人殺しの彼女

春山架輝

人殺しの彼女

夕又月せきまた つき

ボクが彼女と関わるきっかけになったのは、一か月前の今日。

六限目後のSHRを終えて、校舎の二階にある図書室で『殺人鬼Kの告白』というミステリ小説を読んでいた時のこと。


「ねえ」


背後から声を掛けられたので一度本を閉じて振り返ると、黒くて艶のある髪を腰丈まで伸ばした彼女がボクを見下ろしていた。


「なんですか?」


まだ彼女が同級生か上級生なのか分からなかった僕は敬語で応じた。


「その本」


そう言って、彼女はボクが声を掛けられるまで読んでいた本を指差した。


「私に、寄越してくれないかしら?」


「……。」


一体、何を言っているのだろう。

ボクが黙っているのを『ノー』と捉えたらしく、彼女は整った顔をムッとさせた。


「そう、嫌なのね。なら、あなたに二つ選択肢を与えるわ」


選択肢?

ますます意味が分からない。

彼女はすでに手に持っていた本をボクの目の前にかざして言葉を接いだ。


「一、 この本と交換する。二、二度目の拒否をして私を怒らせる」


その穏やかではない二択に、ボクは思わず『はっ?』と言ってしまった。


「ちなみにおすすめは一つ目よ。さあ、どうする?」


どうするって言われても……。

交換したくもないし、怒らせたくもない。しいて言えば、穏便に済ませたい。

そう思ったボクは、彼女に一つ提案を試みた。


「あ、あの……これあと百ページくらいで読み終わるんです。たぶん半日も要さないと思います。だから、あなたの学年とクラスを教えてもらえれば明日にでも直接渡しに行きますよ」


完璧な提案、だと思った。

なぜ、見ず知らずの人間にここまでしてやらねばならないのだという気持ちが湧くほどに。

幸い、この本は自分のものではなくこの図書室で借りたものなので貸すことに対しては何の抵抗もなかった。


「それはつまり明日まで待て、ということかしら」


「まあ、そうなりますね……」


彼女の眉が不機嫌にぴくりと動く。

ああ、ダメかもしれない。と、ボクは失敗を予感した。のだが、


「……いいわ。今回は特別に、あなたの提案を聞き入れましょう」


表情は不服気。

しかし言葉どおり彼女はボクの提案を聞き入れた様子でさっと背を向け、速足で図書室を後にした。

この時、ボクが受けた彼女の印象は『童話に登場する嫌な女王様』。

未だかつて、ここまで第一印象が悪かった人は居ない。


「あっ」


読書を再開しようと姿勢を戻したところで、ボクは結局彼女から学年やクラスを聞き出せていないことに気づいた。

席を立って急いで廊下に出てみたが、彼女の姿は見当たらなかった。

翌日の朝SHR前、何の手掛かりもないまま昨夜読了した本を手に彼女を探すことになったボク。

全校生徒の数は五百人以上。非常に困難を極める任務だ。

だがしかし、意外にもあっさり彼女を見つけることができた。

ボクが属する一年三組の三つ隣、一年六組の教室にて彼女の姿を発見。

彼女とボクは同級生だったのだ。

知らないクラスの生徒たちの視線を少し気にしつつ、教室内に足を踏み入れて真っ先に彼女の元に向かう。


「あの……」


窓際の列の後ろから二番目の席に腰掛けている彼女にボクは声を掛ける。

すると彼女はゆっくりと目線をボクに向けて、


「誰?」


そう言った。

本を貸す話をしたのはつい昨日の事。それなのにボクの顔を忘れてしまったの?

そう当惑したボクは、さぞ間の抜けた顔をしていたことだろう。

彼女はそんなボクから目線を外すと、真顔のままこう続けた。


「冗談よ。しっかり覚えているわ」


「えっ?」


「本、貰うわね」


情報を処理しきれず半ば呆けていたボクの手から本を奪い取ると、彼女はそのままその本を読み始めた。


「あ、もう行っていいわよ」


「……ああ」


お前にもう用はない。だから、さっさと立ち去れ。と、いうことだろう。

いろいろ言いたいことはあったものの、ボクは大人しく六組の教室を後にした。

その日の放課後。

いつものようにボクが図書室で今日借りたばかりの本を読んでいると、隣に誰かが腰掛ける気配を感じた。


「ねえ」


聞き覚えのある声と聞き覚えのあるフレーズ。

ボクは読書を中断して、そちらに目を向けた。やはり、彼女だった。


「あなた、名前は?」


「えっ……あ、朝ノ木巡あさのき じゅんだけど」


「そう。学年は?」


「二年……」


「クラスは?」


「三組」


なぜ、そんなことを聞くのだろう。

ボクは内心首を捻った。


「放課後はいつもこうしているのかしら?」


「ま、まあ……」


そう応えるボクに彼女は『ふうん』とだけ言って、鞄の中から取り出した本を読み始めた。

タイトルはもちろん、『殺人鬼Kの告白』。

一体、何なんだ?

