2.無彩色の世界

 イトコ殿から「お兄たまのイチバンのオキニイリのバショに……みなにはないちょでいってみたいでしゅ」とお願いされたから、少年は幼いイトコ殿をここに連れて来た。


 ひと月ほど前のことになる。

 イトコ殿の誕生日のお祝いになにが欲しいのか……と少年が冗談交じりに尋ねたら、侍従や女官たちには内緒でお出かけがしたいと、イトコ殿は侍従や女官たちのいる前で発言したのだ。


 この時点で内緒でもなんでもないのだが、それをまだ幼いイトコ殿に語って聞かせるのは難しいだろう。


 その予想もしていなかった『おねだり』に少年は当然のことながら困惑する。


 イトコ殿の世話係たちにどう対処したらよいものかと救いを求める視線を送ると、全員が後ろを向き、ご丁寧にも両手で己の耳をふさいでいたのである。


 というわけで、大人たちにはしっかりとばれていながらも、少年は『みなには内緒で』イトコ殿を外の世界に――自分のお気に入りの場所に――案内することとなった。


 まあ、この場所は一番ではなく、二番目の場所なのだが、それはイトコ殿には内緒だ。


 まさか、「わたしの一番のお気に入りの場所は、イトコ殿の隣です」とは、口が裂けても言えないし、そんなことを言えば、自分に向けられる大人たちの視線が、さらに生暖かい居心地の悪いものになってしまう。

 なによりも「おでかけができないでちゅ!」とイトコ殿の機嫌を損ねるだけだ。


 少年は警護の者たちと綿密な打ち合わせを繰り返し、動きやすい外出着を用意させ、ひと月の準備期間の後にイトコ殿を外の世界へと連れだした。


 しかし、イトコ殿の願いに正しく応えなかった報いなのか、目的地に到着した途端、天候が急変、いや、激変し、ふたりは雨に濡れてしまった。


 一定の距離を保ちながら、護衛としてついてきている者たちも、この天候には慌てふためいていることだろう。


 灰色の雨雲に空が覆われたことで、色鮮やかだった世界は一転し、どんよりとした暗い陰を落としている。草原は水煙に包まれ、今は水墨画のように無彩色の世界となっていた。


 本来、止まり木の大樹があるこの場所はとても穏やかで、雨などめったに降らない。

 降っても通り雨程度で、このような本格的な豪雨に遭遇するなど、少年は予想もしていなかったし、観測記録にも残っていない。


 大人たちも、少年がこの場所を選んだとき、


「気候もよく、天候も穏やか。なによりも、害をなそうとするモノを退ける力に護られた、悪意なき世界です」

「見通しのよい場所です」

「まさに、アトサマの『はじめてのおでかけ』にはおあつらえ向きの場所です」

「多くの眷属も集う、とても美しき場所でございます」

「まこと、ソバサマはよき場所をお選びになりました」

「アトサマもお喜びになられるでしょう」

「この場所以外はありえませんな!」


 ……と太鼓判だけでなく、背中まで押してくれたのだ。


 その大人たちも大賛成した『はじめてのおでかけ』の目的地は、今、観測史上初めての悪天候に見舞われている……。


 少年はイトコ殿を水滴から守りながら、「こんなはずではなかったのにな」と溜息をつく。


 イトコ殿に渡す誕生日プレゼントというものは、もっとこう……可愛らしいぬいぐるみや、珍しい玩具、綺麗なアクセサリーや、楽しい絵本といったようなものだと思っていた。


 現に、大人たちはそのようなものをイトコ殿に贈っていた。


 なのに、どうして自分だけが……とぼやきたくもなる。


 大人たちが贈ったアクセサリーを、イトコ殿が嬉しそうに身につけている姿を見たときは、なぜ、その贈り主が自分ではなかったのかと、少年は腸が煮えくり返るような思いを味わったものである。


 イライラしている少年の額にポタ、ポタと大きな水滴が落ちる。


 それに誘われるように、少年は上を見上げた。

 巨大な枝が四方八方に伸び、みずみずしい色の葉が重なり合って天を覆っている。

 見事な大樹だ。

 草原のシンボルともいえる大樹には、雨宿りのために様々な小動物が集い、小鳥たちが枝で羽を休めていた。


 小鳥たちは忙しく枝を飛び交い、二羽、三羽と集まっては、楽しそうにおしゃべりをはじめていた。


 葉に落ちる雨音に混じって、小鳥の囀りが合唱のように聞こえてくる。



 あめ あめ あめ

 ポタ ポタ ポタ ポツ ポツ

 キラキラ キラキラ

 ポタ ポタ ポタ



 小鳥の囀りに混じって、幼い声が歌をうたう。

 鈴を転がしたような美しい声に、小鳥たちは耳を澄ませ、追随するようにさえずりを始める。


 色を失った無彩色の世界に、美しい調べが満ち溢れた。



 あめは とっても きれいなの

 あめは とっても キラキラなの

 おそらには いっぱい いっぱいの

 きれいがあるの

 キラキラがあるの



 イトコ殿の美しい歌声に、大樹の葉がさわさわと揺れ、小鳥たちは「チッチ」と喜び合う。


 葉から滴り落ちる水滴を払い除けながら、少年は目を細め、己の懐の中で楽しそうに歌うイトコ殿を見つめる。


「イトコ殿、寒くはないですか?」


 歌い終わったイトコ殿に、少年は優しく問いかける。

 小鳥たちの歌声と雨音はまだ続いている。


「ないでちゅ! お兄たまがいるから、へいきでちゅ! お兄たまはさむいのでちゅか?」

「わたしも大丈夫だよ。イトコ殿が温めてくれているからね」


 少年の優しい言葉に、イトコ殿の顔がぱあっと輝く。蒼い瞳がキラキラと宝石のように煌めいていた。


「そうなのでしゅか! わたくち、お兄たまの……おや、おやくそくにたてているのでちゅか?」

「お役に立てているのですか……だね」

「そうでちた! おや、おやく? に、にたててる!」


 覚えたての言葉を使って、一生懸命に伝えようとしている姿がなんとも微笑ましい。

 イトコ殿の周囲にいる者はみな敬語で接するので、幼児にその言葉は難しすぎるだろう。

 イトコ殿の柔らかな髪を撫でながら、少年はほのかに笑う。

 自分が笑うと、イトコ殿も笑ってくれた。


「……はじめてのおでかけだったのに、雨に降られてしまった。残念だったね」

「そんなことありまちぇん!」


 ぷくっと頬を膨らませて、イトコ殿は少年を見上げた。つんと尖ったちっちゃな口が、啄みたいくらいに可愛らしい。


「とてもすてきなおでかけでちゅ! わたくち、こんなにおおきなお空は、はじめてでしゅ! ソトノセカイというものは、オヤチキのおにわよりもひろいのでしゅね。びっくりちました!」


 予想していなかった幼な子の反論に、少年は驚いたような表情になる。


「お兄たま、こんなにおおきくて、りっぱな木がおそとにはあるなんて、わたくちはしりませんでちた! 雨にぬれたら、とってもさむいのも、はじめて……クチュン! クチュン!」

「い、イトコ殿?」

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