『桜の花が朽ちるのを待ちきれなかった男』

小田舵木

『桜の花が朽ちるのを待ちきれなかった男』

 人と人には距離がある。埋めがたい距離が。

 それは脳と脳が別だという風に言うことも出来る。

 意識は脳によって別で。頭蓋骨と頭蓋骨で隔てられている。

 

 意識、即ち世界。

 僕たちは違う世界に住んでいる。

 あまり、こういう事に関心のない人は、同じ世界を見ている、なんて言うだろうが。

 個々人の脳が解釈する世界には個人差がある訳だ。

 例えば色覚。君と僕の赤色は一緒なのか?

 可視光スペクトルの610nm〜700nmの波長の光、それが赤だが。

 君と僕の網膜の錐体細胞から脳の視覚野に至るまでには差がない訳ではない。

 同じ赤を見て、同じ赤を感じながら、全く違う色を見ている可能性がある訳だ。

 

 僕と君は。

 同じ世界に生きながらも。

 脳を介して世界を解釈するから、個人の世界間には確実な差がある。

 僕はそこにもどかしさを感じる。

 君の世界の僕は。どういう人間なのだろうか?

 

 きっと。都合のいい人間なのだろうな。

 僕はそう思う。

 なにせ、彼女のワガママに付き合って来たのだから。

 それとも?

 赤の他人とそう変わりはないのだろうか?

 

 

 

 なにせ。君はずいぶん昔から寝たきりなのだから。

 詰まらない事故だった。単純な事故。

 よそ見運転の車が君を跳ね飛ばして、君はしたたか頭を打った。そして意識を無くした。

 

 僕はベッドサイドの椅子で静かに君を見守る。

 病室の窓からは桜が散りゆくのが見える。

 季節は無情だ。君を置いてきぼりにして巡っていくのだから。

 いいや。季節だけが無情なのではない。僕もまた、君を置いてきぼりにして人生を歩んでる。

 

 あの事故に。僕の責任はない。

 なにせ、僕と別れた先で事故に遭っているのだから。

 だが、僕は毎度の事考えてしまう、意識が何処かに行きがちな彼女を放って帰った自分の愚かさを。

 

 事故から数年とうが。もう学校もクラスも一緒じゃなかろうが。

 未だにこの病室に足を運び続けているのは。

 僕の中に彼女に対する罪悪感があるからだろう。

 あの日の帰り道、僕と彼女は詰まらない事で喧嘩をして。

 いつもなら一緒に帰る道をたがえた。

 

 運命の岐路きろ。それが彼女と僕の喧嘩。

 なんで喧嘩をしたかは覚えていない。

 ただ。彼女は拗ねてしまって。

「もう良い。一人で帰るから!」と違う道へと消えていった。

 僕は僕で。

「勝手にしろよな」と捨て台詞を吐いた―それだけは覚えている。

 

 あれが小6の頃の話で。今や僕は17になってしまい。

 5年が経とうとしている。

 だが。彼女の意識が戻る気配はない。

 

 ベッドサイドの生命維持装置たち。

 それが彼女がまだ生きているんだって、知らせてくれる。

 心電計のリズム。それが無かったら、僕は彼女の生の兆候を見いだせないだろう。

 

 白色に満たされた病室。

 その中央のベッドで、白いパジャマを着たまま眠っている君。

 僕はいつも、この色合いに滅入ってしまう。

 まるで棺桶の中みたいなのだ。

 世界ってのはもっと雑多な色で溢れていて、秩序がないものだ。

 だが。この病室は白で統一されており。

 僕は別の世界に入り込んでしまった錯覚を覚える。

 世界の主は眠りについたまま。もしかしたら―永遠に目覚めないのかも知れない。

 

 僕はいつまで此処に通い続けるのだろう?よく考えてしまうことだ。

 事故から5年。思春期の5年は大きい。

 僕は。あの頃とは随分ずいぶん変わっちまった。

 背が伸びて、声変わりして…もし、彼女が目覚めたところで小学生の頃の僕と同一人物と識別出来ない位に。

 

