第9話:戦闘のいろは

 暁は混じり気の無い邪悪な笑みを浮かべて、震える壱吉の元へと駆けていく。


「う、うわああああああああああ!る、瑠璃猫さん助けてぇ!」


 近付くに比例して、大きく聞こえてくる壱吉の叫び声は、極上だった。嗜虐心を煽るような怯え方を見ていると、どこまでも口角が上がっていった。


「あははは!その怯え方、最っ高!あなたの父親と同じように殺して上げるから、もっといっぱい叫んでえええええええええぇぇええええええええええええぇええ————っ!!」


 暁は、裏返るほどの奇声を上げる。そして大地と平行になるほどの前傾姿勢のまま、壱吉へ向かっていった。

 だが、暁の一歩後ろを邁進するもう一つの疾風がそれを許さない。瑠璃猫は、暁の疾走から一手遅れたが、それを感じさせないほどの高速な疾走で駆け抜けていた。特徴的な真紅の瞳は、残像を残して、闇夜に浮かぶ赤い閃光となっていた。


「あはは!あなたが追い付く前に、望月の小僧の首を刎ねてあげるわ!」


 自身の背に近付く赤い殺意に向かって、暁は挑発をするように言い放つ。そしてあと数歩で壱吉に到着する時に、再度残された左腕で日本刀を構えると、


「——なんてね」


 まるで悪戯いたずらを楽しむ少女のような無垢な微笑みで、踵を返して、瑠璃猫へ振り向いた。


「私の狙いは、あなたよ。銀髪のお嬢さん」


 そして振り向く回転をそのままに、日本刀を横一閃に走らせた。

 瑠璃猫は、すでに暁の真後ろまで追い付いていた。その疾走を逆手に取るように、空を斬る刃の煌めきは、彼女の細い首元に吸い込まれるように進んでいく。


「る、瑠璃猫さん!」


 壱吉が、思わず眼をぎゅっと瞑った。

 しかし切先が、瑠璃猫の白い肌に触れる瞬間。残像を残すように浮かんでいた赤い閃光が、ぐんっと垂直に下降した。


 びゅぅぅん————…!

 虚空を斬り裂く凄まじい風切り音だけが、闇に鳴る。暁の放った一閃は、揺らめく赤い閃光だけを斬った。瑠璃猫は、咄嗟に上半身を捻って深く落とすことで、奇襲を避けたのだ。


 刃が、彼女の頭上を通り過ぎていく時、真紅の瞳が見上げるようにしてこちらを見つめていた。どこまでも冷たく、そしてどこまでも生気の乏しい遠い瞳だった。まるで他人の生命に微塵も関心が無いような無機質な視線だった。


 暁の胴体は、左腕を振り翳したことで、すでに守る術は無い。そして瑠璃猫は、ゆるりと鉤爪の切先を、彼女の腹へ向けた。


「あはっ」


 暁は、瑠璃猫の一撃を確信すると——不敵に笑った。

 切先に向けて湾曲するように鋭く伸びた鉤爪を、そのまま勢い良く腹を突き刺した。そして瑠璃猫は、えぐり取るように腕に回転を加える。


 彼女の白く細い腕からは想像も付かないほどの峻烈な一撃は、全身をつんざくようだった。その衝撃の一切は相殺されることなく、暁は残像を映すほどの勢いで後方へ吹き飛んだ。丸くなって怯えていた壱吉の隣を突風のように通り過ぎると、そのまま家屋の中に突撃した。


 障子や囲炉裏、床などあらゆる物体を破壊しながら進んだのか、複数の甲高い衝突音が外まで響いていた。そして最後に壁に衝突したのか、どしんと鈍く重い音が、茅葺き屋根を揺らした。


 家屋の近くに佇んでいた壱吉は、思わず瑠璃猫の方へと駆けた。


「す、すごい…!氷川暁をやっつけましたね!」


 僅かな高揚感に言葉が弾む。しかし彼とは裏腹に、瑠璃猫は無表情のまま一点に家屋を見つめていた。表情の変化こそは無いが、どこか緊張感を帯びていた。


 そして鉤爪の切先を壱吉に見せると、


「…否。血痕。皆無」


 彼女の愛らしい顔付きに似合わない重厚な刃に違和感が走る。晒された刃には、一滴たりとも血液が付着していなかった。先程の峻烈な一撃が、まるで夢幻でもあったかのように、変わらず銀色の煌めきを放っていた。


 その鉤爪の違和感に、壱吉は急に血の気が引く感覚を覚えた。そして瑠璃猫は「至急。距離。確保」と伝えると、鉤爪を家屋に向けて構えた。壱吉は、その言葉に従うように、小走りで瑠璃猫から離れた。


