純潔のパン屋と、逆行の魔女(エピローグのみ)

冴吹稔

凡人たちの家路

 

 ベアトリスは土手の上に立って街道を見下ろした。


 道が伸びていく先、北東の方角にはノッティンガムの町がある。

 朝から買い出しに出かけたジェイムズが、そろそろ戻ってくるはずだ。頼んでおいた砂糖や塩、リネンや巻き糸以外にも仕入れて来てくれるものがたくさんあるだろう。例えば――近況とか。


 やがて午後遅い日を浴びた街道の上に、ぽつんと黒く動くものが現れた。


「あれかな……?」


 見る間にそれは大きくなり、深く刻まれたわだちをなぞりながら近づいてくる。


「ふふ。やっぱり『独立不羈インディペンデンス』号だ」


 それはパン職人のジェイムズが愛用している、二頭立ての荷馬車だった。

 五年ほど前、内戦の初期に二人で村を離れたときからずっと使い続けているお馴染みの馬車だ。今は撤去してあるが、荷台の中ほどには軍艦の調理場ギャレーを真似た小さなかまどを載せることができる。

 そのおかげであの旅の間は行く先々で粉を手に入れてはパンを焼いて、どうにか日々の糧と路銀を手に入れることができた――


 ベアトリスは外套のフードを頭の後ろへ跳ね上げると、ガウンの裾を持ち上げて走り出した。ゆっくりと進む荷馬車に並走して、御者台の上のジェイムズに手を振る。


「お帰り、ジェイク! 町はどうだった?」


「迎えに来てくれたのか、。土産話はまあ、たくさんあるが……取りあえずは、乗れよ」


 ジェイムズはいまだに、子供の頃のあだ名で彼女を呼ぶ。彼は馬車を停めると、手を伸ばしてベアトリスを引っ張り上げてくれた。御者台に並んで座って足をぶらぶらさせながら、ベアトリスは彼が話し始めるのを待った。


「ん……何から話すかな」


「ん、じゃあ一番どうでもいい話か、めでたい話からがいいな」


 ああ、とジェイムズはうなずいた。少し首をかしげて考え込んだ後、


「そうだな……まず、居酒屋パブのマクリントンの奥さんに、また子供が生まれた。俺も戸口から声だけ聞かせてもらったよ」


「へえ……!」


 内心でちょっとだけニヤリとする。ケート・マクリントンはもともと居酒屋で働く女給で、ノッティンガムでもちょっと知られた美女だった――まあ、今もそうだが。

 ジェイムズもご多分に漏れず彼女に熱を挙げた口、たまたま路上で鉢合わせして転んだところを助け起こした時に、あらぬところに手が触れたのがきっかけで、善良なパン屋をして大量の生地を無駄遣いさせる成り行きになったものだ。


 ――そもそも五年前の二人の放浪は、そのパン生地でジェイムズがこしらえたもっちもちのが、不思議な魔法の命を宿して遁走したことが発端でもあった。


「まあ、みんな収まるところに収まったわけか。すまないねぇ、僕はケートみたいにふかふかじゃなくってさ」


「いや、お前はそれでいいよバターカップ。細っこいのも悪いもんじゃねえ」


「何だよ、照れるじゃないか……」


 互いに背けた顔を赤らめる。夫婦になってもう三年は経つというのに、お互いを意識すると未だにこうなるのだ。その根底には、ベアトリスが男だった前世の記憶を未だにうっすらと保持しているという、余人に理解しがたい理由もあるにはあった。


「まあその話はもうそれでいいや……それで、他には?」


「ああ、そうだな……これは言わなきゃならんか。チャールズ王がとうとう負けた。議会派に身柄を押さえられたらしい」


 声が暗い。そういえばジェイムズは、前王と名前が同じだからというわけでもないだろうが、どちらかといえば王党派というか、素朴に「王様が治めるのが正しい」という感覚だった。


「そうか……ああ、今年は一六四七年だったっけ……ジェイク、当面は引き締めて、貯蓄を心掛けるよ。前世の記憶によれば――」


「あ、また始まった」


「茶化すな。クロムウェルがこれから権力を握るけど、長くはもたない。イングランドはまた乱れるよ」


「……まあ、『魔女』のお前が言うんならそうなんだろうな。分かった、気を付けておくよ。そうだ、魔女といえば……ホプキンスのやつ、この一年くらいですっかり評判を落として、行方知れずになったらしい」


「そりゃ……うん、まあ何よりだね」


 古い知人の思わぬ消息に、ベアトリスの表情はめまぐるしく変化して、最後に笑顔に落ち着いた。


「あいつがトレント川に落ちた後、生きてたって知った時はびっくりしたよ。その後で『魔女狩り将軍』とか呼ばれて幅を利かせ始めた時もさ」


「お前のことを世間から隠すのにも、だいぶ骨を折ったからなあ」


「全くだ。ノック式ボールペンの仕組みなんか、教えてやるんじゃなかったな」


 二人は放浪中に、マシュー・ホプキンスと名乗る青年と同行したことがあった。弁護士の仕事がうまくいかずに困窮していた彼に、ベアトリスは数百年先の筆記具の構造について教えてやったのだ。まさかその知識を応用して、魔女審判に使うインチキ道具を作るとは予想もしなかったが。


「時々、お前が何の話をしてるのか本気でわからなくて怖いんだが……まあ、とにかく早く帰ろうぜ。世の中がどう変わろうと、俺たちにできることはそんなに多くない。日々の暮らしを大事にしていかねえとなあ」


「……そうとばかりも言ってられない時もあるんだけどね。まあ、もうしばらくはこの平穏が続いてくれるって、おぼろげにでもわかってるから――ありがたい事さ」


 馬車はジェイムズの鞭の一振りと共に速度を上げ、水車小屋とパン焼きかまどが並ぶ二人の住処へと近づいていく。

 色を濃くしていく夕空を見ながら、ベアトリスは密かに下腹をさすって、満ち足りた笑顔を浮かべた。

 

 「麦畑の女王」の力と加護は、まだいくらか彼女の中に残されていた――芽生え育ちつつある、新しい命と共に。

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純潔のパン屋と、逆行の魔女(エピローグのみ) 冴吹稔 @seabuki

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