一連の質問攻めにボクは疑問を感じながらも読書を再開しようと彼女から目線を外したところで、


「よろしく」


彼女が一言そう呟いた。

その日を皮切りに、彼女は毎日欠かさず放課後図書室に顔を出してはボクの隣に腰掛けて読書をするようになった。

最初は自分のテリトリーを侵害されているようで嫌だったが、気づけばそれに慣れ、むしろ彼女が隣に居ないと落ち着いて読書が出来なくなるくらいにまでなっていた。

一か月経った今では、ボクと彼女はお互いの好きな本について語るほどの仲になっている。

人生何が起こるか分からない、初めてこの言葉に共感できた気がした。


「ねえねえ」


ある日の放課後、彼女がいつものように図書室に入ってきてボクを見つけるなり隣に腰掛けてくると、とある本を自慢げに見せてきた。


「この本、知ってるかしら」


本のタイトルは、『紅町くれないちょうの怪人』。

知っていたし、読んだこともあったのでボクは素直にそう伝えた。


「……そう」


求めていた反応とは違ったらしく、彼女は拗ねたように口を尖らせた。

ほんの少し申し訳なく感じていると、図書室の前方の扉が開いて大声で会話を交わす二人の女子生徒が入ってきた。

あまり図書室に縁が無さそうな所謂ギャルっぽい二人組だ。

図書室ではお静かに。そう思いながらも口には出さず目で姿を追っていると、二人はふとこちらを見た。

ボクは反射的にさっと視線を外す。

気づかれたかな?

やがて二人はボクらの近くまでやってくる。だが『おい、何見てんだよ』などと話し掛けられることはなく、二人は背後を過ぎ去っていった。

危ない危ない。ホッと胸を撫で下ろすと同時にボクは彼女の方を窺った。

少し、気になったのだ。二人が背後を過ぎ去っていく際に小さく呟いていた、『人殺しが居る』という言葉が。

あきらかに、ボクと彼女のどちらかに向けられた言葉だった。

でも、ボクは人を殺してなんかいない。

とすると……。

ボクの目に映る彼女の横顔は、いつもと何も変わらないクールなものだった。

二人組が、とくに本を借りることもなく図書室を後にする。

今、図書室に居るのはボクと彼女だけ。司書さんは、隣の図書準備室の方に引っ込んでいる。


「あのさ」


ボクは聞くかどうか迷った挙句、意を決して聞いてみることにした。


「さっき、あの二人が言ってた……その、『人殺し』って……」


そこまで言うと、彼女が応えた。


「あれ、私のことよ」


「っ……」


彼女の返答に虚を突かれてボクは言葉に詰まる。


「私、クラスで人殺しと呼ばれているの」


どうして?

そんな疑問を軽々しく口にすることは出来ない。

しかし彼女はボクの考えなどお見通しとばかりに自らその理由を述べ始めた。


「もう、十年も前のこと。私の両親は強盗に殺されてしまったの」


「え、ころされ……」


以前、たしかに彼女は自分は両親を亡くしており今は祖父母の家に身を寄せていると言っていた。

その話を聞いたとき、ボクはあえて死因については触れなかった。触れてはいけないと思った。

でもまさか、他殺だったなんて……。

衝撃を受けるボクをよそに、彼女は話を続ける。


「強盗が入ったのは夜中、私たちが寝静まっている時。両親は物音か何かで目が覚め、一階に様子を見に行こうとした。それで運悪く刃物を持った犯人と遭遇してしまい殺されてしまった。私が目を覚ましたのは、その後……すべてが終わったタイミング。一階へ降りてみると、リビングのフローリングが両親の血で赤く染まっていて、近くに刃物が落ちていた」


