1-6.ヴァイオリン奏者

 優しげだったザルダーズの表情が一変し、明るい双眸に真剣な光が灯る。


 軽く両足を広げ体勢を整えると、ザルダーズは背筋を伸ばし、左手にヴァイオリン、右手に弓を持った。


 ラディアは息を止め、緊張した面持ちでその一連の動作を観察する。


 ヴァイオリンの先端を軽く左肩に乗せ、あごを乗せる。肩とあごでヴァイオリンを挟み、左手親指の腹と、人差し指の付け根でネックを支えた。


 始まりを待つ緊張の一瞬。

 凛とした空気が室内に充満する。


 流れるような動きで弓が弦の上に乗り、一呼吸の後、弓が滑らかに動きはじめる。


 のびのびとした美しいヴァイオリンの調べが、秘境の森の中に響き渡った。

 小鳥たちの囀りがヴァイオリンの音色に重なる。


 優雅でしっとりとした曲調から始まり、たっぷりと豊かな情景を奏でてから、軽やかなメロディへと変わっていく。


 ザルダーズが試奏として弾くのは『天上の鳥歌』というタイトルの曲だった。

 全ての弦をまんべんなく使い、高音から低音まで幅広い音域を奏でる曲なので、彼によると『天上の鳥歌』は試奏や練習曲には最適らしい。


 ラディアはこの曲が大好きだった。いや、ザルダーズが演奏する『天上の鳥歌』が大好きだったのである。


 ヴァイオリンを演奏するザルダーズは堂々としており、とてもカッコよかった。

 もちろん、プロのヴァイオリン奏者を目指していただけあって、演奏内容も文句なしに素晴らしい。


 昔――まだ幼い頃――ラディアはザルダーズがヴァイオリンの練習をしている時間帯に押しかけは、『天上の鳥歌』を聞きたいとねだっていた。

 いつもいつも同じ曲ばかりをリクエストする幼馴染みに、ザルダーズは嫌な顔ひとつせず、このヴァイオリン曲を何度も繰り返し弾いて聞かせてくれた。


 ふたりがまだ幼く、家族が元気で幸せだった頃の大事な思い出の曲だ。

 世界が光で満ち、毎日が笑い声にあふれていた頃の懐かしい曲。

 幸福の象徴曲だ。


 うっとりとした表情でラディアは目を閉じ、美しい調べに身を委ねる。

 汚れのない澄み切った旋律に、心が洗われるようだった。


 天上に住まう美しい鳥が地上に舞い降り、歌をうたう……という曲らしい。


 鳥が歌をうたいはじめるところで、不意に音が消える。

 音楽に溢れていた世界があっけなく壊れ、無音になった。


「……ザルダーズ?」

「すごいな。すごいよ、ラディア! 今までで、一番、素晴らしいヴァイオリンだ。いや、今までも素晴らしいヴァイオリンだったけど、これは……最高だ!」


 頬を紅潮させながら、ザルダーズが興奮気味に語り始める。


「木目も美しいし、色も素晴らしい。木を変えたのかな? すごいよ! 名器だ! これなら、ヴァイオリン制作コンクールに出品してもいいんじゃないか! だそうよ! エントリー費用ならオレが立て替えてやるよ。面倒な手続きだって、オレが代わりにやるから!」

「え…………?」

「それよりも、半年に一挺とかじゃなくて、できあがったヴァイオリンを全て見せてほしいな」

「いや……ザルダーズ。僕はコンクールとかそういうのは、ちょっと……。職人としてまだ未熟だし」

「ええっ? そんな……。ラディアのヴァイオリンはすごいんだぞ! なんで、そんなに自己評価が低いんだよ!」


 詰め寄るザルダーズから逃れるように、ラディアはヴァイオリンと弓を受け取る。


「ヴァイオリンを僕の代わりに売ってくれるザルダーズには感謝しているよ。でも、僕のヴァイオリンはまだまだだ」

「そんなことない! オレだけが言っていることじゃないんだってば! オレの言うことが信じられないんだったら、制作コンクールに参加して、評価してもらえばいいじゃないか! そうしようよ!」

「いや、それはやめておこうよ。ケースを用意するから待っててね」


 硬い表情で、ラディアは奥の工房へと足早に立ち去っていく。背中がこれ以上の会話を拒んでいた。

 ザルダーズはかける言葉が見つからず、力なく椅子に座り込む。


「どうして……どうして……オレのコトバはアイツに伝わらないんだろう」


 落胆とともに、ザルダーズの口から言葉がこぼれ落ちる。


 隣の椅子に置いておいた革鞄の蓋を開けると、中から革の小袋をとりだす。

 ずしりとした確かな重さが、ザルダーズの手に加わった。


 ラディアに渡す前回のヴァイオリン代だ。

 彼が色々と煩いので、販売手数料はちゃんと頂いている。


 ラディアは気がついているのだろうか。

 回を重ねるごとに、革袋の重さが重くなっていることを……。


 素晴らしいヴァイオリンを作りたいと励むラディアの想いを、理解してくれるひとたちがいるということを……。


 ザルダーズの顔がくしゃりと歪む。

 もどかしい。

 とても、もどかしくて、胸がジクジクと痛んだ。


 ラディアが大事な幼馴染みで親友だからではない。

 本当に、ラディアの手によって産み出されるヴァイオリンは素晴らしいのに、本人がそのことに気づけないでいることが悔しくてもどかしかった。


「どうしてだ……」


 どうして、ラディアは積極的に己のヴァイオリンを世に送り出そうとしないのだろうか。

 親友がなにを思ってヴァイオリンを作り続けているのか、ときどきわからなくなる。

 

 心に湧き上がった不安と不満を押し殺しながら、ザルダーズは暗い目で、親友が立ち去った先をいつまでも見つめつづけた。

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