第17話 毛虫は蜜を吸わない
「
「し、知らない」
お母さんとこんな会話を交わした日の放課後、私は先生に呼び止められた。
「三者面談の案内、ちゃんと親御さんに見せたか? 提出期限は一週間前だぞ」
「え、え」
貰った記憶はさっぱりなく、返事に困った。
先生は小言を言ってから教室を出て行った。実際廊下に出てみると、隣のクラスの前には椅子が並べられていて、それが三者面談用のものだということは、去年も同じような光景を見ているのですぐに分かった。
でも、貰ってないし、先生の手違いで私にだけ届いていないのだろうと思って特に気にはしなかった。
だけど、その日の夜、カバンから筆箱を出そうとしたら、くしゃくしゃになった紙が出てきた。開いてみると、それは三者面談の案内だった。
お母さんにそのことを伝えると、お母さんは厳しい顔で椅子に座った。こういうときは、私もお母さんの向かいに座らないと戻らせてもらえない。
「もらったプリントはクリアファイルに入れて必ず保管しなさいと何度言ったら分かるの。提出期限というのは、先生方の都合もあるから設けられているものなの。佐凪が出さないだけで、何人もの先生に迷惑をかけるのよ」
お母さんは私を叱るとき、目から光が消える。感情を制御して、まるで物に言い聞かせているようだ。
「わ、私だって、見たよ。見たけど」
「見てないからこうなってるの。佐凪、あなたは昔から忘れ物が多いのよ。それは仕方ないかもしれないけれど、なら忘れないようどうすればいいかきちんと考えなさい」
翌日、先生に聞いた話だけれど、提出期限を守らなかったのは私だけらしい。
私だけが、もらったプリントの保管という、簡単なことすらできなかった。
私は、他の人とは違う。他の人よりも、劣っている。
隙間風が、胸を通っていくような感覚。身体の奥から冷たくて、異様に喉が渇く。
なんでだろう。ここ最近、こういうことが多い。
これを形容する言葉は、きっと劣等感というやつで、心を巣食うこれは、虚無感だろうか。自分がちっぽけに感じて、時々、私を必要としている人なんかこの世界に一人もいないんじゃないかとさえ思ってしまう。。
ずっと頭にもやがかかったまま、チャンネル登録者数千人記念配信を開始した。
チャンネル登録者数が千人を超えたのはつい一週間前の話で、みかんさんに伝えると、すごく喜んでいた。私よりも。
停滞していた動員数も、ここ最近の私の異変も、きっとこの配信ですべて改善する。だって、サムネだって一から勉強して気合いを入れて作った。タイトルだって、人の目を引くものにするために寝る間も惜しんで考えた。自分の発する言葉一つ一つに気をつけて、常に画面に向こうにいるリスナーさんのことを考えて喋った。
こんなに努力したの、人生で初めてだった。
だから、きっとうまくいく。そう思っていた。
しかし、現実は非情で、記念配信の同時接続数は最高でも二十人。チャット欄もスクロールが必要ないくらいに過疎っていた。
私の見込みの、半分以下の人しか集まらなかった。胡桃の描いてくれた新衣装を着た雨白が、笑うことなく画面の右端で固まっている。
みかんさんだけが「かわいい~!」とコメントしてくれている。みかんさんだけ。
おかしい。私のチャンネルを登録してくれてる人は千人だ。それなのに、その十分の一の人すらこの配信に来ていない。
「こ、これで配信は終わります……」
プラウザを閉じて、パソコンの電源を落とす。
それからしばらくすると、
「けっこうよかったじゃん、記念配信」
胡桃がパソコンを担ぎ上げながらそんなことを言う。
「……どこが?」
「え?」
「全然、来なかったじゃん」
吐瀉物のような言葉が、カサカサの声色を纏って転がり出る。
喉の奥に、ピンポン球が詰まったかのようだった。息を吸おうとしても、最後まで吸うことができず、肺がズキズキと痛い。
胡桃は何も言わずに部屋を出て行った。色々気遣ったうえでの無言なのだと思うと、更に自分が嫌になる。
い、いや、弱気になっちゃ、ダメだ。
だって、世の中には、私と同じ時期に始めて、私よりもずっと配信が上手な人もいる。私が苦労して取る数字を、簡単に取ってしまう人もいる。
私はその人たちに比べたら実力がない。だから、勉強しなくちゃ。
パソコンの電源を再び入れて、いろんな人の配信を見て回った。
私よりも上手な人の配信を見れば、モチベーションだってあがるはず。そう思ったのに、どうしてか、心は後ろ向きになるばかりだった。
なんで、私のほうが、私のどこが、この人のどこが。
拳を握りしめながら、その言葉を飲み込んだ。
腐ってはいけない。だって私は、普通じゃない。他の人よりも劣っている。
そんなの、最初から分かってたじゃないか。
体育祭当日、グラウンドには椅子が立ち並び、会場のグラウンドは異様な空気に包まれていた。私は水筒を椅子の下に置いて、今日のプログラムが書かれた紙を眺める。
「あっ、おはよ
ガツン、と大きな声が頭に響く。
「あんまり」
「え、大丈夫? もしかして、楽しみすぎて眠れなかったやつ? 分かるー! あたしもなんだかんだ言って楽しみだったみたいで昨日は全然だったよー! 気付いたら十二時になってて」
「私は三時」
時計を見るのさえ、最近は億劫になっていた。でも、寝る間も惜しまないと、縮められない距離があるから。私は昨日も、ずっと配信の勉強をしていた。
どうすれば人が来るか。どうすればコメントが増えて、チャンネル登録者数が増えるか。
「ね、ねぇ、本当に大丈夫? 佐凪さん」
気付けばみかんさんの顔が眼前にあって、少し驚いた。そのせいで、眠気がいくらか飛んだような気がする。
「う、うそ。途中で起きちゃっただけ」
みかんさんの表情が曇ったのを見て、私は慌てて弁解した。優しい嘘というものは、いつだって労力を必要としない。
「そっかそっか! あっ、昨日の配信」
周りをキョロキョロと見渡してから、みかんさんが私の隣に座る。
体育祭の席順は、生徒が好きに決めていいことになっていて、仲の良い人同士が固まっている。みかんさんが私に「隣になろ」と声をかけてくれたときは驚いたけど、嬉しかった。
「すっごく、すっごくすっごく良かったです! 雨白さんの頑張りはずっと見ていたので、それが報われることになって、感動しちゃいました。これでもかってくらい元気をもらったので、今日の体育祭もめっちゃ頑張りますよ!」
袖をまくって力こぶを見せるみかんさん。真っ白い肌が、太陽に焼かれジリジリと赤みを帯びていた。
「二人ともおはよー! あれ、村崎さんの靴、新しいのだ!」
開会式の時間が近づくにつれ、人が続々と集まってくる。クラスメイトの一人が私の足元を見て、目を丸くした。
「てかみかんも染め直してんじゃん! やば! それ落とせんの!?」
「んー! 知らん! 明日のことは明日のことだよ!」
「絶対あとで先生に怒られるやつー!」
わっと周りが賑やかになる。本来はこの輪に加わることのできない私だけど、今はみかんさんといるおかげで、花畑の中に雑草が紛れ込めている。
「村崎さんは真似しちゃだめだかんねー!」
「う、うん」
遠かった場所に、私がいる。
きっとこれが人間の営みで、私が長い間、することのできなかった人間としての生き方だ。これが正常であり、新たな一歩なのだと。
眠い目を擦りながら、有るべき世界と居るべき場所を、網膜に焼き付ける。
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