彼女は今、その時の情景を思い浮かべながら話をしているのだろう。

正面にある図書室の窓、そのもっと奥の景色を見つめながら淀みのない声で言葉を紡ぐ。


「それから警察に通報して、駆けつけた警察官にいろいろと聞かれたわ。犯人の姿を見たかとか、家の中で何か無くなった物はないかとか……生憎と、私は犯人の姿を見ていない。両親が殺されている最中、私は馬鹿みたいに眠りこけていたんだから」


言いながら、彼女は自嘲気味に笑った。


「犯人は十年経った今も捕まっていない、捜査もとっくに打ち切られている。だからでしょうね。事件が起きた数週間後、学校に登校すると変な噂が流れていた……」


その先の展開が、ボクは読めてしまった。


「両親を殺したのは見ず知らずの強盗ではなく娘の私なんじゃないか、っていうね」


両親がどちらもまだ生きているボクには、両親を奪われる悲しみや苦しみを完全に理解することは出来ない。それでも、その出来事が彼女の心に一生埋めることのできない大きな溝を作ったのたしかだ。

しかしそれだけでは飽き足らず、神さまはまだ彼女に試練を与えた。


「気づけば、私は学校内で居場所を失った。それだけなら良かったわ。でも連中は、あの手この手で私を追い込もうとした」


遠くを見つめる彼女の瞳に鋭い光が宿る。


「もういっそのこと死んでしまおうかと思った日は一日二日じゃない。毎日のように思ったわ。どうせなら、私も強盗に殺されてしまいたかったとも思った」


それほどまで当時同じクラスだった生徒たちは彼女を精神的に追い込んだ。

これで当人たちにはいじめの自覚は無く、正義の名のもとに行っているにすぎないと思い込んでいるのだから質が悪い。


「でも、そう思う反面で絶対に死んでなるものかと思う自分もいた。だから、私は耐え続けることにした。小学校を卒業するまで。そして耐えた。けれど……」


終わらなかった。


「中学は同じ小学校の人間が居ない祖父母の家の近所にある学校に通ったからいじめられることはなかった。ただ人を避けていたせいで友達はできなかったけどね。そんなことは別によかった。問題は高校に上がってから」


彼女は一度瞑目するように深く瞬きをしてから、続ける。


「同じクラスに私の過去を知る人間が居たの」


ドクンッと、ボクの心臓が一度大きく跳ねる。


「ただ私を避ければいいだけなのに、わざわざその人はクラスメイトに吹聴して回ったの。クラス全体に広まるまであっという間だったわ。私が把握していないだけで、きっとクラス外にも噂は広まっているんでしょうね」


あなたは知らなかったみたいだけど、と彼女は目線を窓の外からボクに移した。

不思議と、その表情は穏やかだった。


「長ったらしく自分の過去について話してしまったけど、つまりはまだあの出来事が呪いのように私に纏わりついているってこと」


ここまでくると、本当に自分が両親を殺したんじゃないかと思えてくるわ。そう言って彼女は笑った。

ボクは笑えなかった。

すべては自分とは関係のない話。それなのに、他人事に思えなかったのだ。


「えっ……」


彼女のボクを見る目が大きく見開かれた。

何事かと、ボクは首を傾げる。

あれ……。

自分の頬に何かが伝う感覚。

ボクは指でそっと頬に触れてその正体を確かめた。

指先を濡らす、透明の水滴。

それは、ボクの瞳から溢れた涙だった。


「どうして、泣いてるの……?」


彼女に問われる。

けど、ボク自身も分からなかった。

彼女の辛い過去に同情して?それとも、悲劇の中でもしたたかに生きようとする彼女に感動して?


「分からない。どうしてだろう」


結局、ボクはありのまま応えた。

すると程なくして、彼女がぷっと吹き出した。


「あはははははっ。あなた、理由も分からず泣いているの?」


彼女はおかしそうに笑いながら言う。


「やっぱり、あなたって変わってるわね」


「そ、そうかな?」


「変わってるわよ。そもそも―――」


何やらボクが変わっていることについて語り始めた彼女に対して、ボクは心の底からあなただけには言われたくないと思った。

それからボクらは珍しく読書をすることなく、図書室を後にした。



ボクはもしかすると、彼女のことが羨ましかったのかもしれない。

帰り道、彼女は自分の過去についてこう語っていた。


「たしかに、あの時はとても辛かったわ。さっきも言ったけど、死にたくなるほどにね。でも、いい加減嫌気が差してくるの。不幸な目に遭うたび、いちいち辛く感じたり悲しんだりする、ナヨナヨした自分に。だから」


