第10話:多量の血飛沫

 壱吉は、木の影から刃を交差させる2人を見て感じていた。


 瑠璃猫と氷川暁の剣戟に加担することは出来ない——いや加担することは、却って瑠璃猫の邪魔になるだけだ。非力であることは自覚しているが、僅かでも力になりたいと思って、掌に収まるほどの石を握っていたが、潔く捨てた。


 2人は体力という概念が存在していないように、時間が経てば経つほど、剣戟を激化させていく。壱吉は、見れば見るほどに、自分の無力さを突きつけられるような感覚だった。


 氷川暁は、先程の辰風と応戦した姿とは、また異なって見える。比べ物にならないほどの加速的な剣技の応酬だった。左腕のみで繰り出される剣技とは思えない技術の高さだった。


「はああぁぁぁ————っ!」


 気合いの籠った掛け声と共に、切先を前方に向けて突き刺す。鋭い風切り音が瑠璃猫の頬を掠めると、僅かに重心が揺れた。そして瑠璃猫の上半身が、横に傾いた瞬間に、


「ここ!」


 全身を大きく回転させて、瑠璃猫の腹部に向かって、回し蹴りを叩き込む。瑠璃猫は、咄嗟に両手の手甲を翳して受け止めた。華奢な身体には、痛みは伴わずとも蹴りの衝撃そのものは加わっているはずである。瑠璃猫の身体は、更に地面へ倒れ込むように大きく傾いた。


 暁は、その隙を見逃さない。舞うように、更に身体の回転を強めると、刀身を瑠璃猫の首元に向かって横一閃に滑らせた。


 腹部に翳した両腕。

 大きく傾いた身体。

 そして首元へ向かう刃。


 瑠璃猫にとって状況が最悪であることは、明白だった。


「さぁ!無表情で居られるのも、ここまでよ!」


 暁の声が、高らかに上がる。そして研がれた刃が、瑠璃猫の白く柔らかい首元に食い込んだ。


 確実に、そして着実に——暁の刃が、瑠璃猫の首元に食い込んでいく。食い込んでいく。食い込んでいく…。


 そして刃である以上、皮膚を突き破ることは必然である。食い込んだ先からは、すでに鮮血が顔を覗かせていた。


 医学に精通していなくても、もう手遅れであると判断出来る。それはまだ若い壱吉でも理解出来ることだ。

 暁は、刃から伝わる確かな手応えに、表情を歪ませながら勢いを殺すことなく、腕を振り下ろす。


 そしてずりゅ——っと肉を滑る生々しい音が、辺りに小さく響いた。


「る、瑠璃猫さあああぁああぁああああああああああああああああああああああああん!!!」


 ぶしゅうううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ――――…。


 …壱吉の叫び声が、虚しく闇夜に溶ける。

 そして虚しく伸ばした腕を嘲笑うかのように、瑠璃猫の血飛沫ちしぶきは、雲を突くような勢いで空へ飛び散った。まるで噴水を想起させるかのように高らかに伸びる鮮血は、皮肉にも暁の剣技の高さを示しているようだった。


 ぼた、ぼたぼた――…。

 飛び散った血飛沫が、拳ほどの水滴となって、大地に虚しく落下していく。瑠璃猫の雪のような白皙はくせきの肌も、見る影が無いほど赤黒く染められていた。そして糸が切れた人形のように脱力した様子で背中から倒れ込んだ。流れるように美しかった銀髪も、鮮血を吸い取って束となっていた。


「そ……そんな……」


 壱吉は、伸ばしていた腕をぱたりと落とすと、虚ろな瞳で眼前を見つめた。視界には、月光を背に陰の中で微笑む暁と、ぐったりと横たわる瑠璃猫の姿だけがあった。刀傷からは、まだ脈に合わせて鮮血が流れている。


