第6話 私の恋

 今の私の居場所は、美術部でも学校でもなく、叔母の経営している喫茶店だ。

 レトロな雰囲気と、耳に優しいジャズが流れる場所。

 時々、蓄音機が欲しくなるような、そんなお店だ。


 喫茶店は不思議な場所だと思う。


 ふらりと立ち寄った一見さん。

 いつも同じ時間にくる常連さん。

 馴染みの店が休みの日にだけ現れる人もいれば、明らかに旅行者だとわかる人もいる。


 どこからか流れついた人たちを迎え入れて、ありがとうございましたと送りだす。

 振り返ることもなく去っていくたくさんの背中に、見送るだけの私の胸はチクリと痛む。

 この人たちはあてもなく流れているようで、たどり着く場所が歩いた先にちゃんと待っているのだ。


 会社であったり、自宅であったり。

 そこには待っている人がいて、日常生活もあって。

 人の数だけある、なにげない暮らし。


 せめて、訪れた人が気持ち良く歩けるように送り出そう。

 そんな気持ちでコーヒーを入れる。


 ラテのクマを描くことにも慣れた。

 絵筆を使うよりも、ミルクで描くクマは難しいけれど、コツはつかんだ。


 少しずつ、少しずつ、私は前に進んでいく。

 先輩との思い出も、薄らいでいくかもしれない。


 私がたどりつく場所はどこだろう?


 その行き場のない感じは、吾妻先輩といた時の「どうして?」の感覚に似ているから、好きが消えないのかもしれない。


 なんて感傷にひたりながら、閉店準備をすすめていく。

 叔母が病院に行ったから、今日は早めに店じまいをするのだ。

 だいぶ慣れてきたとはいえ、私一人でお店を切り盛りすることはまだ無理だ。


 それが悔しくて、いつかきっとって夢が膨らんで。


 クローズの札を出して店の中に入って床の掃除をしていたら、チリンと扉のベルが鳴った。

 閉店の看板を出していても常連さんが入ってくることがあるので、またかと思いながら顔をあげたけれど、そのまま驚きで動けなくなってしまう。


 初めて来店するお客さんだった。

 だけど、その顔には見覚えがあった。


 綺麗な顔立ちも、少し癖のある長めの髪も記憶のままで。

 のばされた背筋やしっかりした肩幅は、記憶の中よりもしっかりとしていた。

 すっかり大人の骨格になっていたけれど、その人を目の前にすると気持ちのタガがはじけそうなほど膨らんでいく。

 いろんな気持ちが一気に押し寄せてどうしていいかわからないけれど、何よりも懐かしさが先に立つ。


「……吾妻先輩……」


 ようやく、その名前を越えに出せた。

 わき上がる涙でにじむ視界に、強くまばたきをして、目をこする。

 動きたいけど、足が動かない。

 何度も夢に見たように、先輩に近寄ってしまえば、あっという間に消えてしまう幻になってしまいそうだ。

 だけど先輩は懐かしい表情で、ふわりとやわらかく笑う。


「綾ちゃん、好きだよ」


 不意打ちに、鼓動が跳ねた。

 ただいまも、久しぶりもなく、いきなりこの人は何を言い出すんだろう?

 だけどそれはとても先輩らしくて、本物だとわかってしまった。


 喜んでいいのか怒ればいいのかわからなくて、気持ちがグチャグチャになる。

 混乱しすぎた私は、あふれてくる涙を止められない。

 やっぱり別れた日と同じように、どうして? が頭の中を駆け巡る。


「就職、こっちで決めたから。この店のことは、元美術部の連中に聞いた」


 そんなふうに言いながら私の気持ちなんてお構いなしに、先輩は当たり前の調子で私の前に立つ。


「泣かないで」と先輩の指先が私の頬に触れた。

 サラリとして骨っぽい先輩の指先は、記憶の中と変わらない。

 涙をぬぐってくれる優しい感覚が嬉しくて、そっと頬を寄せる。


「もう、どこにもいかないから。綾ちゃん、ずっと側にいて」


 今まで連絡一つしてこなかったくせに、本当に勝手なことばかり言う人だ。

 もうとっくに終わったことよって声に出すつもりが、先輩の顔を見たらだめだった。

 だって、何度も夢に見るほど好きな人だから、私の気持ちの行き先はとっくに決まっている。


 だから気持ちのままに、うんって、頷くだけでいいはずなのだ。

 それなのに、声にならない。

 涙ぐらい簡単に、声を出したいのに何も言えない。

 人見知りだった綾ちゃんがすごいねって言ってもらいたくて、毎日頑張っていたのに、全部が嗚咽になる。


 仕事では話せるようになっても、私自身は何も変わってないってことなんだろう。

 先輩を前にすると、言葉がやっぱり出てこない。

 本当は笑顔で迎えたかったんだけどな。


「綾ちゃん、好きだよ。僕と付き合って」


 私の気持ちなんて、ちっとも考えていないよね、なんて意地悪な返しをしたいぐらい突然の再会なのに、ちっとも変っていないやわらかで優しい声だった。

 告白されただけで胸が震えるぐらい、今でも先輩のことが好きだって、思い知らされる。

 涙が止まらない。


 私の返事を待たずに、先輩は身をかがめてくる。

 いきなり、なにをするの? なんて突き放せるわけもなく。

 私は目を閉じた。


 唇と唇が触れあった。


 やわらかで、あたたかい唇。

 もどかしくて、もっと触れあいたくて。

 言葉にしなくても、好きがあふれてしまう。


 互いの熱を求めて押し付けるでもなく、想いを重ね合わせるようにお互いを確かめた。

 深さはまるでないけれど、Yesしか認めないと告げるような熱を持っていたから。


 今の先輩を知りたいと思う。

 今の私も知ってほしいと思う。

 迷子にならないように、今度はちゃんと気持ちを伝えあって、ゆっくりと前に進んで行けたらいいと思う。


 私のたどりつく場所が、吾妻先輩の隣だったらとても嬉しいから。

 同じぐらいあふれそうな、私の好きも伝わるといいのにと願った。


 二度目のキス。

 それは別れたあの日よりもずっと、やわらかで長いキスだった。



【 おわり 】

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やわらかで長いキス 真朱マロ @masyu-maro

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