―――真っ向から不幸に挑むことにした。私は負けない、負けちゃいけない。そう自分に言い聞かせてね。


そうだ。ボクは彼女のことが羨ましかったんだ。


家族を失っても、前を向こうとする彼女のことが。


他人に虐げられても、強く生きようとする彼女のことが。


いつか、ボクも彼女のように……。



翌日、ふと彼女の様子が気になったボクは昼休みに一年六組に訪れた。

しかし、そこに彼女の姿はなかった。

他に彼女が居そうな場所と言えば、もうあそこしかないだろう。

ボクは階段を下りて、二階の図書室にやってきた。そしてそこに、彼女は居た。

図書室の中心に六つ置かれた、六人掛けの長机。

その一つに腰掛けて本を読んでいる彼女の隣に、ボクはそっと腰を下ろした。


「驚いた」


ボクに気づくと、彼女はそう言いながらぴくっと小さく肩を震わせた。


「隣に座るなら、せめて声を掛けてちょうだい」


ごもっともなので、ボクは素直に『ごめん』と謝る。


「それでなに?私に何か用?」


「とくに。ただ教室に居るのは退屈だったから」


嘘をついた。

本当の理由は、恥ずかしくて言えたものではない。


「前から薄々思っていたんだけど、あなた、もしかして友達いないの?」


「えっ?」


「放課後も一人でここへ本を読みに来ているし、今も退屈だからと教室を抜け出してここへ来たんでしょう?」


「まあ、そうだけど……」


ボクは何と応えていいのか、分からなかった。


「ま、いいけど。私も同じようなものだしね」


そう言うと、彼女はまた本に向かった。

そう言えばボクは本を持ってきていなかったので、一度席を立ち、まわりに並んだ書架を見て回った。そして適当な本を選んで席へ戻り、隣の彼女と同じように本の世界へと足を踏み入れる。

廊下の方から聞こえてきていた話し声と騒がしい足音が次第に消え、ただひたすらにページを捲るときの紙と紙が擦れる音がボクの鼓膜を小さく揺らした。

まるで、ボクのまわりの空間だけ世界から切り取られてしまったような、そんな錯覚に陥る。

それから気づくと二十分近く経過していて、朗々とした予鈴が図書室に鳴り響いた。

本の世界から現実に引き戻されたボクは隣を見ると、そこに先程まではあったはずの彼女の姿がなかった。


「あれ……」


周りを見渡すも、彼女は居ない。

もう教室に戻ってしまったのだろうか。


「せめて一言くらい声を掛けてくれれば……あっ」


もしかすると、これはボクが一言も声を掛けずに隣の席に腰掛けたことへの仕返しなのかもしれない。

だとしたら、何とも彼女らしい。

ボクはフッと笑みをこぼし、本をもとあった場所に戻してから教室に戻った。



今日、最後の授業。科目は数学。

勉強は嫌いじゃない。ただ授業は嫌いだった。

途中、頭に何かがあたったように感じたがなるべく気にしないよう努めて問題を解いた。

放課後。ボクはささっと支度を済ませて、教室を出る。

その際、背後からクラスメイトに声を掛けられたような気がしたが振り返らずに図書室へ直行した。

相変わらず、この時間帯の図書室の利用者は少ない。

カウンターの前で女子生徒と司書さんが会話している様子を横目に挟みながら、ボクは部屋の中心へと向かう。そして六つある長机のどれかに彼女が居ないか、視線を彷徨わせていると、


