歌舞伎町ホスト〜愛と金の饗宴〜

島原大知

本編

第1章


 ネオンが眩しい。歌舞伎町の夜はいつも、現実を歪めるようなピンクと青の光に包まれる。そのけばけばしい光の中で、俺は女たちを笑顔にする。ホストクラブ「ロイヤルブルー」のナンバーワンホスト、鈴木陽一。それが俺だ。

 スーツの袖口を覗く高級時計が、深夜の2時を指し示している。シャンパンタワーを作り、女たちとはしゃぐ。いつもの光景だ。目の前の客は、40代の女社長。ゴージャスな装飾が施されたドレスからこぼれそうな豊満な胸に、俺は甘い言葉を囁く。

「社長、今夜も美しいね。こんなに素敵な笑顔を見せてくれるのは、俺だけだろ?」

 慣れた口説き文句に、女社長は陶酔したように目を細める。濃厚な口紅を塗った唇が、意味ありげに動く。

「陽一くん、あなたのためならもっと美しくなれるわ」

 どれだけ嘘だと分かっていても、こんな言葉に弱い男はいない。俺も例外ではない。こうして女を口説き、金を稼ぐ。女と金に溺れる日々。歌舞伎町という街で、俺は王様になれる。


 笑い声が絶えないフロアを抜け、俺は一人、トイレに向かう。シャンパンの回りが早い。個室に入ろうとドアを開けた時、血の気が引いた。


 便器の前で倒れこむ女性の姿。若い女性客だ。手首を切り裂かれ、鮮血がタイルの床に滴る。


「おい、しっかりしろ! 救急車を呼べ!」


 我に返った俺は大声で叫ぶ。慌てて駆けつけてきた従業員が、震える手で救急車に電話する。

 俺はネクタイを解き、女性の傷口を強く縛った。意識のない女性の顔を見つめる。たぶん、20代半ば。可愛らしい顔立ちだ。どうしてこんなことを。

 サイレンの音が近づき、女性は運び出された。そのショッキングなピンク色の出来事に、現実がひび割れたような気分だった。


 事件からしばらくして、女性は一命を取り留めたと聞いた。安堵する反面、胸につかえるものがある。今まで、こんな世界に疑問を感じたことはなかった。金と女に溺れていれば幸せだと思っていた。けれど、今夜、俺の目の前で若い命が儚く散ろうとした。

 自分は一体、何のために生きているんだろう。


 マンションに戻った俺を出迎えたのは、恋人の美紗だった。珍しく、ご機嫌斜めな顔をしている。

「陽一、またこんな時間まで働いてたの? 家にほとんど帰ってこないじゃない」

 いつも優しい美紗が、こんな強い口調で言うのは珍しい。小さな体を背伸びさせ、俺を睨みつける。

「悪い、仕事が長引いてな。でも、俺は美紗のために稼いでるんだ。分かってくれよ」

 甘い言葉で誤魔化そうとする。けれど、美紗は唇を噛み、目を伏せた。

「ホストの仕事はもうやめて欲しい。私、あなたといつも一緒にいたいのに、あの街であなたが他の女の人に囲まれているなんて……考えただけで嫌になるの」

 涙ぐむ美紗に、俺は言葉を失う。この仕事を始めてから、美紗の不安は増す一方だ。ホストという仕事柄、女性との付き合いは避けられない。けれど美紗を困らせたくない。守ると誓ったあの日の気持ちは、嘘じゃない。