 僕はたまに思う―そっと。彼女の人生から、世界から消えてしまおうかと。

 だが。罪悪感がそれを止める。

 こうして5年を過ごしてきた。

 

                  ◆

 

 彼女の病室を後にして。僕は病院を出る。

 その際に切っていたスマホの電源を入れて。

 通知欄を確認。メッセージアプリに無数のスタンプと着信。

 …美咲みさきか。

 僕はメッセージアプリから電話を掛ける。数コールで彼女は出る。

 

「…何してたのさ?」電話口の美咲は言う。

「言うまでもない。いつもの儀式だよ」

「彼女の病室に行っていた、と」

「そう」

「…君は私の彼氏なんだけどなあ。他の女の部屋に通いきり」

ゆうとはそういう関係じゃない」

「しかし。君は通い続けている」

「何度も話したろ、僕と彼女の喧嘩さえなければ―」

「事故に遭ってなかったかも知れない」

「そう。僕には。罪悪感があって。それを拭いきれない」

「でも。彼女は―もう戻ってこないかも知れない」

「だな。でも。僕は優を見守る責任があるような気がして」

「もう5年だよ?いい加減にしても良い頃じゃない?」

「されど5年。たかが5年、たった5年だ」

「譲る気はない訳ね」

「ああ。この罪悪感がある限り、僕は優の病室に通い続ける」

「…選ぶおとこ間違えたかなあ」

「かも知れない」

「そこは言い訳してよ」

「言い訳しようがないんだよ。付き合う前に説明したろ?」

「そりゃそうだけどさ…妬けちゃうんだよね」

「済まん。だがまあ。優とは恋する以前の関係だ。美咲とは違う」

「なら―まあ。許す」

「さいですかい」

「えーっと。なんで電話してるんだっけかな」

「知らないよ」

「…ああ。そうだ。桜でも見に行こうって誘おうと思ってね」

「良いよ。今週末に行こうや」

 

                  ◆

 

 僕と美咲は。連れ立って歩く。桜が満開の公園を。

 淡いピンク。その花びらを僕はじっと眺める。

 

「美咲、あの桜の花さ。何色に見える?」僕は尋ねてみる。

「…淡い桜色」隣を歩く美咲は言う。

「まんまだな」

「そうとしか形容出来ない」

薄紅うすくれないって言い方もあるぜ?」

「薄紅ってのはもっと赤みが濃いピンクだよ」

「そうなのか?」

「紅って語が入ってるでしょうが」

「言われてみればそうだな」

「君は色彩感覚がないねえ」

「そりゃ男だからな」

「詰まらないセクシャル論でモノを言わない」

「へいへい」

 

 僕と美咲は公園の広場に着いて。

 持ってきたレジャーシートを広げて。そこに座り込む。

 満開の桜が僕らを包み込む。 

 僕と美咲はなんとなく桜を眺めて。

 お互い黙ったまま。

 美咲は何かを言いたげで。でも僕はえて促さない。

 

 桜の花は僕たちの頭の上ではらりはらりと舞う。

 散りゆく桜。

 そこには人生のメタファーがある。

 僕たちはふっと散る桜の花のように生きている。

 たまに他の桜の花と触れ合うが。基本的には一人だ。

 そして。他人とは隔てられている。

 例えば。美咲が今、何を思っているのかは僕には分からない。

 