「誰か、探しているの?」


と、誰かに耳元で囁かれた。

ボクは驚きのあまり首が取れそうな勢いで振り返る。


「フフッ、そんなに驚かなくても」


クスクスと愉快そうに笑いながら彼女、夕又月は言う。


「いきなり耳元で囁かれたら誰だって驚くよ」


ボクの返答に彼女は悪戯っぽい笑みで応えると、目の前の席に着いた。

早鐘を打つ心臓を落ち着かせるために胸を手で抑えながらボクもその隣に腰掛ける。


「あ、そうだ」


ふいに、彼女が何かを思い出したように鞄の中を漁り始めた。

そうして取り出されたのは、一冊の文庫本。


「これ、貸すわ」


「えっ?」


一体、どういう風の吹き回しか。

彼女はボクにその文庫本を手渡してくる。


「ど、どうしたの?」


「家から持ってきたの」


「そうじゃなくて……どうして、それをボクに貸すの?」


「あなたにも読んでほしいからよ。これ、私のイチオシなの」


理由を聞いても納得できず、ボクは呆然とする。

彼女は今までお勧めしてくるようなことはあっても、その本をボクに貸すようなことは一度も無かった。

だから良くないと思いつつも、変に勘繰ってしまう。


「なに?もしかして、要らないなんて言うんじゃないでしょうね?」


「い、いや……」


「言ったら、あなたが想像つかないような方法で苦しめて差し上げるわよ」


物騒な発言は知り合って一か月経った今もご健在の様子。

それに臆したわけではないが、少しの逡巡のあとボクは素直に本を受け取ることにした。


「ありがとう」


「どう致しまして」


受け取った文庫本を鞄の中にしまい、代わりに今読み進めている本を取り出す。

先にこちらを読み終えてから彼女の文庫本を読むことにした。

早く彼女の本を読みたいという気持ちからか、心なしか読むペースが上がる。

最初は変に疑って本を借りることに躊躇いを感じていたくせに、いざ受け取ると猜疑心は霧散し喜びを感じてしまうのだからボクは単純だ。


それから約一時間後、彼女にそろそろ帰らない?と言われて図書室を出ると廊下の窓の外から見える街並みは見事にオレンジ一色だった。

今日はもう役目を終えた太陽が、地平線の向こう側へ帰ろうとしている。

一階の昇降口に到着し、ボクは一年三組の彼女は一年六組の下駄箱へと向かった。

ボクの靴が置かれているのは、上から四段目の右から二列目。


「……。」


しかし、そこにボクの靴は無かった。



教室に忘れ物をしたからと嘘をついて彼女を先に帰らせた。


靴は見つかった。


校舎に併設した、夏の時期に体育で使用するプール。そこの緑色に変色した水の上に、ボクの靴は浮いていた。

どう頑張っても取れそうにないのでボクは早々に諦めて、その日は上履きで家に帰ることにした。

途中出くわした近所の人に心配そうな顔で見られたが、べつに平気だ。

それに彼女もきっと、自分の靴をプールに捨てられたくらいじゃ悲しんだりしない。

平気だ。



翌日、昨夜のうちにもともと読み進めていた本を読み終えたボクは、彼女から借りた本を鞄に入れて登校した。

学校に到着すると、下駄箱のところで『おはよう』と背後から声を掛けられた。

一瞬で声の主が彼女であることが分かったボクは、飼い主に呼ばれた子犬のように嬉しさを隠さず振り返る。


「なんだか、嬉しそうね?」


「そんなことないよ」


嘘。


「あ、借りた本読むから」


「もう前の本は読み終えたの?」


「うん」


「そう。読むペースが速いのね。なら、私の本も明日には返ってくるのかしら」


「えっ、ああ……」


答えかねているボクに彼女は『冗談よ』と薄く笑って、階段の方へと歩いて行った。

人を困らせて楽しむのは正直趣味が良いとは言えないが、ボクは彼女のそんなところも嫌いじゃない。むしろ……。

しばらくボーっとその場に突っ立っていたボクは遅れて彼女の後を追いかけた。

もう今のボクには、彼女しか見えていない。

教室のある四階にたどり着いたところで彼女と別れてからも、ずっと彼女のことを考えていた。

朝の読書時間中も、そのあとのSHR中も、授業中でも、ずっと、ずっとずっと、彼女のことを考えていた。

そのせいで、午前の授業の内容はほぼ頭に入っていない。

そして訪れた、昼休み。

ボクは昼食を取らず一目散に彼女の教室に向かった。

廊下から、中の様子を窺う。けれど、彼女の姿は無かった。

もしかしたら、もう図書室に居るのかもしれない。

そう思ったボクは半ば転がるように階段を駆け下り、息を荒げながら図書室の扉を開いた。

どこだ?