「美紗、分かった。もう少しだけ時間をくれ。必ず納得させるから」

 美紗を抱きしめ、その背中を撫でる。美紗の細い指が、俺のシャツを強く掴んだ。


 次の日も、世界は回り続ける。けばけばしいネオンが、昨夜の記憶を掻き消すように輝く。

 け

れど、トイレの個室で倒れていた女性の青ざめた顔が、脳裏から離れない。

 美紗との穏やかな暮らし。腕時計の針が、いつもより重たく感じる。

 俺はため息をつき、ドアを開ける。


「いらっしゃいませ、陽一くん。今日もキメキメだね!」


 笑顔を作り、客の女性へ近づく。

「はい、今夜も精一杯盛り上げさせていただきます!」

 いつものセリフ。いつもの空間。けれど、何かが確実に変わってしまった。

 金と女に溺れていた日々が、もはや楽園には見えない。甘い香水の匂いが、今はひどく鼻につく。

 俺は女たちと笑いながら、心の中でつぶやく。

 俺は、本当はこんな場所で夢を見ていたわけじゃない。


第2章


 翌日の昼下がり、俺は美紗と向かい合っていた。まぶしい日差しが差し込む公園のベンチ。木漏れ日が美紗の髪の毛を揺らす。

「美紗、昨日は言えなかったけど、俺、決めたんだ。ホストの仕事、辞める」

 美紗の瞳が驚きに見開かれる。そして、すぐに笑顔になった。

「本当に? やった! 待ってたの、この言葉。嬉しい……」

 俺の手を握りしめ、美紗は目に涙を浮かべる。この笑顔を守りたい。ただその一心で、俺は決意した。

「美紗と一緒に、歌舞伎町から抜け出そう。新しい人生、二人で始めるんだ」

 うなずく美紗に、俺はキスをした。甘い香りのする美紗の唇が、心地よい。


 その足で、俺は「ロイヤルブルー」へと向かった。


 店に入ると、いつもの賑やかな空気が広がっている。けれど、今日の俺の目的は違う。

 オーナーの速水に、辞める旨を伝えると、血走った目で睨みつけられた。ワイルドな風貌の速水は、ヤクザじみた雰囲気を漂わせている男だ。

「何だと? お前、うちの看板ホストだろうが。勝手なことほざくんじゃねえ!」

「すまねえ、速水さん。でも、俺、決めたんだ。ここから抜け出したいんです」

「甘ったれてんじゃねえよ。お前みたいなチンピラに、歌舞伎町以外に居場所なんかねえだろ」

 罵声を浴びせられても、俺は引かない。今までなら、この男の機嫌を取るために笑顔を作ったところだ。けれど、もう俺は速水の腰巾着ではいられない。

「ありがとうございました。でも、俺にはやりたいことがある。ここにしがみついている、あんたとは違う」

 俺の反抗的な態度に、速水は激怒した。そのとき、店のドアが開いた。


「あら、陽一。今日はお休みじゃなかったの?」


 派手な紫のドレスに身を包んだ、見慣れた女が入ってくる。40代の社長、宏美だ。俺の常連客の一人で、俺に執着している女として有名だった。

「社長、申し訳ありません。今日は用事があって……」

 俺が言い訳をしようとすると、宏美が不機嫌な顔で割って入った。

「浮気? ねえ、まさか浮気なんかしてないわよね?」

 嫉妬に狂った目つきで、宏美は俺の腕を掴む。まるで俺が所有物であるかのように。

「違います。俺はもう、ホストを辞めるんです」

「冗談じゃないわ! あんたは私のものなのよ。私以外の女なんかに、渡すもんですか!」

 ここまで執着されるとは、俺も想像していなかった。恐ろしいくらいの狂気を、宏美の目に見る。これが歌舞伎町の闇の深さなのか。

 助けを求めるように速水を見るが、速水は冷たく笑うだけだ。