 今、壱吉の家屋から得体の知れない脅威を、足音を立てて、歩み寄ってくる——。


「言った通り、戦闘のいろはを手解きして上げる。戦闘において、最も重要なことは……」


 すると家屋の闇の中から、暁の穏やかな口調が響いた。そしてこつこつ、と淀みの無い足取りが近付き、障子に手を掛けると、


「如何に、……その一点に尽きている…」


 流れるような身体の線に沿って着込んだ紫の衣装は破れ、腹の部分には大きな穴が空いていた。しかし露呈した腹は、健康的な肌色を見せており、掠り傷一つも見当たらない。


「違和感というのは、相手の常識という一枚布に空いた小さな穴に過ぎない。最初は道端の小石のように、意識すらされないでしょう。しかし針で空けられた程度の小さな痛手でも、それが何度も続くと、見過ごせないほどの風穴へと成っていく…」


 暁は、左腕に日本刀を構えて、静かに歩み寄る。


「そしてその風穴が、何度も続いて、常識の一枚布を侵食し尽くした時……ふふ、人はどうなると思う?」


 暁は、笑う。


「そう…そこで人間は、初めて恐怖を覚える。常識という布が無くなり、人は恐怖という吹雪を遮る術を失う。その吹雪は、さぞ骨身に響くことでしょう。つまり違和感は、恐怖の痛手と成って、人を襲う…」


 暁は、笑い続ける。


「ふふ。この藩を見ての通り、恐怖に屈服した人間は脆いものよ。抗う思考すらも放棄してしまうほどにね。ふふふ…」


 暁は、どこまでも笑い続ける。


「ねぇ、銀髪のお嬢さん。あなた——」


 暁は、家屋の外に出て、静かに瑠璃猫へと歩み寄っていく。そして眼前まで歩むと、口腔いっぱいに涎を垂らしながら、鉤爪の湾曲に沿って、じゅるりと舌を這わせた。


「——この私に、恐怖しているわね」


 暁は、狂気に濁った上目遣いのまま舐めていく。這う舌の動きは、どこか艶かしさを孕んでおり、涎が切先から垂れていた。


 大部分は長髪に隠れているが、瑠璃猫の表情に変化は無い。真紅の冷めた視線で、暁の不可解な行動を見つめているだけである。しかし第三者である壱吉の眼からは、蛇睨みを受けたように、身体が硬直しているように思えた。


「ふふ。常識が通用しないって怖いわよねぇ…私のお腹に、こんなに太くて立派な刃を刺したのに、なんで私は無傷なのかしら。とっても怖いわねぇ……ふふふ…」


 そのように呟きながら、露呈した腹の皮膚を摩った。すべすべとした健康的な女性の肌である。瑠璃猫の鉤爪であれば、肉を抉っていてもおかしくはない。


 暁の舌舐めずりは、次第に激化していき、鉤爪から徐々に上昇して猫を模した手甲を超えて腕へと登っていく。水も弾くような白い腕を舐めながら、


「こんなに細くて可愛らしいのに、あんなに力強い一撃を出せるなんて素敵…」


 そして硬直した瑠璃猫を他所に、袖を登っていき、顔面へ近付いていく。肩まで伸ばした美しい白銀の髪を掻き分けて、耳元に近付くと、


「さすが使の内の1人って所かしら」


 5人の使者——。

 その具体的な言葉が合図であったかのように、瑠璃猫は真紅の瞳を見開くと、彼女を薙ぎ払うように鉤爪を振り上げた。


「あはは!あなた、やっぱりそうなのね」


 もちろん薙ぎ払う程度の攻撃は、暁には届かない。況してや硬直していた身体での一撃であり、勢いは殺されている。


 暁は、鉤爪の軌跡を避けるように、後方回転をして距離を取ると口唇をもう一度舐めた。そして嬉々とした表情で、言葉を続ける。


「ふふ…だってその特徴的な白銀の髪と真紅の瞳を見れば、はなに携わる者ならすぐに分かるわ。外道をはなへと昇華なされる神様に仕える5人の使者。その内の1人に裏切り者が出たと聞いていたけど…もしかしてそれ、あなたのことかしら?」


 暁は、日本刀の切先を瑠璃猫に向けて、微笑む。

 瑠璃猫は、変わらず無表情のまま佇んでいた。その佇みが、暁の言葉が理解の範疇を超えているためか、図星であるためかは、表情からは読み取れない。しかし先程から溢れる微量の緊張感は、不変のままだった。


「そして裏切り者の名前は……瑠璃猫。確かに、そう聞いたわ」


 瑠璃猫は、無表情で暁を見つめる。


「あら。まだ無言を続ける気?そうね。それじゃこの話を聞いた人の名前も言えば信憑性が生まれるかしら。このお話をされた御方は——蛇腹岬じゃばらみさき様。こう言えば、あなたなら分かるわよね」