 暁は、そんな瑠璃猫の変わり果てた姿を見下ろしながら、口角をにぃっと緩やかに上げると、


「ふふ…っ………結局、殺しちゃったぁ……」


 不気味な笑顔と共に、恍惚の表情で佇んでいた。そこには殺人を犯したという罪悪感も、勝負に勝利したという達成感も無い。


 ただただ不気味な狂気だけを漂わせて佇んでいた。

 一頻り笑うと、張り付けたような笑みのまま、ゆっくりと視線を上げた。そして殺意と狂気に歪んだ目線が、壱吉と合うと、


「あはっ」


 無邪気な笑い声を上げた。 

 そして瑠璃猫の返り血で染まった日本刀の切っ先を、壱吉に向けた。



 ◇◆◇◆



「や、やめろ…それ以上、僕に近付くなぁ!」


 壱吉は尻餅をついた状態で後ずさりをしながら、震える声で精一杯の大声を上げた。しかし恐怖に染まった身体では、思う様に声が出せないでいた。


 そんな壱吉の姿に嗜虐心が擽られるのか、暁は僅かに紅潮をしながら近付いていた。敢えて緩やかな足取りで近付く所に、彼女の底意地の悪さが伺えた。


 そして紅潮した頬に手を添えながら、


「ふふ。そんなに脅えちゃって可愛い子ね」


「あぁ…や、やめて!やめてよ!」


 遠くで大剣を振る辰風を一瞥するが、まだ異形と戦っている様子だった。立っている異形が残り2人であることから、すぐに戦闘は終了しそうだが、事態は火急である。


「頼みの綱の不死身の辰風は、まだ戦っているようね。この様子ならすぐに応戦してくるでしょうが、あなたを嬲り殺しに出来るぐらいに猶予はあるわ」


「お、お前本当なんなんだよ!何でそんなに簡単に人を殺せるんだよ!」


 壱吉の言葉を聞くと、彼女は「ふふ」と嘲笑した。そして舌で唇を舐めると、


「その台詞…あなたの父親を殺した時にも同じことを言われたわ。やはり親子ね。脅えた表情もそっくりで思わず笑っちゃう」


「やっぱりさっき言った通りあの時、父ちゃんを殺したのは…」


「そう。他でもない私よ。3年前に城に火を放って襲撃をしたの」


 そして暁はさらに「その時に、あなたの母親である望月澄世に見られて顔面に火傷を負わせたのも私」と言葉を乗せた。その言葉に偽りはないだろう。証拠の無いただの自白ではあるが、それを確信させるだけの態度が備わっていた。


 しかし生き残った母親の顔面に火傷を負わせたと自白をした以上、やはり1つの疑問が残る。帰路に着くまでに、辰風と瑠璃猫に話していたことである。


 例え不意打ちであっても、源斎が襲われた際に、現場を見たという事実があるのならば望月澄世は、犯人を覚えているはずである。しかし張本人が、誰に襲われたか覚えていないという事実は、些か奇妙だ。


 暗殺の現場を見た衝撃で記憶が飛んだ…というのも考えにくい。光景は覚えているのに、襲われた犯人の姿のみ断片的に空白になるのは不自然極まりない。


「…違和感に支配されているわね」


 壱吉の疑念を嘲笑うように、暁は呟く。


「な、何が言いたいんだよ」


「ふふ。さっき話していた戦闘のいろはの続きよ。私は望月源斎を暗殺し、澄世がそれを見た事実があるのに、なぜ張本人やあなた、そしてこの藩の誰も覚えていないのか…それって違和感以外の何物でも無いでしょう?」


 暁の発言に頷くことは癪だが、実際にその通りだ。


「でも安心して良いわ。なぜならこの世の事象には、すベて意味があるからよ。だからその違和感にも、理由があるわ」


 そう語りながら、一歩ずつ近付く暁は、横目に辰風の様子を伺った。

 異形たちは、すでに全員地面に横たわっていおり、辺りは緑色の血の池と化してた。そして辰風は、大剣を担いだまま、眉間に縦皺を走らせながらこちらへ向かっていた。


 辰風の視界には、横たわる瑠璃猫の姿が見えているはずだ。それを踏まえての形相であれば、憤怒の様相に違いはない。


「……ふぅん。もう終わったのね。まぁ、不死身と豪語するだけの実力はあるということかしら」


 そう呟く暁の口調からは、少なからず彼の実力を認めているようだった。壱吉は視線を辰風へと移して、声にならない声で救いを求めた。しかし暁は、壱吉の眼前に佇み、しゃがんで目線を合わせていた。