「手を出したら承知しねえぞ、宏美。陽一は私の稼ぎ頭だ。お前の所有物なんかじゃない」

「うるさいわね。私はあの子と結婚するの。邪魔するなら承知しないわよ」

 次の瞬間、宏美のハンドバッグから、ナイフのような鋭いものが光った。

「うわっ! 何するんだよ!」

 驚いた俺は後ずさりをする。一瞬の隙をついて、宏美が俺に飛びかかってきた。


 その時、前代未聞の光景が広がった。宏美と速水が、俺を取り合って殴り合いを始めたのだ。

 ぐるぐると回る世界。割れるグラス。赤いシャンパンが床に飛び散る。罵り合う二人。俺は現実を疑った。

 悪夢のようなサイレンの音が、俺の意識を掻き乱す。


 次に気づいたとき、俺は警察署の取調室にいた。

「鈴木陽一さんですね。事情聴取にご協力ください」

 刑事が、冷たい眼差しでペンを構える。

「宏美さんは意識不明の重体です。速水さんは軽傷で済みました。当人同士のトラブルとみられますが……」

 マンション、クルマ、時計。この世界で築いた地位も名声も、一瞬で崩れ去った。

 束の間の夢から醒めたとき、俺は歌舞伎町の片隅で、打ちひしがれていた。ネオンの海に飲み込まれそうになる、小さな影。

 けれど、その一番暗い場所で、ぼんやりと光が見えた気がした。美紗の笑顔だ。


 俺はゆっくりと立ち上がる。

 ここから、抜け出さなければ。

 この地獄のような歓楽街から。

 新しい人生を、美紗と歩むために。


 不安と希望が交錯する。

 まるでピンクと青のネオンのように。


第3章


 釈放された俺は、真っ直ぐ美紗のもとへ向かった。マンションの一室で、美紗はソファに座り、じっと俺を待っている。

「陽一……大丈夫だった?」

 心配そうに立ち上がり、美紗が駆け寄ってくる。その瞳は既に涙で潤んでいた。

「ごめん、心配かけて。でも、もう大丈夫だ」

 美紗を抱きしめ、その細い肩を撫でる。守ると誓ったこの腕の中で、美紗の体が小さく震えていた。

「私、ずっと信じてた。陽一が絶対に戻ってくるって」

 その言葉に、俺の心が熱くなる。うまく言葉にできない感情が、胸の奥でぐるぐると渦巻いている。

「美紗、一緒に歌舞伎町から出よう。新しい人生、始めるんだ」

 もう一度、美紗にそう告げる。強く頷く美紗に、キスをした。


 ベッドの上で、美紗の裸身が月明かりに照らされている。シルクのシーツに横たわる美紗は、まるで絵画のようだ。

 触れ合う肌と肌。交わる吐息。美紗の熱を感じる。

「美紗、愛してる」

「陽一……私も」

 魂が震えるほどの快楽に包まれながら、俺は美紗との未来を夢見る。


 翌朝、さわやかな風が窓を揺らしていた。まるで、新しい人生の幕開けを告げるかのように。

 コーヒーを淹れ、朝食の支度をする美紗。その姿はさながら、新妻のようだ。幸せな気分に浸りながら、俺は新聞を開く。

 しかし、その一面の見出しに、俺は愕然とした。

「歌舞伎町のホストクラブで殺人事件。オーナー死亡、従業員に逮捕状」

 信じられない。昨日、俺と殴り合いをしていた速水が、殺されただって?

 さらに、その容疑者として、俺の名前が躍っている。

「速水氏は凶器とみられるナイフで刺殺されていた。警察は店の従業員、鈴木陽一容疑者の逮捕状を取った」

 俺は速水を刺していない。確かに殴り合いをしたが、それだけだ。事件があったとき、俺は留置所にいた。

 誰かが俺をハメようとしている。だが、誰が? そしてなぜ?

