第1章 ザルダーズ
1-1.スーツ姿の若者
人の侵入を拒絶する深い森のさらに奥まった場所。
そこに小さな木造の小屋があった。
小屋の前にある少し開けた場所は人の手が入っており、ささやかながらも小さな畑となっている。そこには小屋の住人が食べるための野菜や、ハーブが植えられていた。
畑の側には実のなる木が何本か植わっており、今の季節は色とりどりの花を咲かせている。
その木の下では白い大きな犬が寝そべり、ヤギの親子が雑草をもしゃもしゃと食べていた。
「コココッ!」
「コケーッツ!」
と、鳴きながら雄鶏と雌鶏が、バサバサと派手に羽を動かしながら庭を横切っていく。
「やれやれ。やっと着いた……ぞ」
男の声の後に、ガサゴソと草をかき分ける音がつづく。
白い犬が一瞬だけ目を覚まして音の方角を探るが、興味がないのか、大きなあくびをひとつして再び眠り始める。
ガサガサ、ゴソゴソと草むらの一角が激しく揺れ動き、その中からスリーピーススーツを着こなした若者がひょっこりと姿を現す。
革のショルダーバックを左肩から斜めにかけ、左手にはロープを握っている。ロープの先には、たった今、若者が素手で仕留めたばかりのジャイアントラビットが五羽ぐるぐる巻にされて繋がっていた。
スーツ姿の若者は、葉っぱまみれになりながら、広場の先にある小屋を目指す。
若者が歩くと、血抜き処理が施されたジャイアントラッビットがずりずりと地面の上を引きずられて、いっしょに移動していく。
ジャイアントラビット……兎の魔物にしてはかなり凶暴で身体も大きく、それなりに大味なのだが、下処理さえしっかりすれば、食べるには問題ない。……と一般には云われている。
毛皮も色々な使い道があり、森で暮らす人にとっては、重宝すること間違いなしだ。
今から小一時間ほど前の話だ。
若者が友人の家の前に転移しようとしたのだが、なぜか移転先はジャイアントラビットの群れの中だった。
そして、お約束どおりの展開で、若者はジャイアントラビットに襲われた。
不意打ち同然の展開には驚いたが、所詮は兎の魔物。高等教育を受けた若者の敵ではなかった。
一瞬で五羽を倒したところで、力量の差を悟ったジャイアントラビットは、脇目もふらずに一目散に逃げていく。
逃げる弱者を追いかける趣味は持ち合わせていないので、若者は仕留めた五羽のジャイアントラビットを血抜き処理すると、目的地を目指して道なき道を歩き始めた。
滋養のある食材ゲットで、この小屋の主にはいい手土産になっただろう。
これなら過度の援助を嫌がるアイツでも、受け取ってもらえる。
きっと、アイツは久しぶりの肉だと、泣いて喜んでくれるに違いない。
そんなことを思い描きながら、若者は小屋の方角を探りつつ、森の中の獣道を進んだ。
「それにしても……相変わらず辺鄙な場所だな。おまけに磁場が悪い。転移魔法の失敗率が異様に高すぎるのも気になる。なんで、目的地にダイレクトに跳べないんだ? しかもたいがい、なにかの魔物の巣の中に転移するって……どう考えてもおかしいだろ?」
もしかして、アイツは人よけの妨害結界でも貼ってあるのか、と思ってしまう。
「うわっと!」
木の根に躓き、転びそうになりながらも、スーツ姿の若者はなんとか踏みとどまる。
このなんでもない木の根っこも、侵入者を追い返すための悪質なトラップではないだろうか……と、若者の疑心はどんどんふくらんでいく。
「なんとかならないのか。いつも思うんだが、ここはどう考えても、少し……いや、めちゃくちゃ不便すぎるだろ。そもそもヴァイオリンづくりにしか興味がないアイツがなんで、どうやってこの森で自給自足ができるんだ? 流行のスローライフというより、サバイバルライフだろ!」
ブツブツと文句を並べながら、若者は小屋の前でいったん立ち止まると、頭や肩についている木の葉を自由な右手で払い落とす。
ついでに落ちかかっていた前髪を手で後ろに撫でつけ、乱れた髪と服装を整え直すことも忘れない。
彼はまだ若い。
二十代の半ばといったところなのだが、仕立てのよい高級スーツを嫌味なくきこなしている。
柔らかい眼差しに、優しげな口元。よいところのお坊っちゃまを具現化したようなぼんやりした容貌と、左手の先にあるジャイアントラビットの死骸が、なんともアンバランスである。
明るい茶色の髪が、日の光を浴びて、キラキラと輝きを放つ。
少しくせっ毛があるようで、襟足部分がくるりんと跳ね返っている。
本人はくせ毛だと主張しているのだが、周囲には寝癖だと思われているのが、少しばかり納得できないでいる。
彼は若き実業家だった。
某王国の王族につらなる血筋の家に産まれ、非常に有名な貿易会社のオーナー社長だ。
会社は親から譲り受けた……というか、両親と三人の兄を病で相次いで失い、彼しか家督と残された会社を継ぐものがいなかったのである。
音楽家志望だった彼に、突然訪れた人生の転換期。
流行り病であっけなく家族と将来の夢を奪われてしまったのだが、残された家名や屋敷の使用人、父が経営していた会社の従業員らを護るためにも、彼はすっぱりと夢をあきらめ、遺産と地位を受け継いだ。
若者の父が経営していた会社は、異世界間の珍しい品物を卸す貿易会社だった。
三人の兄が健在だったころは、事業だの、異なる世界をいくつも相手にした貿易取引だのといったことには全く興味がなかった。ところが、やりはじめるとこれがなかなかに面白かった。
性に合っていたのだろう。
スタート時こそ赤字だったが、その後は不思議なことに成功続きの連続だった。
あっという間に、若者がかかわった事業は倍々で拡大していき、資産は莫大なものとなった。
その結果、若者は業界ではそこそこ名の知れた若き経営者として通るようになっていた。
巨万の富をなしえた成功者として複数の世界から注目を浴びても、若者に偉ぶったところはみられない。
社長室にふんぞり返ることはせずに、従業員とともに働き、取引内容によっては、自ら現場に脚を運んでいる。
スーツ姿の若者は小屋の階段を軽やかに登り、入口前のデッキスペースに向かった。
逸る気持ちをおさえ、軒下から吊るされている木槌を手にとり、備えつけの板木を叩いた。
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