第13話 揺れる女

 本田は静かに頷いた。

 コーヒーを配り終えた澄子が裕子の隣に座る。


「三谷さんも聞いておいてください。あなただけでも裕子さんという存在が確かにいたのだと覚えていてあげてくださいね。でもこの屋敷を一歩出たら、それらは記憶の奥底に沈めると約束してください」


「勿論です。お約束します」


「では続けますね。私は裕子さんに催眠療法を施します。これにはふた月くらいの時間が必要です。よくテレビで見るような催眠術とは違い、パンと手を打てばかかるようなものではありません。潜在意識に働きかけるので、じっくりとゆっくりとやっていく必要があるからです。その間は、ここに住んでもらいます。まあご覧の通り部屋数だけは旅館並みにありますからね」


 裕子は頷いた。


「私がもう大丈夫だと判断するまでは、屋敷から出ないでください。世話は先ほどの志乃さんがしてくれますし、必要なものはこちらですべて用意します。もちろん三谷さんと会うのも今日が最後です」


 裕子が慌てて澄子の顔を見る。 

 澄子は悲痛な表情を浮かべながらも、裕子を後押しするように力強く頷いて見せた。


「費用はどれくらい用意すれば良いですか?」


「費用? ああ治療費ですか? もちろん必要ありませんし、こちらから対価をお支払いします。支払うと言っても、あなたにお金を払うわけでは無く、あなたが全てを忘れて新しい人生を歩めるようになるまで全面的にバックアップするという意味です。その間にかかる経費は全てこちらで負担します」


「なんだか申し訳ないわ」


「いいえ、正当な取引ですよ。私はあなたからもらった記憶を元に、小説を書きますので収入に直結します。もちろん素性が知れるような書き方はしませんから、そこはご心配なく。私がそれを書く頃には、あなたはすっかり別人になっているので、もしそれを読まれても、単なる小説だとしか認識しないはずです」


「承知しました」


「それと、もうお聞きになっているかもしれませんが、あなたは今の名前も住所も学歴も全て失います。先ほども言いましたが、全くの別人になるからです。その別人の戸籍や履歴はこちらで用意します」


「わかりました」


「では合意したということで、こちらにサインをいただけますか?」


 本田が立ち上がって執務机の引き出しから1枚の紙を取り出した。

 

「同意書?」


「そうですよ。お読みいただけたら分かると思いますが、この同意書には『施術中に起きた不都合なこと』や『施術後に起こった不都合なこと』に関する事が書かれています。誤解の無いように申し上げますが、それらに対する私の責任を回避するものではありません。始めたからには何があってもこちらで責任をもって対処します。その代わりと言っては語弊があるかもしれませんが、あなたにも守ってもらいたいことなどを記載しています」


「あの……具体的にお聞きしても?」


 本田がゆっくりと頷いた。


「大きく言えば三つです。一つ目は、如何なる事由があろうとも、途中でやめることはできないということ。そして二つ目は、忘れたい記憶に存在する人物が接触してきたとしても、あなたの意志にかかわらず、こちらで対処するということです。ここまでは良いですか?」


「勿論です」


「では、最後の一つ。絶対に生きたいという強い意志を持ち続ける覚悟です」


「覚悟……」


「そうです。覚悟です。できますか?」


 裕子は漠然とした不安を感じたが、一度大きく息を吐いて頷いた。


「よろしくお願いします」


 裕子が立ち上がって深々と頭を下げた。


「施術は明日から始めましょう。今日は三谷さんとゆっくり過ごせばいい。私は今から出掛けますので、何かあれば志乃さんに言ってください。ここにいても良いですし、出掛けても構いませんが、リスクを考えるとここにいることをお勧めします」


 そう言うと本田はドアを開けて志乃を呼び、二人を頼むと言い残して出て行った。


「どうぞ、座敷に。今の季節は藤がきれいですよ」


 促されて客間に向かうと、カレンダーでよく見る古刹の庭のような景色が広がった。

 絶妙に配置されている石がどのような意味を持つのかは分からないが、懐かしいような泣きたいような気持ちになるのはなぜだろうと裕子は思った。


「すごいね。ザ・日本庭園って感じ」


「うん、修学旅行で行った京都で見たような庭だねぇ」


 二人の会話を微笑ましく聞いていた志乃が、口を開いた。


「このお屋敷はとても古くて、もう少しで150年くらいになるそうですよ。明治維新後の鹿鳴館ができた頃に建てられたものです。もちろんずっと手を入れ続けていますし、徒然さんの代になってからは、かなり本格的に耐震工事もしました。当時のままなのは見た目だけで、中身は近代建築と言っても過言ではないらしいですよ。ああ、でもお庭はあまり変わっていませんね。このお庭も含めて保存指定建造物にされそうなのを徒然さんが断固拒否しているのです」


 縁側に三人並んで座る。

 都会の中にいるとは思えないような空気が流れる。


「徒然さんはこの景色がお好きでしてね。この屋敷を残すために、随分ご苦労もなさったのです。まだ独身ですし、もっと便利なマンションにでも引っ越せばいいのにとは思いましたけれど、私もここが好きなので、残してくれて嬉しかったですけどね。ふふふ」


 ボーッと庭を眺めていると、甘酸っぱい香りが漂って来た。


「この香りは……」


「藤ですよ。とても良い香りでしょ?」


 志乃の言葉に視線を向けると、立派な藤棚があった。

 浅い池の上に揺れる薄紫の花が揺蕩う舞姫のように見える。


「かくしてぞ ひとはしぬといふ ふじなみの……」


 裕子が口ずさむと、澄子が後を引き取った。


「ただひとめのみ みしひとゆゑに……万葉集だっけ。懐かしいね」


 その声には反応せず、魅入られたように揺れる藤を見ている裕子。


「裕子?」


 裕子はただ涙を流し続けていた。

 その肩に触れようと手を伸ばした澄子を制し、志乃が静かに立ち上がった。

 数歩離れて振り返った志乃の目線が、澄子を呼ぶ。

 澄子も静かにその場を離れ、志乃の後に続いた。

 廊下を折れて、立ち止まると志乃が静かに口を開く。


「浄化はすでに始まっています。この数日は心に溜まった澱をひたすら洗い流すという作業になるでしょう。もしよろしければ、三谷様も今夜はここにお泊りなってください。お友達として最後の時間をお過ごしくださいませ」


「最後の時間?」


「ええ、このまま忘れられるのはお辛いでしょう? それに裕子さんもきっと不安だと思います。もちろんお仕事のご都合もおありでしょうけれど」


「そうですね、裕子も不安ですよね。申し訳ございませんが、お言葉に甘えます」


「畏まりました。先にお部屋に案内しましょうね。裕子さんは当分あのままですから」


「わかりました。よろしくお願いします」


 澄子は廊下の角から裕子を覗き見た。

 裕子の体が小さくゆっくりと左右に揺れている。

 まるで風にそよぐ藤の花とシンクロしているような不思議な動きだった。

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