第9話
*現代日本にいるアイの体の中に入れ替わったアリシアです。
アリシアが目を覚ますと真っ白い天井が目に入った。自分の寝室のように古いシミがついた汚い部屋ではない。
真っ白で新しく見えるが無機質な天井にアリシアは戸惑った。
(ここはどこだろう?)
目だけを動かして周囲を見ると、得体の知れない管につながった針が自分の腕に刺さっている。周囲には見たこともない四角い機械が、見たこともない文字を映し出している。しかし、見たことないはずなのに不思議とそれらの文字の意味は分かった。
(……これ!?なに?夢?)
目が覚めても夢が続くことはあるのかもしれないと自分に言い聞かせて、まずは現状を確認することにする。
アリシアは常に慎重な性格なのだ。
試しに腕をつねってみた。
うん。皮膚の感触も軽い痛みも現実感がある。
ギュッと瞼を閉じて十数えた後、またパッチリと目を見開いてみたが、景色が変わることはない。
頬を物凄く強くつねってみても変わらない。そして、その痛みはこれが現実だと受け入れざるを得ないものだった。
身体を動かさずにキョロキョロと顔と視線だけを動かす。部屋は広くはないが清潔で埃一つ見当たらない。壁の隅に鏡のようなものが見える。
(鏡を見たい)
何故なら視界にチラリと入る自分の髪が茶色がかった真っ直ぐな黒髪なのだ。アリシアの髪はハニーブロンド。蜂蜜のようなトロリとした金色にフワフワの猫毛のはずなのに。
肌の色も手の形も微妙に違うような気がする。
鏡を見ると自分の姿が確認できるだろうが、直感的に自分の体はもはやアリシアではないのかもしれない、と思った。
満月の夜に井戸に入ると別な世界に行けるというのは本当だったのかもしれない。違う人間に変化するというのは予想していなかったけど……。
私の元の体はどうなったんだろう?
……直感だが、死んではいない気がする。
何故別人になったのかは全く分からないが。
その時にガチャリとドアノブが回る音がして、白い服を着た女性が入ってきた。きびきびとした動きに不思議と安心感を覚える。
彼女はアリシアの視線に気がつくと、驚愕に目を瞠った。
「小山さん!目が覚めたんですね!良かった!すぐにお母さんに連絡しますから!」
(お母さん?こやまさん?一体ここはどこなんだろう?)
アリシアは溜息をついて白い天井を見上げた。
*****
「アイ!!!!」
しばらくすると廊下を走るバタバタした足音が聞こえて、バタンと扉が開いた。
「大丈夫!?アイ!目を覚ましたって……」
叫びながら顔を強張らせた女性は、赤ん坊を布製のハンモックのようなものに包んで肩から掛けている。
それがこの世界で赤ちゃんを運ぶのに使うスリングというものだというのは後から教えてもらった。
中身はアリシアのアイ(ややこしいので今後はアイと呼ぶ)は、ゆっくりとその女性を観察した。
三十代半ばくらいの女性は喜びと不安を瞳に滲ませている。
(私はどうやらアイという人間で、この人は母親なのね)
そう予想したが、母親にしては娘を見る視線に怯えが見え隠れしていてアイは憂鬱になった。
目を合わせるのが怖くて下を向く。
(このアイという女の子も家族と上手くいっていなかったのかもしれない……)
その時スリングの中で眠っていた赤ちゃんがふぎゃぁと泣き声をあげた。
「あら・・・赤ちゃんが・・・」
心配になって、つい指を赤ん坊の方に伸ばすと母親が信じられないという顔でアイを睨みつけた。
「な、なにしてるの!?」
「いえ、赤ちゃん、腕が痛いのかなって……ごめんなさい」
赤ん坊を見ると確かに腕がスリングの中で変な方向に押しつけられているようだ。急いで走ってきたので布がずれてしまったのかもしれない。
姿勢を直すと落ち着いたようで、赤ん坊は再びスヤスヤと寝息を立て始めた。
「……なんで?なんで!?今まで妹のことなんてずっと無視してたのに!?」
母親が震える声で訊ねた。その剣幕の激しさにアイは何かいけないことを言ってしまったのかと後悔する。
「あの、差し出がましいことを言ってしまったら申し訳ありません。赤ちゃんが苦しそうだったのでつい……」
「あ、あんたがそんな話し方する訳ない!?あんた!誰よ?!」
半狂乱で叫ぶ母親にアイは頭を抱えたくなった。
(正直に説明するしかない、でも信じてもらえるかしら?)
*****
母親は何度も額の汗を拭いながら、赤ちゃんを優しく揺する。
椅子を勧めても座ろうとしない彼女は話をしている間中、ずっと顔面蒼白だった。
ただ、赤ちゃんに触れる手は優しいままだ。
(きっと優しい人なんだと思う。でも、私の話を信じてくれるかしら?)
アイは緊張しながら自分が経験したことを正直に説明した。
母親の話だと、満月の夜にアイは月詠池という池に落ちたんだという。
(もしかして、この世界が繋がった瞬間に、同じタイミングでその通路となる井戸と池に落ちてしまったから?)
あくまで仮説にすぎない。それが間違っている可能性も十分にある。アイは慎重に言葉を選んだ。
というより、アリシアは井戸に突き落とされたら、アイという全く別人になって目を覚ましたのだ。自分でも訳が分からないし話せる材料も少ない。
「・・・頭を打ったのかもしれないわね」
分かる範囲で正直に説明したのだが、母親はそう独り言ちると部屋から出て行った。
アイははぁっと溜息をつくと自分の腕に刺さっている針を抜いて立ち上がった。
体中の骨が軋むような痛みを感じる。
転ばないようにそろそろと部屋の隅にある鏡に近づいた。
鏡を覗き込むとそこに立っていたのは十代半ばくらいの女の子だった。茶色がかった真っ直ぐな黒髪がサラリと胸にかかる。大きな瞳は茶色がかった黒だが光の具合で微妙に緑っぽく見えることもある。化粧っけのない肌には透明感があり、まず美少女と言っても通用するであろう容姿だった。
しかし、明らかにアリシアではない。
窓の外に見えるゴチャゴチャした風景も今までの世界とは全く違う。
(本当に異世界に来ちゃったんだ・・・)
アイはどうしたら良いのか分からなくなって肩を落とした。
***
その後、バタバタと何かを喚く母親と眼鏡をかけて白衣を着た中年男性が現れて、アイは色々な検査をされた。
ウィンウィン変な音がするチューブのような機械の中に全身入れられたり、「はい、息を止めて」「こっち向いて」とかよく分からない指示をだされたりしたが、アイは素直に指示に従った。
従順でいることは彼女が幼い頃から培ってきた処世術だ。あの継母に逆らったら、酷い罰が待っていた。
全ての検査が終了した後、アイは眼鏡の男の質問に正直に答えた。
「脳波には異常はありません。CTやMRIでも異常は見られませんでした。ただ・・ショックで記憶障害が起きているのかもしれません。本で読んだことや夢を現実と混同してしまっている可能性があります。退院して元の生活に戻れば自然に治るでしょう。直らなかったら今度は精神科を受診して下さい」
笑顔で宣う男に母親は「でも、この子はうちの娘じゃないんです!」と食ってかかったが「大丈夫ですよ。案外、母親の愛情不足が原因かもしれませんよ」と言われて、グッと口ごもり目を赤くした。
その数日後にアイは退院することになった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。