「…君はさ。いつまでも優に囚われたままだね」彼女は言う。

「しゃあない。あんな事があったんだ」

「私は―そんな君をじっと見てきたよ?」

「何気に。美咲との付き合いも長いもんな」優と僕と美咲は同じ小学校出身だ。

「いつも君の側に優が居て…正直うとましかった」

「その頃から。君は僕を?」

「まあね。喋った事も無かったけど」確かに小学生時代に美咲と喋った記憶はない。

「美咲は女の子とつるんでばかりだったもんな」

「そそ。君に話しかける勇気が無かったんだね」

「それが今やって訳かい」

「…優が居なくなって。君に話しかけやすくなったんだね」美咲は目線を落としながら言う。

「そりゃ…そうかもな。確かに。僕と優はべったりだったから」

「私には一生チャンスが巡ってこないかと思ってた」

「ところがどっこい、世の中は何が起きるか分からない」

「私はツイてる…って言い方は優には失礼かもだけど」

「ん。まあ、失礼かもな」

「私はね。優が居ない間にさ、君の心を掴んでしまいたい」

「…そっか」僕はそうこたえる事しか出来ない。

「君がね。優を大事に想っている事は知ってる。でも。私はそれに勝ちたいんだな」

「僕の中では。優は恋愛相手にカテゴライズされていない」

「それはさ、小6の頃に別れているからだよ」

「そうなのかも―知れんなあ」

「私は怖いよ。優が何時目覚めるか。こういう事言っちゃ悪いけど」

「その可能性は低い。限りなく低い。前頭葉に重大なダメージを負ってる」

「希望は捨てちゃ駄目だよ。可能性はゼロじゃない。だから私は恐れている」

「アンビバレンスな心持ちで」

「片や人として優の目覚めを望み、片や恋敵として優の目覚めを望まない…私って嫌な女かな?」

「人だ。しょうがないさ。そういう風に考えちまうのも」

「これさえなければ。優が事故に遭ってなければ。私はストレートに君を愛せるって言うのに」

「その時、僕はどっちを選ぶんだろうな?」

「それを私にく?私は私を選べって言うよ」

「ありがとな、こんな僕を好きで居てくれて」

「惚れちゃった弱み。なにせ小学生からの恋だから」

「惚れた腫れたは理屈じゃない訳だ」

「理屈に出来ていれば。もっとクレバーな愛の表現をすると思う」

 

 僕と美咲は。空を眺めて。散りゆく桜を目で追って。

 儚く過ぎゆく季節を思う。

 こうやって。時は過ぎていく。優だけを置いて。

 

 僕と美咲には未来がある。

 …優にも未来はあるが。それは閉ざされたままだ。

 残された我々は。我々だけで未来を歩んでいく他ないのだ。

 

                  ◆

 

 幾度、桜が咲き、散っただろうか。

 もう僕は26で。事故から14年。

 僕は未だに病室に通っているが。

 優はあの頃と殆ど変わっていない。

 僕は疲れたサラリーマンになって…今度は美咲と結婚する。うん。付き合って9年。そろそろ頃合いという訳だ。

 

 優の意識は、世界は。14年前で止まっている…と思う。

 君の意識が止まっている内に。僕たちは歳を取っちまい。

 その分、世界は進んでしまったのだ。

 

 帰ってこない優を。

 これ以上待っている訳にもいかない。

 僕は贖罪をしに此処へ通い続けるだろうが。

 実質的には君を置いていく。

 君を置いて、人生を歩み続ける。

 

 もう。君の世界に。意識に。触れる事はないだろう。

 この部屋に封印された君は。

 このまま埋もれていく。

 僕はそれを思うと複雑な気持ちになる。

 

 多分。僕は優が好きだったのだ。

 そして。そんな優を事故に遭わせた自分が許せなかったのだ。

 だから僕は。この14年間、足繁く此処に通い続けた。

 

 だが。

 そんな気持ちともお別れだ。

 僕はもう耐えられない。帰ってこない者を想い続けるのは。

 側に居て愛してくれる美咲を裏切り続けるのは。

 

 病室の窓を見れば。桜が散って。

 その花は地面に落ちていく。

 地面に落ちた花びらは。いつか朽ちて、土と化す。

 優という花びらが。朽ちる日まで僕は耐えられなかった。

 ただ、それだけの話だ。

 

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『桜の花が朽ちるのを待ちきれなかった男』 小田舵木 @odakajiki

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