季節巡り

春狂い

 気づきを得たところで、それがこの先に生きる人生の価値観のうちに含まれることはない。その気づきというものは些細なものであり、些細なことでしかない故に、それ以上の意義が生まれることもない。そんなことを書き留めることに少しの迷いが生まれるものの、それでも言葉にしなければ落ち着かない気持ちがある。そういった精神性が私にはある。だから、私はそれを書き留める。

 私は春が嫌いだ。

 そんな、どうでもいい気づきを。


 私は二十余年の間、春という季節に向き合っていたらしい。いや、さらされていたという表現が適切だろうと思う。物心がつく前、物心がついた後だって、春という時期について考えたことはない。感受性に季節が彩られることはなく、そのまま存在する周囲の環境に踊らされ、自分で考えるままに生きていた、我儘な時があったから、きっとさらされていたという表現が正しいはずだ。

 今更、こんなことに気が付いたところで、遅すぎるということもなく、早すぎるということもない。やはりそれは些細なことであり、それ以上も以下もないだけの、ただの思考の一つである。それを考えるのは最早馬鹿らしいとも言うことができるかもしれない。でも、今日のような日にそんなことに時間を使うのも悪くはないと思ってしまった。

 それは、モザイクがかかったような抽象的な感覚として頭に浮かんだ気づきだった、考えだった。それに気づいた要因は特にはなく、日々を振り返るような、季節にすがる生き方を繰り返している故に思い浮かんだ事柄だった。それについての影響は、私がこれから春という季節を巡る度に、少々の嫌悪感を思い出す程度のことだろう。もしくは思い出すこともないのかもしれない。小さい事柄でしかないそれを振り返ることはないのかもしれない。生きづらさを覚えることもないのかもしれない。

 春が嫌いな友人はたくさんいる。昨今にありふれているものとして、花粉症が原因となって嫌悪に変わった人がいる。季節の風情だとか、そういったことには関係なく、ただそれを要因として嫌悪する人間がいる。私はそうではなかった。

 ただ、春という季節が、概念が嫌いなだけだった。それを書き留めるというのは、誇示に近いのかもしれない。誇示という表現は誤りでしかないが、それをこうして表現していることは、きっと正しくなるのだろう。

 私は春が嫌いだ。

 春は綺麗な季節である。そんな感受がはびこっていることに違和感を覚える。

 春という季節は始終が関わる。三月、四月と言えば卒業し、入学するものがいる。

 そんな季節だから、人は春が綺麗だという。そういった価値観を植え付けられている。

 先述の花粉症から春を嫌った人間だってそうだ。どれだけ春を嫌っても、根底では春の風物詩である桜を好んでいる。そういった声を見かけたことがある。自ら赴き、その景色を視界に、耳に、肺に感じさせた人間さえいる。だから、きっと春は綺麗なのだろう。

 入学、卒業のときに語られる祝辞では、人を歓迎する時期を春だと表現する。その成果を証明するように、咲き乱れた桜の葉を例えに出す。

 私はそんな春が嫌いだ。嫌いなのだ。嫌いになりたいのだ。

 今までは自然と受け止めていたことであり、それに気づくことなどなかったように思う。それを自然に受け止めることは、何一つおかしいことではなく、その価値観は他人と共有される。会話の流れ、言葉の運び、その視界に映る桃色の葉の彩、鼻腔をくすぐる花の香り、そういったものを人は共有する。

 きっと、それでいいのだろう。生きる上で不自由なことなど何一つなく、その感受性に身を浸すことができれば、私は幸せなままでいられたのだろう。

 でも、今はそれを受け入れることができなくなってしまった。

 それは他人でもなく、社会でもなく、ましてや世界が関連するものでもない。それはただの気づきであり、自分自身が要因ともいえるものでしかない。そう気持ちが切り替わってしまった。過去の自分は今の自分に殺されてしまった。私は今までの思想を殺すことにした。

 桜の話題が好きではなくなってしまった。

 夏に緑を彩る樹木を、桜色になるというだけで綺麗だというように表現する人間が嫌いになった。嫌いになりたくなった。景色はそこに、いつまでもそこに漂っているはずなのに、それを無視して、日常から切り取った一つのイレギュラーを季節感とするのが嫌だった。嫌になってしまった。いつだってそこにあるものを、特別にめかしているだけの存在に心を浮かせる人に嫌悪感を覚えた。覚えてしまった。

 ああ、綺麗なのだろう。文句はない。綺麗だろう、それは否定されるものではない。私もそうだと思っていたのだから、ひているすきなどない。だが、その感慨を、その感受についてを、普遍的であり、日常的であってほしいと願ってしまうのは独りよがりなのだろうか。

 夏に色づく緑の樹木についてはどうだろう。それを普通と認識して、特に着目しない価値観はどうなのだろう。それが赤色になれば視線を寄せるのはどうなのだろう。緑のことを忘れたように過ごすのはなぜなのだろう。冬に彩を失った剥げた姿に感受性を覚えないのはなぜなのだろう。そこに彩がないから、美しさがないからと言って、存在を忘れるように過ごす姿に悲しさを覚えてしまうのは、どうしてなのだろう。

 世界はいつだってそこにある。ただ、そこに存在している。その変化に感受性を覚えるのはいい。だが、普遍的な、変わらない姿に感慨を覚えないのは、どうしたって悲しいではないか。

 春だから、桜が咲いているから、三月だから、四月だから。

 限定される季節に、限定される彩に心を踊らされることを、踊らされてしまう人間がいることに、悲しさを覚えずにはいられないのだ。

 ここまでの考えはくだらないものだ。どうでもいいことでしかない。考えれば考えるほどに馬鹿らしいものでしかなく、自分が受け取るべき世界を狭めている自覚を覚える。

 でも、許せないじゃないか。毎日そこにあるはずのものを切り取るような、そんな理不尽なことが、許せなくても仕方がないじゃないか。

 だから、私は春が嫌いだ。

 桜は綺麗だが嫌いだ。肌をなぞる冷たくも温くもない半端に吹く風が嫌いだ。散った桜がアスファルトに乱れるのが嫌いだ。それを何も思うことなく踏みつける人が嫌いだ。抵抗なく踏みつける人間が嫌いだ。結局、この時期にあったことすべてを、綺麗で片づけて、感情をなかったことにするような、そんな季節の価値観が、世界観が嫌いだ。

 そんな狂ったような春が、私は嫌いだ。狂い咲く春のすべてを、私は嫌いになりたかった。

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