イン・ザ・ボート

砂糖 雪

転校生

 まるでテーマパークのように騒がしい教室の片隅で、僕は窓越しに見える陽気な春の景色を、ぼんやりと眺めていた。教室の外では、雲一つ見当たらない青空に白々しく光る太陽がポツリと浮かび、校舎の隣にある公園に植えられた桜の木々と花々が、その光を全身に浴びて燦々と輝いている。

 少し目を細めて見ると木々の隙間からは、公園を歩く人々の姿が見えた。その姿には、ベビーカーを押して歩く若い女の人や、手を繋いで仲睦まじそうに歩く老人夫婦など様々なものが確認出来るけれど、彼らはみんなのんびりとした歩調で歩いていて、どこか間延びした春の鈍臭さを体現しているようだった。

 それはもちろん悪いことではなくて、むしろ平和の象徴であり賞賛すべき光景なのだろうけれど、僕にとっては手の届かない縁遠い景色に思えて、一つ小さなため息をついた。


 聞き慣れた甲高い音のチャイムが鳴ると、扉がガラガラと開き田中先生が入ってくる。と言ってもそれを見ているのではなく、それは先生の靴の音で分かる。僕は相も変わらずぼんやりとして、寝ぼけ眼を擦りながら、窓の外の景色を眺めていた。

 しかし、さっきまで騒がしかった教室がパタリと静まり返ったので、僕はちょっと面を食らって教室の前に向きなおった。ホームルームの時間におしゃべりが止んだことなど、これまでには無かったからだ。

 

 そこにはいつも通り、無精髭を生やしっぱなしにしていて、気怠そうな顔をしながら禿げかかった頭をポリポリとかく先生がいたが、その隣には見知らぬ一人の女子生徒が立っていた。

 彼女は見るからに外国人らしく、彫刻のような白い肌に加えて、艶のあるブロンドの髪が、肩から背中に流れるくらいまですうっと伸びていた。瞳は湖のように深い青で、その水面は光を反射してきらきらと輝いているように見えた。

 彼女の背丈は先生よりも高く、けれど腕や脚はずっと細くて、モデルのようだった。また、その顔立ちからは彫りが深くて力強い、芯のある印象を受けるのに、反面その表情には、少女のようなあどけなさを含んだ微笑が湛えられていた。

 

 彼女は客観的に見て、あまりに美しかった。それは、お世辞にも身だしなみに気をつかっているとは言えない田中先生の隣に立っていることで、より際立っていた。

 いや、たとえこの教室にいるどの人間が隣にいたとしても、その印象は変わらないだろう。まるで彼女の周りの空間だけが別世界から切り取られて、取りつけられたように思われるほど、この教室での彼女の存在は異質なものだった。

 それで生徒たちはいま、僕を含めて彼女に視線が釘付けになっていた。

 先生だけは例外のようで、いつもと同じ覇気のない声でホームルームを開始した。


「転校生のアリサさんです。アリサさん、自己紹介をお願いします」

 先生は特別調子の変わらない様子で彼女のことをそう紹介した。

 彼女は、先生に手招きされると前に一歩進み出て、教室の、自分を覗き込んでいる顔を興味深そうに、まるで年端もいかない少女のような、無垢で好奇心に溢れた表情で眺め返した。

 そしてそれから再び、さっきまでのと同じあどけない微笑を作りだし、一度、深くお辞儀をした。彼女の髪がふわりと少し浮かび上がるようにしてから、パラシュートのようにゆっくりと落ちた。随分長く伸ばしているらしく、頭を下げている状態では危うく教室の床に髪が付きそうな程だった。

 

 しばらくすると彼女は顔を上げて、

「はじめまして、アリサです。産まれはモスクワですが、三歳の頃から日本で暮らしているので、日本語は問題なく話せます。皆さん、これからよろしくお願いします」

 と言った。流暢な発音だった。

 手短な自己紹介を済ませると、彼女はもう一度深くお辞儀をして、それから先生に教室の後ろの空いている席を指さされ、ゆっくりと歩き出した。


 彼女がこちらへ向かってやってくる。僕は思わず彼女から目を逸らし、再び視線を教室の外へと向けるように努めた。僕の隣の席はしばらく空席になっていたから、彼女がここに来るだろうという事はすぐに予測が出来た。

