1-16.熊襲

 自らがスジン帝の後継者足らんとする高彦根たかひこね讒言ざんげんによって陥れられたトヨとスクネは、二人を慕い付き従う一族を連れて南に逃れ、高千穂の地に隠れ住んだ。


 そこに至るまでに紆余曲折はあったようだが、はやてと真菜はあらましだけ聞いて別の部屋へと移った。伽耶が生まれる前の話だとしても、この地に落ち延びざるを得なかった人々の無念さは察するに余りあることだけは間違いなかった。


 もちろん、颯と真菜が部屋を移動したのは怪我人である沙々羅をその部屋で休ませるためだ。


 二人は伽耶に改めて用意してもらった部屋に少ない荷物を移した後で、ぐったりと座り込む。部屋を出る前、颯は沙々羅から感謝の言葉を投げかけられたが、その言葉に値するようなことはしていないと思っていた。


「兄さん。大変だったね」

「大変だったのは沙々羅さんで、僕じゃない」


 颯は自身の不甲斐なさに嫌気が差す。自身を労わってくれている真菜へ返す言葉としては棘があることを颯は十分に承知していた。それでもそれを許してくれる妹に甘えてしまうほど、颯は無力感に苛まれていた。


 邪に憑りつかれているという薙が、今度は真菜に手を出すという保証はどこにもない。颯の伸ばした手が、床に置かれた天之尾羽張あめのおはばりの柄に触れた。


「剣を習おうかな……」


 付け焼刃で薙に敵うとは思っていないし、そもそも真剣で人と打ち合う覚悟もない。そのようなわかりきったことは他ならぬ颯自身が一番理解しているが、それでも何かが変わるのではないかと、颯は思った。






 数日後。颯は朝早くから彦五瀬に剣の手ほどきを受けていた。忙しい中の貴重な時間を費やしてまで彦五瀬自らが指南役となったのは、彼の申し出による。


 当初、颯は誰か剣を教えてくれる人を紹介してほしいと願い出たのだが、神剣の使い手にはそれにふさわしい師が必要だというのが彦五瀬の言い分だった。


「申し上げます!」


 真菜や伽耶、沙々羅らの見守る中、颯が彦五瀬にならって素振りをしていると、一人の兵士が駆け込んできた。兵士はチラリと颯に目を向けるが、彦五瀬に促されてその場で報告内容を告げた。


「颯、すまぬ。朝の鍛錬はここまでだ」

「は、はいっ!」


 彦五瀬が兵士に労いの声をかけてから執務室へと足を向ける。颯爽と去り行く偉丈夫の背中を、颯は呆然と見送った。


「兄さん……」


 近寄ってきた真菜が不安げな顔をしていた。


「颯様、真菜様。ご安心ください。熊襲くまそがこの宮まで攻め寄せることは決してありません」


 かつては高千穂に落ち延びてきた一族が積極的に攻勢に出なかったこともあり優位に立っていた熊襲だが、薙が支配者となってからは負け戦を重ね、近年は殊更高千穂の地を取り戻そうとはしていなかった。散発的な遭遇戦はあれど、本格的な戦には至っていない。それが最近の両者の関係だった。


 薙は熊襲を殲滅すべきだと常々主張していたものの、彦五瀬が何とか押しとどめていたのだ。


 しかし、先ほどの兵士の報によれば、熊襲の方から高千穂の地に侵攻してきたという。


 現代日本で生きてきた颯にとって遠い世界の出来事だった“戦争”というものが身近にあることは、とても恐ろしいことだった。勝っても負けても、人が死ぬ。


 それに、伽耶は心配いらないと言っているが、もし先陣に立つという彦五瀬が戦で亡くなってしまったら、薙の君臨する高千穂で頼れる後ろ盾を失うことになるのだ。そうでなくとも、これまで良くしてくれた彦五瀬が死んでしまったら悲しくないわけがない。


 けれど、颯にできることは何もなかった。その事実が、颯に更なる無力感を与える。


 強くなりたい。颯はそう思って再び素振りを始めた。


 真菜と伽耶、そして沙々羅が、それぞれの思いを抱いて颯を見つめていた。


 そして、幸運にも颯の心配が杞憂に終わった翌日。颯と真菜、沙々羅の三人が呼び出されて尋ねると、そこには難しい顔をした彦五瀬と思金おもいのかねがいた。




「三人とも、五十鈴媛という名に覚えはないか」


 颯は真菜と顔を見合わせる。真菜が一瞬だけ眉を顰めていたのが気にはなったが、颯は視線を彦五瀬に戻して首を横に振った。聞き覚えのない名だった。


 数日に及ぶ熊襲との戦闘に勝利して高千穂宮に帰還したばかりの彦五瀬が女性と思しき人の名を挙げることに、嫌な予感がした。颯の脳裏に数日前の惨劇の中の沙々羅の姿が浮かんでいた。


「彦五瀬命。遠く高佐士野たかさじのの地にそのような名の姫がおられると噂に聞いたことがあります」


 神妙な顔で沙々羅が口を開いた。聞いたことのない地名に颯が首を捻っていると、沙々羅は出雲に属する地だと補足する。東のヤマトに属する勢力の有力者だということだが、ヤマトの都で暮らしていた沙々羅が知っていたのは、五十鈴媛もまた破邪の秘術の一端を修めているからだった。


「やはりそうか……」

「あ、あの、五瀬さん。その人がどうかしたんですか?」

「どうやら熊襲は、霧島の地に突如降り立ち、鬼を払う力を持つ五十鈴媛を神の使いと崇めていたようなのだが、その彼女を薙の手の者が攫ったというのだ」


 撤退する熊襲の追撃に向かった薙と別れた彦五瀬は降伏した兵から情報収集をした結果、そのことを知ったという。今のところ、その話が事実である証拠はない。しかし、五十鈴媛の奪還が今回の熊襲の襲撃を招いたというのであれば、捨て置くことはできないと彦五瀬は語る。


 熊襲の兵士によれば、五十鈴媛の下で熊襲は高千穂の一族と融和の道を選ぶ方向でまとまりかけていたというのだから余計だ。


「薙が邪に憑りつかれているという話もある。私はこれから薙の館に向かう」

「私も共に参ります」

「うむ。頼む」


 大きく頷く彦五瀬を眺めていると、沙々羅がおもむろに颯に顔を向けた。


「颯様。共に来てはいただけませんか?」

「え。僕が、ですか……?」

「はい」


 真っ直ぐな瞳の沙々羅を、颯は呆然と見つめる。颯は顔を伏せ、暫し悩む。自分にできることなど何もないように思えた。しかし。


「わ、わかりました」


 顔を上げた颯は震える心を奮い立たせ、了承の言葉を絞り出した。

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