しもてつがく

芥子菜ジパ子

しもてつがく

 午後十時。眠いけれど流石にまだ眠るのは惜しい、と炬燵でぼんやりとしていた私の脳は、何故か唐突に動き出し、下ネタについて考えを巡らせ始めていた。


 (あくまで数字の問題であるという前置きをしたうえで)うんこネタは或る程度性別や年齢を問わずに笑えるものとして扱われているのに対し、何故パンツの中身の性的な――それこそ「文字通りの下ネタ」ともいえる――ネタはあれほどまで人によって好き嫌いが分かれるのだろうか。パンツの中身の話に対して拒絶反応を示す人間は、結構多い気がする。

 というわけで、今日は眠い頭で小一時間ほど思考をこねくり回して到達した、およそどうでもいい結論を、「ここまで時間を使ったのだから、そのまま私の海馬に置いておくだけにしておくのは、なんだか勿体ないじゃないか」という、凡そ

馬鹿馬鹿しい理由で、ここに書き残しておこうと思う。


 うんことパンツの中身を隔てるものは、一体何なのだろう。両者の間に横たわる決して浅くはないものの正体は、「生きた個」の存在なのではないだろうか。そう私は考える。つまり「私」という存在が、哲学的に横たわっているのだ。

 うんこはパンツの「外」で発生する事象であり、なんならレバーひとつ、ボタンひとつで簡単に水に流すことのできる些末さまつなものである。「個」から切り離された「ただのばっちいもの」に過ぎない。うんこネタがなんとなく市民権を得ているのは、まさにここにあると、私は考える。うんこは「個」による差異がさほどない、「ある種の普遍の真理」なのではなかろうか。うんこには、徹底した客観視の末のばかばかしさとおかしさがあるのだ。

 では一方で、パンツの中身の話はどうか。パンツの中身は肉体の延長だ。「個」から切り離されてはいない。「生」と直結した「性」である。物理的にも心理的にも「個」と密着しているものだ。結果、パンツの中身の話には「個」を感じさせる生々しさが存在する。してしまう。「個」が存在するということは、「人それぞれ」が存在するということである。故に、「人によって」の笑えたり笑えなかったりが発生しやすくなるのではないだろうか。


 うんこネタは一般的に小学生の笑いなどと言われるが、その理由のひとつに、第二次性徴前の「個」の意識への未熟さがあるのではないかと、私は考える。第二次性徴前の小学生たちは、パンツの内の己の肉体をさほど意識してはいない。パンツの中に収まっているのは、ただのうんこやしっこを外に放つための「パーツ」でしかない。無関心だ。無関心だからこそ、自分の肉体から切り離されたばっちいものだけが、おかしく見えて笑うのだ。

 そうしてゆくうちに、彼ら彼女らはやがて、パンツの中身とは究極の「個」であり、パンツの中に「秘めなければならないもの」なのだと知る。秘密を暴きたくなるのは、人間の、それこそ「さが」だ。しかしそこには「倫理」や「道徳」が立ちはだかる。それ故我々は、それらへの罪悪感を誤魔化すかのごとく、「秘められた究極の個」に向かってゆく――向かっていってしまう己の好奇心を、笑いの形で昇華しようとするのだろう。同時に、だからこそ、「個」から切り離されたうんこに回帰し、安心して笑うことができるのだ。

 

 よく「(パンツの中身の)下ネタはセンスを問われる」という言葉を聞くが、それはきっと「圧倒的存在感と生々しさを放つ『個』をどれだけ切り離すことができるか」という意味なのだろう。パンツの中身で笑うには、パンツを脱ぎ捨てるのではなく、パンツをその中身諸共切り離し、徹底した客観視を行わなければならないのだ。それは確かに容易なことではない。けれどそれを可能にした時、人は、人としてより善く生きるために必要な「己の客観視」、ひいては「己との対話」という哲学の基本に到達するのではないだろうか。


 うんこを笑いつつ、パンツを切り離す――下ネタにも、確かに哲学は宿っていた。この結論に私は歓喜し、安堵し、そして脇に置いたままにしていた眠気を思い出して、いい加減寝ようと思ったのであった。

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しもてつがく 芥子菜ジパ子 @karashina285

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