 けれど、そのことに対する心の準備はまだ出来ていなかった。心臓の鼓動が露骨に早まるのを感じ、その音が外まで漏れ出てしまわないかと、僕はどぎまぎして、一度深呼吸をした。

 それから僕は、平静を装った作り顔で、出来るだけ遠くの方の景色を見るように努めた。もしかしたらそれは、下手くそでぎこちない物だったかもしれないけれど、とにかく向こうから僕の顔は見えないのだから問題はないと、自分に言い聞かせた。

 しかしすぐに、そんな風にわざとらしく顔を逸らすほうが不自然だという、至極当然のことに気が付いた僕は、急に一人で恥ずかしくなって、耳が熱くなるのを感じた。

 

 彼女がイスを引き、腰を下ろす。その動作によって、辺りには桜の花びらのように甘ったるい香りが、ふんわりと漂った気がした。

 彼女が着席すると、映画館のように静まり返っていた教室内は一転して、また元の喧騒を取り戻した。もちろん、皆の話題は彼女のことだった。

「モデルさんでしょ?」

「てかまじ可愛くない?」

「可愛いっていうか、美人じゃね」

「ねえねえ、いつからこっちに越してきたのー」

 彼女の周りをクラスの女子たちが取り囲み、矢継ぎ早に質問を投げかける。無遠慮な女子の群れは、僕の席のところにまでほとんど浸食しかけていて、ここに僕がいることなどには、まるで気が付いていない様子だった。

 彼女は、うんうんとしきりに頷きながら、四方から飛び交う質問を一つずつ取り出して、丁寧に答えていった。

 彼女の話し方には、分別と落ち着きがあり、およそ高校三年生とは思えない才識さが醸し出されていたが、また一方で、さっきその表情に見出した無垢さをも兼ね備えていたため、それが不思議な魅力を作り出していた。

           

 膨らんだ喧騒の中でホームルームの時間が終わり、一限の坂田先生が入ってくると、彼女を取り囲んでいた女子の群れはあれこれ言いながら、とぼとぼと自分たちの席へと戻っていった。

 女子たちのことを見送ると、彼女は突然僕の方を向いて、手を差し伸べた。

 それから、さっきまで教室の前で作っていたのと同じ笑顔で、

「これからよろしくね」

 と言った。

 そうして差し出された手を、僕は受け取れないでしばらく眺めていた。シルクのヴェールのようにやわらかく、透き通るほどの白い肌。

 近くで見ると彼女は、精巧に作られた人形みたいに、あまりにも完成された、どこか非現実的なほどの美しさを持ち合わせているように見えた。

 僕が緊張して何も言えないでいるのを見ると、彼女は手を口の所に当てて、静かにくすくすと、笑った。

 その笑い方はさっきまで彼女が作っていた、良くできた、よそ行きの、世界のことをほとんど何も知らない少女のような微笑ではなく、もっと大衆的で、人を小馬鹿にするような、現実的な微笑だった。

 さっきまで天使のごとく空を優雅に舞っていった彼女は、僕の前では自身で身に着けた仮面を捨て去り、地に足をつけた、人間としての姿を露わにした。

 その現実に僕は、とても安心することができた。

 だって、彼女がこのまま天使として僕に接していたのなら、僕はきっと彼女という存在の泥濘の中に際限なく埋もれていき、息も絶え絶えとなり、果てには願望と諦観のあぶくを吐きながら沈み、彼女の光を見上げることしかできなかっただろうから。


 その日は休みの間中、彼女の話題で持ちきりだった。女子の群れは膨らんで、クラスの皆が彼女の話を聞きたがった。僕の席は押しやられて、パーソナルスペースは浸食された。それで僕は仕方なく休み時間に購買に行って、何かを買うわけでもなく、ただぼんやりと惣菜パンやお菓子を手に取って眺めてみることで、なんとか時間をやり過ごすことにした。

 三限目の休みにはさすがに購買のおばさんも、僕のことを訝しんで見ている気がしたので、僕は桜味のグミを一つだけ買って、ほとんど感傷に浸る気分になりながら幸せと苦しみの両方の味を噛み締めていた。


