言の葉の約束

凪村師文 

約束

 蝉が庭の木にしがみついている、とある夏の日の夕方。


「涼介。おじいちゃんと一つ約束をしよう」


 家の縁側に座ってスイカを食べていた僕に、隣に座っていたおじいちゃんはいきなりそう言った。


「約束?」

「ああ、大事な約束だ」


 小学三年生ということもあり、まだまだお子様の頭脳しか持ち合わせていなかった僕には、当時おじいちゃんが何故そんなことを言いだしたのか理解できなかった。


「いいか涼介。この先、涼介にとって辛いことや大変な事がいっぱい起こるかもしれない。でもな、絶対に人を傷つけたり、嘘をついたりしちゃ駄目だぞ」

「……涼介はいい子だから、そんなことしないよ」

「ああ、それはおじいちゃんが一番よく知っているよ。でもな涼介、何気なく発したたった一言で人を傷つけちゃうこともあるんだ」

「……そうなの?」


 この時のおじいちゃんの顔は、いつものような優し気な顔ではなくて、怒っているような、それでいて少し悲しいような顔をしていたのを覚えている。


「そうだよ……。だから涼介、そういうことにならないように日頃から気をつけるんだ。お父さんとお母さんの話をよく聞いて、やさしい子になりなさい」

「……わかった。でも、なんで日頃から気をつけなきゃいけないの?」

「それはだな……涼介は野球の試合にでるのが好きだろう?」

「うん、大好き!」

「じゃあ、試合がない時、涼介はコーチと何をしている?」

「えーと、練習……かな」

「うん、そうだね。さっき私が言ったことは、それと一緒なんだ。少し難しいかもしれないけれど、人というのは、本番にいきなり良いプレイをすることはできないんだ。だから、日頃から練習を重ねる。さっき私が言ったことにそれを置き換えるならば、普段嘘をつく人が、大事な時に嘘をつかないようにするのはできないということだ。普段から気を付けていないと、思わずぽろっと出てしまうことがある」

「うーん、よくわかんない」

「ははは。そうかい。……でも、絶対に嘘をついたり人を傷つけないように気をつけるということだけは、涼介のその賢い頭に入れておいてくれ」

「……わかった、約束!」


 そうして、僕はおじいちゃんと指切りを交わした。


 それからしばらくして、いきなりお父さんとお母さんに連れられておじいちゃんの家に遊びに行ったとき、おじいちゃんは家のどこにもいなくなっていた。





 そんな昔のことを思い出しながら、僕は、明日から解体作業が始まるこのおじいちゃんがいた家の庭を眺めていた。

 大人になって、おじいちゃんがあの時何故いきなりあんな遺言じみたことを言ったのか、少しだけわかったような気がした。

 そして今、遠くにいるおじいちゃんに胸を張って言い切れることが一つある。


「じいちゃん、少なくとも俺、今まで一回も嘘をついたこと、無いよ」

「あんまりいい学校に行けなかったし、今働いている会社も待遇はあまり良くないし、振り返ってみれば、あんまり褒められるような人にはなれなかったけど、そんな僕でも一つ、たった一つ、「今まで嘘をついたことは無い」ってこと、この先もどんなに貧しい大人になったとしても絶対に嘘はつかないってことだけは胸を張っておじいちゃんに自慢できるし、約束できる」


 あの時、幼かった僕がおじいちゃんと交わした約束は、朧気ながら、でもどこか堅く、今も僕の心の中で残り続けている。


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言の葉の約束 凪村師文  @Naotaro_1024

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