「陽一、どうしたの?」

 青ざめた俺の顔を見て、美紗が不安そうに聞く。俺は新聞を畳み、愛想笑いを作った。

「何でもない。ちょっと、外に行ってくるよ」

 美紗を心配させまいと、明るく振る舞う。だが、胸の奥では恐怖が渦巻いていた。


 外は雨だった。重たい鉛色の空が、不吉な予感をかき立てる。

 俺はあてもなく歩く。足取りは重い。視界がぼやける。

 雨に打たれながら、俺は自問する。

 俺は、本当にこの街から抜け出せるのだろうか。

 それとも、この歌舞伎町の闇に、永遠に囚われるのだろうか。


 ふと、視界の端に見慣れた紫のドレスが映った。俺は足を止める。

 宏美だ。意識が戻ったのか。だが、まだ衰弱しているようだ。管だらけの病院のベッドで、ぼんやりと窓の外を見つめている。

 俺はそっと病室に忍び込んだ。

「なぜ、俺をハメた」

 低い声で問いかける。驚いた宏美が、ゆっくりと俺に顔を向けた。

「陽一……あんたが、私を捨てようとしたから。許せなかったの」

 恨みを込めた眼差し。その奥底で、狂気がきらめく。

「俺を手に入れるために、速水を殺した、のか?」

「そう。邪魔者は消えてもらったの。これであんたは、私だけのものよ」

 おぞましいほどの執着。歪んだ愛情。俺は背筋が凍る思いだった。

「俺は、お前なんかに捕らわれない。必ず、この街から抜け出してみせる」

 俺は拳を握りしめ、宣言した。歯を食いしばる。


 雨が上がり、夕焼けが街を染める。赤とオレンジのグラデーションが、tokyo towerのシルエットを浮かび上がらせる。希望の光のように。

 俺は美紗の手を握り、駅へと向かう。

「陽一、本当に大丈夫なの?」

「ああ。宏美が一人で勝手にやったことだ。俺たちは関係ない」

 真実を知った美紗は、驚きと安堵の表情を浮かべる。

「これで、私たち自由になれるね」

 頷く美紗に、俺はかすかに微笑む。

 改札を抜け、ホームに佇む。

 電光掲示板が、地方都市の名前を明滅させる。

 東京を離れ、自然豊かな土地で新生活を始める。

 そう決めた矢先だった。


「鈴木陽一さん、あなたを殺人の容疑で逮捕します」


 背後から、警察官が俺の肩に手をかけた。

 信じられない。

 俺は何も、していないのに。


第4章


 冷たい取調室の椅子に座らされ、俺は現実を疑っていた。

「証拠はあるんですか? 俺は無実です」

 刑事は冷ややかな眼差しで書類を広げる。

「被害者の速水氏の爪から、あなたのDNAが検出されました。殴り合いをした際についたのでしょう。それに、あなたには動機もある。速水氏はあなたの辞職を認めなかった。店の売上のために、あなたを脅していた」