 授業が終わる頃には、クラスの皆もだいぶ彼女についての情報を収集しつくして、満足した面持ちだった。耳を塞いでも漏れ聞こえてくる彼女についての情報では、彼女の家庭がシングルファザーで、父親は日本人だということ。母親は彼女が幼い頃に病気で亡くなったということ。父親が転勤族で、引っ越し続きだということ、などがあった。

 そんな上辺だけの非本質的な情報に浮ついて、彼女を理解した気になっている放課後のクラスの皆を、僕は心底くだらないなと思ってから、斜に構えているくせに彼女に挨拶もできなかった自分の方がよほどくだらない存在だと思い直して、バツの悪さで逃げるように教室を後にした。

 

 校舎を出ると、相も変わらず世界は、どこもかしこもうんざりするほどのどかな春の空気に包まれていた。

 夕陽は、炭酸の抜けたソーダみたいに生ぬるく、鈍化した思考に春風で作られたピンク色の絨毯が映り込むと、その景色が僕に激しい憧憬を抱かせた。

 彼女のあの、触れば崩れ落ちてしまいそうな細い指を手に取ることができたらどんなに良かっただろう? あの深い湖の瞳が僕に注がれて、その中で僕だけが、僕一人だけが泳ぐことが出来たらどんなに良いだろう? あの細い身体を抱きしめて――。

 近くで鳴ったクラクションの音で僕はハッと我に返り、膨らみかけた空想の風船を針で突き刺した。

 望んでも仕方のないことは、望まない。

 心の内で、そう呟いた。

 それは、僕がよりよく生きるために考え付いた、最も効果的な思考方法の一つだった。それで僕は水筒のお茶を一気に飲み干してしまってから、帰路を急いだ。      


「ねえ、」

 家に着き、玄関に手を伸ばしたタイミングで、声がした。

「ねえ、まって」

 振り返ると、そこには彼女がいた。夕陽を浴びて、淡いオレンジ色に染まった彼女は、教室で見た時よりも生気を帯びて見えた。

「えっ、どうしたの?」

 僕はびっくりして、不審者のようにきょろきょろとしながら、辺りに僕と、彼女以外に誰もいないことを確かめながら言った。

 すると彼女は、いきなり僕の方にグッと向かってきて、その崩れ落ちそうなほど小さくて可愛らしい顔を、僕の耳元に近づけた。

 一瞬心臓が、世界の時間ごと止まってしまうかと思う程、キュッと締め付けられるのを感じた。それから彼女は、僕に動揺させる隙も与えずに、耳元で囁いた。

「ねえきみ、わたしのこと、好きでしょ? ……今から、デートしない?」

 確かに彼女はそう言った。

 確かにそう言ったが、その言葉の内容を咀嚼して理解するのに、僕は数秒を要した。

「……からかってるの?」

 しばらくしてから、僕は慎重になって答えた。不安と期待の入り混じった眼差しで、彼女のことを見つめていたかもしれない。しかし、天から細長く垂らされた蜘蛛の糸に縋るような思いが強く僕を突き動かして、無謀か勇気か、判別もつかない言葉をあとに続けさせた。

「デートって、どこにいくの?」

 それを聞くと、彼女は、にいっと笑った。その笑顔は天使でも人間でもなく、可愛らしく、しかしこの世の他のどんなものよりも恐ろしい、悪魔のようにも見えた。


「この近くに、大きな池のある公園、あるよね?」

 少しの間、思案する様子を見せてから、彼女は僕に確認を求めて聞いた。

「うん。桜野公園のことだよね。近くと言っても、すこし歩くけど……」

 僕は答える。

「そう、それ。わたし、そこに行ってみたいな」

 彼女は言った。

「いいけど、特に何もない場所だよ」

 その公園について、僕は実際にそう思っていたわけではないけど、そう返した。公園でのデートだなんて、僕には身が余ると思ったから。

 何かもっと、何も考えなくてもできる、受動的なデートの方が気楽だと。

「そんなことないわよ。わたし、写真で見たもの。美しい大きな池と、水面に反射する木々や建物の姿。いまなら、池のふちで桜の花びらが浮かんで、カモの親子たちが行進をする、そんな素敵な景色がみられるに違いないわ」

 彼女はもうほとんど決定事項のように、その公園に行こうとして、僕の腕を持ち、引っ張った。僕はなんだか段々と感覚がマヒしてきて、夢見心地になりながら、浮ついた足取りで彼女に引かれるままにしてついていった。