 少し離れた場所で2人の様子を見ていた壱吉は、暁から突如話される聞き慣れない言葉に困惑をしていた。


 5人の使者。

 裏切り者。

 蛇腹岬。


 今日は、聞き慣れない用語がたくさんで頭の中が渋滞を起こしそうだ。しかしどこか暁の確信を帯びた表情を覗いていると、出鱈目でたらめを言っているようには思えない。


 そして何より、瑠璃猫の表情がそれを物語っていた。ずっと無表情だったが、眉根が僅かに吊り上がる。そして小さな怒気を見え隠れさせながら、


「蛇腹岬…!」


 今まで人間の形をした粘土のように、一切の感情を露わにしなかった彼女だが、初めて表情を見せた。それは背に業火が窺えるほどの、怒気を孕んでいた。


 瑠璃猫のそのような態度は、もはや暁の語る内容の正誤を示している。暁はさらに嬉しそうに微笑むと、


「素敵…これは天が私に与えて下さったご褒美かしら。もっと…もっとあなたのことを知りたい。そしてあなたの苦痛で歪んだ表情が見たい……」


 暁は、高揚を隠しきれない様子で、僅かに紅潮させると、


「裏切り者なら……思う存分、拷問をしてもお咎めは無いわよね」


 2人は、日本刀と鉤爪を構えて対峙する。肌に突き刺さるほどの殺気が、辺りに渦巻いていた。


 そして瑠璃猫は、遠くで異形たちと対峙する辰風を一瞥した。緑色の血飛沫の中、大剣を奮って駆け抜けている姿が視界に入る。すでに大地には3人の異形が倒れており、現在は4人目の異形の胴体に大剣を打ち込んでいる最中だった。辰風ならば、残りの異形もすぐに片付けて、こちらに応戦をしてくるだろう。


 瑠璃猫は、視線を辰風から暁へ映して、「困惑」と口にすると、


「辰風。指示。壱吉。自己防衛…以上」


 相変わらず単語をぶつ切りにした特徴的な口調は、聞き手の推測を要する。暁は一度思考してから言葉を返した。


「…指示は、望月の小僧と自己防衛のみと言いたいの?あなた、不死身の辰風の指示が無いと戦えないとでも言うのかしら」


「戦闘。辰風。指示。限定」


「あはっ。馬っ鹿みたい。すでに私のお腹に鉤爪を突き刺しておいて何を言うのかしら。すでにそんな馬鹿げた許可なんて瓦解しているじゃない。それにわざわざ戦闘を許可しないと戦わせないなんて束縛が強い男ね。そんな不思議な関係性を見ていたら益々、拷問をして2人のことを色々聞きたくなっちゃうわぁ…」


 暁の瞳が、淀みを見せていく。遠くで見つめる壱吉は、染まっていく狂気に寒気を感じていた。


 暁は「そうねぇ…」と、左の人差し指を顎に置いて少し頭を傾けると、空を見上げて思考をする素振りをみせた。そして数秒の時間が経つと、何かを思い付いたように舌で口唇を舐める。


「じゃあこうしましょう。私は先月、蛇腹岬様と謁見えっけんをしたわ。このまま私と戦ったら、その時のことと望月堂山様の鉄鋼黒蟻の2点を話して上げる。どう?裏切り者のあなたにとっては、お釣りが来る話題じゃない?」


 分かりやすい餌の垂らし方である。瑠璃猫の背景は分からないが、第三者の壱吉ですら安い餌と分かる。


 壱吉は、不安げな視線で瑠璃猫を見つめると、鉤爪が、かたかたと小刻みに揺れていた。無表情のまま、微かに揺れている。


「…どうやら身体は、正直なようね」


 暁は、にやりと眼を細めて微笑んだ。

 それは怒気を孕んだ武者震いのようにも見える。全裸になっても動じないほど、喜怒哀楽の欠落した彼女の感情を2度も揺さぶった「蛇腹岬」という不可解な人物——それが何を意味するのか壱吉には分からない。


 しかし家屋で辰風が話した2人が旅する理由に通ずるものがあるということは、僅かに理解出来た。


「えっと。不死身の辰風の方はというと……2…4…6……あら、すごい。私の道具たちをすでに6匹も殺しているじゃない。残り4匹。すぐにこちらに来そうよ、お嬢さん」


 暁は「どうする。戦うの?戦わないの?」と更に揺さぶる。

 自身の放った手駒は着実に少なくなっていき、戦況的に追い詰められているのは暁の方であることは明白だが、不思議と有利に思えない。なぜかこちらが追い詰められているかのような感覚に陥る。


 瑠璃猫は、一度瞼を閉じた。そしてゆっくりと開いて、真紅の瞳で暁を真っ直ぐに見つめると、決意したような口振りで、


「戦闘——開始」


 仰々しい鉤爪の刃を暁へ向けた。


「ふふ。そうこなくっちゃ」


 暁は、嬉々とした表情で日本刀の切先を向けて応じる。そして再び一本に束ねた黒髪を靡かせながら、疾風のように駆け抜ける。残像が動いたと思った矢先には、鉄と鉄の衝突する金属音が辺りに響いた。


 金属音を置き去りにするように、2人は高速で刃を交差させていく。壱吉は、巻き込まれないようにもう一度距離を取ると、丸くなるように木の影から風に溶ける2人の応酬を覗いた。


 甲高い金属音に混じって、暁の奇声のような高らかな笑い声が、夜空を突いていた。

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