「ふふ。勿体ぶってもしょうがないから、不死身の辰風が来る前に、あなたにだけ真実を伝えちゃおうかしら」


 そして瑠璃猫の返り血が生々しく付着した切先を、壱吉の首元に向けて、耳元で囁く。


「鉄鋼黒蟻は、堂山様じゃない。


「……………え?」


 暁は耳元から顔を遠ざけると、眼を見開いた壱吉と視線を合わせる。突如として告げられた真実に、理解が追いつかない様子で、彼の視線は遠くを見つめていた。


「…あはっ!そんなに驚いてくれて嬉しいわ。不死身の辰風からはなの存在を聞いたかしら。そう。私が、鉄鋼黒蟻というはななのよ…ふふふ……」


 壱吉は、口元を大きく開けて変わらず遠くを見つめていた。まるで開いた口が塞がらないといった様子だ。


「ふふ。そんなに驚いてくれると、つい話し込んでしまいそう。はなはね、人間であることを捨てた転生者でもあるの。人間であることを捨てるということは、ということよ…つまりあなたが抱いている違和感の意味は」


「ち、違う…。僕が驚いているのは、そんなことじゃない」


 暁の言葉を遮ってまで、壱吉は震える声で暁の後方を見つめていた。


「……は?それって、どういう意――ぐふぅう!!!!!!」 


 瞬間。ぱぁん!と、銃声にも似た強烈な破裂音が耳を突いたと思うと、暁は壱吉の眼前から消えた。いや、と表した方が正しいだろうか。残像が残るほどの勢いで、自身の右側へ急遽吹き飛んだのである。


 そして暁が眼前から消えた先には、月光に映えて靡く白銀の毛髪が、荒々しくくうに舞っていた。紺色の着物からすらりと伸びた白い脚は、鞭のようにしなやかな曲線となって風を切っていた。その勢いは、線の細い少女の蹴りとは思えないほど峻烈であり、佇む壱吉の前髪を風圧で揺らしていた。


 壱吉は、驚嘆の表情が拭えないまま、峻烈な一撃に見惚れていた。そして白銀の少女は、回し蹴りの勢いのまま、身体を回して、華麗に着地をする。その息を飲むような身のこなしは、宛ら——猫のような身軽さである。


 ふわり、と揺れる白銀の毛髪の間隙からは、深淵のような深紅の瞳が伺えた。すべてを見透かすような怪しい瞳は、吹き飛んだ暁を見つめると、


「不意打ち……成功…」


「る、るる…!」


 抑揚の乏しい特徴的な口調が、どこか安堵する。今日が、初対面ではあるが、すでに懐かしさすら覚えるほどだった。


「る、る瑠璃猫さん!?ど、どうして…」


 特徴的な見た目から見間違えるはずもない。月光を背に佇む少女は、紛れもなく先程頸部を斬られた瑠璃猫だった。その証拠に、身に纏う紺色の着物には、生々しい血痕が多量に付着していた。


 しかし刀傷があるはずの首元は、何事も無かったかのように美しい肌のままだった。瘡蓋かさぶたすら存在していない。

 

 眼前に生じた出来事が夢幻でもあったかのように、瑠璃猫は静かに鉤爪を翳した。すると荒い呼吸をした辰風が、瑠璃猫の後方に到着した。そして憤怒を隠し切れない形相のまま、


「はぁはぁ…!瑠璃猫てめぇ…またあの力を使いやがったな…!」


 全身に緑色の返り血を浴び、大剣を携えて肩で呼吸する辰風の様相は、どちらが異形か分からないほど圧倒的な威圧を放っていた。そのまま瑠璃猫に近付いて肩を引っ張って胸倉を掴む。そして谷間が見えるほど、胸倉を引っ張って、


「瑠璃猫!何度言ったら気が済むんだ。だから、戦闘に関わるなとあれほど…!」


「…原因。辰風。応戦。遅刻」


「この野郎…!」


 眉間に縦皺を走らせ、今にも爆発しそうな熱量の辰風に比べて、瑠璃猫はまるで氷のようである。しかし現在、兄弟喧嘩を始めているほど、状況は悠長ではない。


 柱を立てて巻き上がる砂埃の中で、暁と思わしき影が、むくりと立ち上がった。そして不自然な方向に折れ曲がった頸部を抑えるように、影は揺らめいていた。

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