 夜の帳が下りてきて、辺りが少し薄暗くなる頃に、僕たちは公園に着いた。

 彼女は道中、ほとんど何も言わずに、僕の手を引いて歩いた。その手の温もりは、見かけよりもずっと暖かく、彼女が単なる人形ではないことを証明していた。

 けれど、僕に対して印象の異なる様々な面を覗かせた彼女の顔はいま隠れていて、そのうしろ姿は、彼女の存在がどこか不確かで朧気であるような錯覚を僕に抱かせた。この突飛で非現実的な状況も相まってのことかもしれないが、僕は彼女に対して、霧のように掴みどころのない違和感を感じ始めていた。

 

 公園の中を歩いていると、時折ひんやりとした風が吹き抜けて、僕は段々と、覚醒しながら夢を見るように、明晰な思考を手に入れつつあった。そうすると、彼女に対する幻想は打ち払われていく感じがして、鼓動は平静を取り戻していった。

 恋とは、それ自体が病的な状態であって、彼女の美しさは、誰しもにうだるような熱を罹患させるまばゆい毒のようなものであるのだろうと、僕は考えた。

 その毒に犯される人間は、少なくないだろう。実際、僕もその一人なのだから。

 けれど、彼女の温もりに触れて歩いているうちに、僕は徐々にその毒に対する抗体を獲得しつつあった。

 だから僕は、彼女のことを愛してはいないのだと思った。

 それは、今までの人生でそうであったのと同じことで、僕にとっては、あの教室の窓から眺める春の景色は、いつだって縁遠いものなのだ。

 きっと僕は、他の人と比べて、病気の治りが良すぎるという体質なのだろう。


 公園は、中心に大きな丸池が浮かんだ形になっていて、僕たちはその池を目指してまっすぐに歩いた。森の中のように木々の生い茂る道をしばらく歩くと、遠くの方に池が見えてきた。

 傍まで来ると、彼女の言っていたように、深緑色の池の、月光に照らされた水面は、月や木々や街の背の高い建物をゆらゆらと映し出し、鮮やかな桜いかだを浮かべ、カモの親子たちが静かな泳跡波を残すことで、うっとりとするような幻想的な景色を作り出していた。

 

 池のほとりには、小さなボロ木造小屋がひとつだけ建っている。その傍には

【貸ボート 1時間 500円】

 と書かれた、擦り切れた木の看板が一枚置かれてあり、水辺には桟橋が突き出していて、その両隣に十数隻の手漕ぎボートが留まっていた。

 すると彼女は急に立ち止まって、ボートの方を指差しながら言った。

「あれ、乗りたいな」

 それから彼女は、母親にお菓子をねだるようにして、僕の制服の袖をぐいと引っ張った。

「こんな夜遅くにやってるのかな」

 僕はそう言ったけれど、彼女はもう僕の手を離して小屋の方へと駆け出していた。それから、

「見て、まだ明かりがついてるよ。だから大丈夫。ちょっと待っててね」

 と言って、小屋の玄関をノックした。

 

 少しすると中からは、不機嫌そうな顔をした中年の、でっぷりと太った、いやらしい大男が出てきて、初めに彼女の顔を、次に少し離れた場所に突っ立っている僕の顔を一瞥してから、