パッと見たところ、長机には居ない。

奥へと進み、いくつも置かれた書架の間も探してみる。

居ない。

焦燥感に駆られながら図書室内を二、三周してみたがやはり居ない。

大丈夫、大丈夫。

来ていないのなら、待てばいいだけの話。

しかし、いくら待っても彼女は図書室に姿を現さなかった。

ボクはまるで肩透かしを食らったような気分になったが、放課後には絶対に来てくれるはずだと大人しく教室に戻った。

分かりやすく肩を落として教室内に入ると、何処からともなくクスクスと笑い声が聞こえてきた。

ボクは気にせず、窓際から二列目の後ろから三番目の席に腰掛ける。

五時間目の授業は現代文。ノートは鞄の中だが、教科書は机の中にある。


「……ぇ」


机の中に手を入れたボクは、その中にあるはずの物が無くなっていることに気づいた。

教科書でも筆箱でもないそれをボクは必死になって探した。

ない。ないないない。

朝の読書時間が終わったあと、たしかにボクは机の中に入れたはずだった。

でも、ないのだ。

試しに鞄の中を探してみるが、一瞬の希望は打ち砕かれる。


クスクス……。


また、何処からか笑い声が聞こえてくる。


うるさい。


また机の中を探してみる。


無い。


クスクスクスクス……。


笑い声が聞こえる。


うるさい、うるさい。


付近に落ちていないか確認する。


無い。


クスクス、クスクスクスクス……。


笑い声。


うるさい。うるさいうるさいうるさいうるさい。


ボクは苛立ちから、頭を掻きむしった。


そしてパッと顔を上げた。


ボクの周りの席に座る生徒何人かと目が合う。


悪意、侮蔑、嘲笑。


ボクは気づいた。


いや、ほんとはもっと前から気づいていた。


ふいに、ボクの足元に何かが放られる。


「……あ」


それこそ、ボクが探していたものだった。


正確には、ボクが探していたもの『だった』もの。


その表面は刃物による無数の傷がついていた。


ボクは無残な姿になったそれを拾い上げる。


その瞬間、それは己の重さに耐えきれずビリッと音を立てて崩れた。


「あぁ……」


ボクの口から、情けのない声が漏れる。


ダメだ。


授業中に後頭部目掛けてゴミを投げられてもいい、休み時間に甚振られてもいい、靴をプールに捨てられてもいい。


でも、これは……これは、ダメだ。


我慢の限界。


ボクは頬を涙で濡らし、そっと椅子の背もたれを掴んだ。



その日、私は学校を早退していた。だから事件の一部始終を見ていないし、クラスメイトの会話から漏れ聞こえてきた断片的な情報しか知らない。


朝ノ木巡が、クラスメイトを四人撲殺した。


最初に聞いたとき、不思議と驚きはなかった。

いつかはこうなると予期していたからではない。

むしろ私はこの事件でがクラスメイトからいじめを受けていたことを知ったのだ。


私と同じで何よりも本が好きで、気が弱そうなのに意外と何事にも物怖じしないタイプで、子犬のような人懐っこい一面もある彼女。

人との付き合い方を忘れてしまったからというのが言い訳にならないほど自己中心的で嫌味な私と仲良くしてくれた、人生で初めての友達と呼べる存在。

自分が言えたことではないが少し変わっているところを挙げるとすれば、


『やっぱり、あなたって変わってるわね』


『そ、そうかな?』


『変わってるわよ。そもそも―――』



女子なのに、一人称が『ボク』の人なんて今まで出会ったことないわ。



きっと、まだ現実味が湧いていないのだと思う。

彼女が、巡が、クラスメイトを撲殺した。

相手が冷たくなるまで何度も何度も椅子を振り下ろし続けた。

私は、一人の女子生徒によって一年三組の教室が阿鼻叫喚の嵐に包まれる場面を想像する。

嘘よ。

信じられない。

あの子は、そんなことしない。

でも実際、事件は起きた。

ねえ。

どうして?

次会った時には、そう問いかけたい。

でもきっと、そんな機会は訪れない。

未成年とはいえ、彼女は人を四人も殺してしまった。

死刑や無期懲役は無いにしても、しばらく外の世界に出てくることは出来ないだろう。



事件から一か月後、一年六組の生徒たちによる私へのいじめはなくなった。

クラスの人間たちは恐れたのだ。

あの惨劇が、自分たちの元にも降りかかることを。


巡が救ってくれた。


私は唯一の友人に、心の中で礼を述べた。

そして、ふと思い出す。

彼女に貸した、文庫本の存在を。

あの日、教室にあった彼女の所持品は警察が持ち去ってしまった。

その中に私の本も紛れていたのだろうか。

べつに今更返してほしいなんて思っていない。それよりも、彼女が少しでも読んでくれたのかどうかの方が気になった。


『ありがとう』


あの時、文庫本を受け取った彼女の表情を思い返しながら私は『殺人鬼Kの告白』を自分の部屋の本棚から抜き取った。

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