐怖だった。
それから三十分と少し遅れてきたフリをして、「待たせてごめん」と心臓をバクバクさせながら
いつも通りに笑いながら「待たされた」と返されたから、ユユはもう、何も言えなかった。
何をしていたのかと問い詰めることもできず、あれは白昼夢か何かだったのかとユユが自分を疑う方にシフトし始めた頃──
「……GPS。オンにしてくれるとは思わなかった」
「なるほどな。あんときから疑ってたと」
それが、位置情報共有アプリを入れさせることだった。
寂しがりの仮面をつけて、見事アプリの導入を了承させることに成功。あのときのユユの演技には我ながら惚れ惚れした。
──唯一の手掛かりとなったその情報を辿り、ユユは記念すべきゾンビとの初遭遇を果たしたわけだが。
「ここで、何してたの」
目を開け、一歩、部屋の中に踏み入る。
最初から誘拐などではないことは分かっていた。異常なのは他でもない、彼女だから。全てを伝えるには自分も周りも信用しきれなくて、相談所の彼らには黙っていたが。
その行方不明になっていた間、なぜ怪しい肉を配る集団の、教会の地下なんかで過ごしていたのか。
「なんで、あんなことしてたの」
血液を滴らせて鳥を貪り食らう、友達云々どころではなく、人間とも思えない所業。
「──誰なの、あなた」
その正体を、ユユは声を震わせて問いただす。
距離は既に後には引けないほど近づいていて、ベッドの傍に置かれた薄明かりに、二人の顔が同時に照らし出された。
「一つ目。オレ
その間合いに臆することもなく、ユユを見上げる
「三つ目」
忽然と
立ってもなお縮まらない身長差ゆえに、ユユをやや下から不気味に睨め付ける
その頭髪があの日見た、白炭のような灰寄りの白に染め上がった。
そして、吊り上がった口がぱっくりと笑みの形に割れる。──その内側の闇に、不意にユユは小さい頃に作った『パクパクカエル』を空目した。使ったのは確か、余り物の白い折り紙。
それほどまでに、
立ち竦む少女を嘲笑うかのごとく、始終眠たげだった目つきをたわませて、
「──オレはオマエらの言う、『神』だ」と。
◆
『神』と。友人の姿をしたモノがそう名乗ったこと。
それが冗談でも妄想でもないことは、ユユが一番よく分かっていた。
小柄な少女の放つ鬼気と、異様なまでの威圧感──けれど生憎、畏れを抱くような段階は既に超えている。一息吐くと、ユユは更なる追求の構え。
「ユユのことゾンビに襲わせたのも。成り代わるのに邪魔だったから──?」
「──。そいつァ知らねえが。……そうか、生き返ったか」
ぽつりと囁かれた最後の方は聞こえなかった。
変わらずゆったりとした、嘘か本当かを悟らせないその喋り方。対照的なのはユユで、見るからに落ち着きをなくしていき、
「あなたは、かなちゃんじゃなくて、」
「あァ。言ったろ?」
「じゃあ本物は? ──いつから、かなちゃんのフリしてたの?」
そう聞かれた途端、薄ら笑いを含んでいた『神』は表情を消した。不気味なほど色を失ったその顔に、ユユは今更ながら後悔を覚える。耳を塞ぐことは、できない。
──言わないでと、胸中で懇願するユユの思いなど届くわけもなく、それからたっぷりと時間が空いて、
「
──しんだ。
告げられた真相に、ユユは体から力が抜けるような感覚がした。だというのに、全身に硬直が張り付いていて動けない。
濁ったガラス玉のような瞳がユユを覗き込んでいる。
「──オマエは遅すぎたんだ」
──死んだ。
そう言うと、『神』は茫然自失するユユから興味を失ったように視線を外した。傍を通り過ぎ、ユユの背後で何やらガサガサと物音を立て始める。
やっとの思いで硬直を解いたユユが首を向けると、『神』はその場でしゃがみこんでいた。
「……何、して」
「外出んの久々だからなァ。屈伸」
「は──?」
ユユの脳はとっくに限界を過ぎており、更に投下された目の前の無理解にただ口をあんぐりとさせることしかできない。
『神』はその言葉通り、ぎこちない動きでしゃがみと伸びを何度か繰り返すと、ふらりと扉の方へ歩いていく。
「……あっ」
何をする気か悟ったユユが手を伸ばすも、既にその背は遠く、
「パンケーキ。美味かったのは本当だぜ。オマエには用はねェし、ここにいりゃ多分安全だ。──じゃあな、ユユ」
「まっ──」
駆け出した寸前で扉が閉められ、ガチャリと鍵の掛かる音がする。
ユユを置いて、放たれた『神』が去っていく。
「まって、」と縋るように囁かれた言葉が、答える者のいなくなった空間にこだました。
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