 俺は唇を噛む。確かに殴り合いはした。動機もあったかもしれない。だが、俺は殺していない。

「くそっ……俺は、やってない!」

 力まかせに机を叩く。だが、警官はまるで取り合わない。

「落ち着いてください。事件当時、あなたのアリバイは?」

「留置所にいました。あんたらが捕まえたんだろ」

「いえ、あなたが留置所を出たのは速水氏の死亡推定時刻の30分前です。十分に戻る時間はありました」

 まるで、全てが俺を犯人に仕立て上げるように進んでいく。このままでは、無実の罪で捕らわれてしまう。

 その時、差し込む夕日が俺の顔を照らした。ブラインドの隙間から覗く、眩しいオレンジ色。

 美紗との約束を思い出す。二人で歌舞伎町から抜け出し、新しい人生を始めるという約束。

 俺は歯を食いしばり、拳を握る。

「俺は……無実だ。必ず、真実を明らかにしてみせる」


 弁護士との面会。冷たい面会室に、かすかな希望の光。

「鈴木さん、あなたを信じています。必ず無実を証明しましょう」

 白髪混じりの好々爺が、優しい笑顔で語りかける。温かな言葉に、俺は涙が出そうになった。

「ありがとうございます。俺は、恋人との約束があるんです。無実を晴らして、新しい人生を始めたい」

「わかりました。私にできる限りのことをしましょう」

 そう言って弁護士は立ち上がり、俺の肩に手を置いた。力強い握手。俺は奮起する。


 法廷。重苦しい空気が室内を支配している。

 裁判官、検事、傍聴人。皆が俺を犯人だと決めつけているようだ。

 その中で、ただ一人だけ俺を信じる人がいる。美紗だ。

 彼女は前から二列目の席で、じっと俺を見つめている。その瞳には揺るぎない信頼が宿っている。

 俺は深呼吸をし、真っ直ぐ前を見据える。


 裁判は紆余曲折を経た。

 検察側の有力な証拠。不利な証言の数々。

 徐々に追い詰められていく俺。

 最後の証人尋問。その時、事件は思わぬ展開を見せた。


「私が……速水を殺したのよ」


 証言台に立った宏美が、涙を流しながら告白したのだ。

「どういうことです!?」

 裁判長が詰問する。傍聴席がざわめく。

「速水は私の恋人でした。でも、陽一のことが忘れられなくて……」

 すすり泣く宏美。その姿に哀れみすら覚える。

「陽一を手に入れるため、速水を消したかった。でも、陽一を犯人に仕立て上げるつもりはなかった……本当に、ごめんなさい」

 俺を見つめる、悲痛な眼差し。こんな結末を、誰が予想しただろう。


「無罪!」


 裁判長の言葉に、歓声が上がる。

 美紗が駆け寄り、俺を抱きしめる。

「信じてたよ、陽一。あなたが無実だって、ずっと信じてた」

 震える美紗を力強く抱きしめ返す。

「ありがとう、美紗。君がいてくれたから、頑張れたんだ」

 熱いキス。永遠の愛を誓う瞬間だった。


 外は雪が舞っていた。

 凍てつく寒さの中、美紗の手を握る。

 歌舞伎町のネオンは、もう遠くなっていた。

「陽一、私たちやっと自由になれたね」

「ああ。新しい人生、二人で歩んでいこう」

 キラキラと輝く雪の結晶。

 その一つ一つが、俺たちの新しい思い出になる。

 歌舞伎町で見た、醜く歪んだピンクと青。

 あの日の記憶は、雪に埋もれて消えていく。

 確かなぬくもりを感じながら、俺たちは歩み始めた。

 真っ白な雪道の上を、これから向かう未来へと。


第5章


 雪の降る北海道での新生活も半年が過ぎた。

 ある日の夕暮れ時、俺と美紗は湖畔を散歩していた。

 凍てつく冬の寒さの中、二人の手を繋ぐ。

 白銀の世界に、夕日だけがオレンジ色の光を投げかけている。

「ねえ、陽一。ここに来てから、私たちの人生変わったよね」

「ああ。歌舞伎町の喧騒が嘘みたいだ」

 穏やかな湖面を見つめながら、美紗が微笑む。

「あの頃は、明日が来ないんじゃないかって、いつも不安だった。でも、今は違う。あなたと一緒にいれば、どんな明日も乗り越えられる気がする」

 俺は美紗の肩を抱き寄せ、ぎゅっと力を込める。

「俺もだ。君といる時が、何より幸せなんだ」


 静かな時間が流れる。

 雪が、湖面に飛び込み、小さな波紋を作る。

 遠くの山並みは、もうすっかり夕闇に沈んでいた。


「そろそろ帰ろうか。寒いだろ?」

 美紗の頬に触れると、冷たい。

 俺はマフラーを外し、美紗に巻いてやる。

「ありがとう。あなたの温もり、嬉しい」

 甘えるような仕草で、美紗が俺に寄り添う。


 夜の帳が下りる頃、俺たちは家路についた。

 雪に覆われた道を、手を繋ぎながら歩く。

 街灯の光が、雪の結晶をキラキラと輝かせている。