「お嬢ちゃんら、なんのようだい」

 とぶっきらぼうに言った。

 すると彼女は、さっき僕にしたのと全く同じように、いきなり男の耳元まで顔を近づけると、彼に何か耳打ちをした。

 彼は一瞬だけ困惑する表情で彼女のことを見つめたが、すぐあとには下卑た薄ら笑いへと表情を変えた。

 それから、彼は一度自分の部屋の中へと消えていき、しばらくすると戻って来て、彼女に何かを手渡した。

 それを受け取ると彼女は振り向いてこちらに戻って来ながら、

「おまたせ。ボート、乗せてくれるって。この時間は、わたしたちだけの貸切よ。なんだかロマンチックじゃない?」

 と言って、自慢気に微笑んだ。


  彼女が受け取った鍵でボートの係留を外し、僕たちは二人で乗り合わせた。二人乗りのボートは少し窮屈で、ほとんどくっつくようにして膝を折り、向かい合う形で腰をかけた。

 彼女は固定されたオールを握ると、おもむろに漕ぎ出した。

 静寂に包まれた世界で、パシャパシャと音を立てる水の音だけが鳴り響く。

 しばらく漕ぐと、ちょうど池の真ん中の辺りまでやってきたようだった。彼女はそこで一度オールを手放して、僕のことを真っ直ぐに見つめた。

 その視線を直視すると、僕はまた身体が熱くなり、熱に浮かされそうな思いにもなったけれど、いまの彼女の澄んだ瞳の奥には、懇願するような、儚い苦しみが存在しているような気がして、どちらかと言えば、寂しい気持ちが湧き上がってきた。


「ねえ、」

 長い沈黙のあと、月光のヴェールに照らされた彼女は、静かに言った。

「わたしたち、このまま沈んでいかない?」

 それから彼女は、制服とブラウスを脱ぎ捨てて、上半身を露にした。

 彼女の滑らかな真っ白い肌には、まだらのように青黒い痣が点々としていた。それを見つめてから彼女は自嘲するように、

「美しさとは、それがあるだけで罪なのよ。でもね、誰かに愛されるためには、潔白ではいけないの。わたしは、罪人だから愛される。あなたがわたしのことを愛するのも、そのためでしょう?」

 と言った。

 そう言ってから彼女は、僕の手を掴んで取り、自分の胸の所まで持っていった。彼女の柔らかな乳房が僕の指先に押し当られ、その形を変えた。

 それから彼女はゆっくりと、僕に、口付けをした。

 彼女の湿った唇が僕の唇に触れて、僅かに潤いを与えた。

 僕は、ただされるがままになっていた。

「あはは、女の子とキスするのは、はじめて……。どう、あなたも初めてだった?」

 彼女はそう言うと、今度は僕の胸を掴んで、力強く揉んだ。

 一瞬、痛みと快感が同時に湧き上がり、混ざりあって激しい情欲となったが、すぐにそれは霧散するように消えてなくなってしまった。

 熱は醒めて、僕はまるでそこにいないような気持ちで、目の前の哀れな少女のことを想っていた。

 彼女は僕に抱きついて、もう一度、同じことを繰り返し言った。

「ねえ、わたしたち、このまま沈んでいかない?」

 

 僕は、抱きつく彼女の肩を両手で持ち、彼女の身体をゆっくりと離した。そして首を横に振って、

「ごめん。僕にはできそうにないよ」

 と言った。

 

 あのときの彼女の表情は、一瞬、ストンと絶望の底に落ちたように見えた。けれど、今思えばそれは僕のくだらない願望だったのかもしれない。

 僕に拒まれた彼女は、一言「いくじなし」とだけ言った。それからはもう彼女はほとんど無関心の様子で、僕たちはボートを降り、無言のまま別れを告げた。

 一夜限りのデートを終えてから、彼女が僕に心を開くことはなくなった。翌朝には彼女はまた無垢な作り笑顔をばら撒いていて、羊飼いのような面持ちで、群がる女子たちの相手をしていた。

 彼女は僕には顔も合わせようとせずに、空気と接するような扱いで僕に接した。しかしそれこそが、あのとき起こったことが僕の夢ではなくて、現実であったことを証明しているのも事実だった。

 

 一か月後には彼女は再び転校となり、春の嵐が過ぎ去るようにその姿を消した。クラスのみんなはしばらくの間そのことを嘆き悲しんでいたが、数か月もたてば全てを忘れた。

 彼女が今どこで何をしているかはわからないし、それを知りたいとも思わなかった。もしかしたら、またあんな風に誰かを熱で浮かして、いまはもうどこへも戻れない奥底へと、沈んでいったかもしれない。

 彼女にはきっと、ああした破滅的な志向があって、それはあの身体に刻まれた痣と何らかの関係があるのだろう。しかし、そのことであれこれ邪推をするのは、彼女に対する侮辱だ。僕は彼女とともに沈む覚悟も、責任も持てなかったのだから。

 けれど、そのことを後悔してはいない。

 恋とはきっと、ああいう風にして取り返しのつかないところまで二人沈んでいくことを言うのだろう。僕にはとても、出来そうもない。

 

 やっぱり僕には、恋は縁遠い。

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