あの日の冬凪と、幸せな冬凪

汐海有真(白木犀)

あの日の冬凪と、幸せな冬凪

 冬凪ふゆなは死のうとしたことがある。


 何もかもが上手くいかなかった頃、駅のホームで風に吹かれながら立ち尽くしていて、目の前の線路を電車が通過するというアナウンスが響いたときにふと、身を投げたいと強く思ったのだ。

 その選択は冬凪にとって途方もなく甘美だった。血と臓物を撒き散らせば人間は死ぬ。死ねば全ての苦しみから解放される。ふ、ふふ、と微かな笑い声が冬凪の口から無意識のうちに零れ落ちていった。冬凪は少しずつ、少しずつ線路へと近付いていった。


 そのとき、冬凪は前を見なくてはならないと感じた。どうしてかはわからないけれど、そう強く命令されたような心地がしたのだ。だから、冬凪は前を向いた。

 視界に映ったのは、向かい側のホームに到着している電車。そして、窓に薄く反射している小さな冬凪の姿だった。


 


 冬凪は今動いていないはずなのに、窓の中の冬凪は動いていた。透明な壁を叩くようにしながら、必死に何かを叫んでいるようだった。恐ろしいと感じることもなく、疑問を抱くこともなく、止まっている冬凪はただもうひとりの冬凪を見つめていた。

 そうしていたら、冬凪の心にすとんと、言葉が落ちてきた。



 ――――生きて!



 ごう、と風の音が鳴る。気付けば冬凪の目の前を電車が通り過ぎていって、彼女の長い前髪は強く揺れた。その電車がいなくなる頃には、向かい側の電車は動き出そうとしていた。

 遠くの窓に映っているのは、もうただの冬凪だった。



 *・*・



 冬凪は部屋の中から、夜空に昇る月を見ていた。


 冬凪は、今日――もう午前零時を回っているので、正確に言えば昨日――最愛の恋人からプロポーズされた。そういうことはもっと先の話かと勝手に思っていたので、冬凪はとても驚いてしまって、だからか恋人からはもしかして嬉しくない? と笑われてしまった。違う、そんな訳ないじゃない、嬉しいに決まってるじゃない……そう言いながら、気付けば冬凪も笑っていた。


 月は白くて綺麗だった。眺めていると、恋人との思い出や、恋人と出会う前のこと、そういう様々なことがふわりふわりと心に浮かんできた。

 そうして、かつて死のうとした日のことを、思い出したときだった。

 目の前の窓に、冬凪が映っていた。


 ――それは、あの日の、冬凪だった。


 駅のホームで、口元を歪めながらゆっくりとこちらに近付いてくる。ふたりの冬凪の間には線路があった。後少しすれば、向こう側の冬凪はそこへごろりと落ちていくだろう。

 こちら側の冬凪は、小さな悲鳴をあげた。

 それから窓をどん、どんと強く叩く。


「だめっ……だめ、待って、こっちを見て、お願い! お願いだから!」


 窓の向こうの世界で、冬凪が顔を上げた。

 ふたりの冬凪の目が合った。

 冬凪は叫んだ。


「わかるよ、辛いよね、辛かったよね……! わたしは、あなただから! 全部、わかるの! でも、信じて……いつか、幸せになれるから! 本当だよ、本当だから、」



 ――――生きて!



 その言葉を最後に、窓の向こうの冬凪は霞んで、消えていった。

 後に残るのは、美しい夜の情景だけ。

 冬凪の頬に一筋、涙が伝った。


「…………生きる、」


 そんな言葉が、冬凪の口から零れ落ちる。

 枕元に置いていた携帯の画面が光った。冬凪はそれをそっと手に取る。恋人がおやすみなさいと伝えてくれたから、冬凪もおやすみなさいと伝える。


 あの冬凪も、このひとに出会えますようにと、そう思いながら冬凪はまた少しだけ泣いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

あの日の冬凪と、幸せな冬凪 汐海有真(白木犀) @tea_olive

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