 まるで、宝石を散りばめたみたいだ。


「ただいま」

「お帰り」


 家に着くと、美紗が玄関で出迎えてくれる。

 ストーブの温もりが、凍えた体を解きほぐしていく。

「美紗、熱いコーヒーある?」

「あるわよ。今淹れるから、ちょっと待ってて」

 リビングのソファに座り、テレビを点ける。

 ニュースが流れているが、あまり耳に入ってこない。

 どこか遠くを見るような、ぼんやりとした気分だ。


「はい、できたわよ」

 美紗がコーヒーを持ってくる。

 カップを手渡され、ふわりと甘い香りが鼻をくすぐる。

「いつもありがとう。美紗」

「そんな、私の方こそ。陽一と一緒にいられて、幸せよ」

 隣に座った美紗に、キスをする。

 唇が触れ合う瞬間、体中に電流が走るみたいだ。


 穏やかな時間が過ぎていく。

 二人で肩を寄せ合い、テレビを見る。

 何気ない日常の中にこそ、かけがえのない幸せがある。

 俺はそう実感していた。


 だが、その平和な日々は、唐突に終わりを告げた。


 ある日、俺が仕事から帰ると、家の中が妙に静まり返っていた。

「美紗? どこにいるんだ?」

 呼びかけても、返事がない。

 リビング、キッチン、寝室を探す。

 だが、美紗の姿はどこにもなかった。


「どういうことだ……」


 不安に襲われる。

 そこへ、玄関のチャイムが鳴った。


 ドアを開けると、そこには例の刑事が立っていた。

「鈴木陽一さん、あなたに事情を聞きたいことがあります」

「俺に? 一体何の話です?」

「あなたの恋人、小林美紗さんが失踪したとの届けが出ています」


 その言葉を聞いた瞬間、俺の世界が凍り付いた。

 美紗が、失踪?

 信じられない。

 昨日まで一緒にいたじゃないか。


「ちょっと待ってください。美紗が失踪だなんて、俺は何も……」

「家宅捜査をさせてもらいます。協力をお願いします」

 容赦なく家の中に入ってくる刑事。

 リビングのテーブルの上には、美紗の携帯電話が置かれていた。


「嘘だろ……美紗……」


 次の瞬間、俺は目を疑った。

 美紗の携帯電話の着信履歴。

 そこには、例の紫のドレスを着た女の名前があった。


 宏美……!


 まさか、美紗をさらったのは……。


 頭の中が真っ白になる。

 あれほど愛し合った美紗。

 もう二度と、失いたくなかった。


「美紗を……返してくれ……!」


 俺は雪の降る夜の街に飛び出していた。

 宏美を探し、美紗を取り戻すために。

 運命の歯車が、再び狂い始めたのだ。


 ネオンに照らされた歌舞伎町の片隅。

 そこに、紫のドレスを着た女が立っていた。

「宏美……! 美紗はどこだ!」

「ふふ、陽一。私に会いに来てくれたのね」

 悪魔のような笑みを浮かべる宏美。

 その瞳の奥には、狂気の炎が揺らめいている。


「美紗を返せ! 俺は……俺は美紗と幸せになりたいんだ!」

「幸せ? そんなものはない。私たちには似合わないのよ」

「何言ってやがる……俺は、変われたんだ。美紗のおかげで、新しい人生を……」

「だったら、その幸せ、私が壊してあげる」


 その時だった。

 宏美の背後に、美紗が倒れているのが見えた。

「美紗! 大丈夫か! しっかりしろ!」

 美紗の体を抱き起こす。

 だが、反応がない。

 脈は、もうなかった。


「うそだろ……美紗、目を開けてくれ……美紗!」


 絶叫する俺。

 世界から色が消えていくようだった。


「これで、私たちは終われる」

 宏美はつぶやき、ナイフを取り出した。


「さよなら。愛しているわ」


 ナイフが、俺の胸に突き刺さる。

 歌舞伎町のネオンだけが、俺たちを照らし続けていた。


 ピンクと青の光の中で、俺は最期を迎える。

 宏美もまた、俺に抱きついたまま、息絶えた。


 俺たちの悲劇は、こうして幕を閉じた。

 二度と訪れることのない、儚い夢の跡。

 雪は、すべてを優しく包み込んでいった。


 美紗、許してくれ。

 もう一度、君に会える日を夢見ながら。

 俺は、雪に溶けるように、消えていった。


 ネオンだけが、虚しく瞬き続けている。

 ピンクと青の光は、もう誰も照らすことはない。

 ただ、雪の中で、静かに輝き続けるだけ。

 永遠に。

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歌舞伎町ホスト〜愛と金の饗宴〜 島原大知 @SHIMAHARA_DAICHI

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