1-8.文化

「やったー。伽耶ちゃん、よろしくね!」


 真菜は伽耶に右手を差し出す。伽耶は真菜の手を見つめ、首を傾げた。


「あ、もしかして、まだ握手の文化がないとか?」


 はやては伽耶の前にしゃがみ、目線を揃える。


「伽耶ちゃん、手貸してみて」


 颯が言うと、伽耶は不思議そうに目をぱちぱちと瞬きさせた。伽耶の手を取り、真菜の手に導く。伽耶は真菜にされるように、自分の手にそっと力を込めた。


「これが握手って言って、僕らのだ――土地の挨拶なんだ」


 伽耶が目を丸くしていた。彦五瀬命と思金が興味深そうに眺めている。


「伽耶ちゃん、よろしく!」

「よろしくお願いします」


 真菜がぶんぶんと腕を上下させると、伽耶は顔を綻ばせていた。姉妹にも見える二人の光景を、颯は微笑ましく思う。


「じゃあ次は僕と」


 そう言って颯は伽耶の前に手を伸ばす。伽耶は、今度は戸惑うことなく颯の手を取り、ゆっくりと上下に振った。颯は自然と頬が緩むのを感じた。


「伽耶ちゃん、よろしくね!」

「よろしくお願いします」


 見つめる澄んだ瞳に、颯は吸い込まれそうになった。


「伽耶、挨拶も済んだことだし、二人を湯殿に案内なさい」

「はい」

「颯、真菜。しっかりと汚れを落としてくるといい。着替えはこちらで用意させよう」


 言われて自分の体を見下ろす。颯は自身の全身が汚れていたのをすっかり忘れていた。特にジーンズには泥がこびり付き、見れたものではなかった。意識すると、素足に伝わる固まった泥の感触が気持ち悪かった。






「伽耶ちゃんって、いくつ?」


 とてとてと歩く伽耶の後に続いていると、真菜が尋ねた。伽耶が、くるっと振り返り、真菜を見上げた。


「今年で、九歳になります」

「兄さん、聞いた? 九歳だって九歳。一桁だよ! かっわいい~」


 真菜は瞳をきらきらと輝かせながら伽耶に抱きつく。両腕でぎゅっと包み込み、頬ずりを始めた。


「すべすべー」

「真菜様、くすぐったいです」


 伽耶が顔を僅かに紅潮させながら、体をもじもじとよじる。


「あー、やっぱり伽耶ちゃんはかわいいなぁ」


 真菜は伽耶を解放すると、満足げに微笑んだ。


「真菜様、颯様、こちらにございます」


 照れているのか、伽耶が伏し目がちに言った。


 木造の回廊を進む。靴下越しに、ひんやりとした木を感じた。辺りにはすっかりと夜の帳が落ち、天から注がれる優しい光が颯の足元に影を落としていた。颯は足を止めて夜空を見上げる。空気が澄んでいた。星々が天に散りばめられた宝石のように輝き、その中心で一際大きな月が仄かな光を放っている。僅かに欠けた月。満月を過ぎ、欠け行くしかない月。


 美しいと思った。


「十六夜の月を眺めると、お母様を思い出します」


 ふと気が付くと、伽耶がすぐ隣で同じように月を見上げていた。黒真珠を思わせる澄んだ瞳が、僅かに潤んでいるようにも見えた。深みを感じた。同年代の現代人には到底持ち得ない色だと颯は思った。隣に立つ九歳の小さな女の子がとても大人びて見えた。


 伽耶の言葉から察するに、おそらく伽耶には母親がいないのだろう。病気か事故、それとも何か理不尽な出来事が伽耶から母親を奪ったのかもしれない。両親共に健在の颯には、何と声をかけていいのかわからなかった。


「あ、申し訳ありません」


 颯の視線に気付き、伽耶は深々と頭を下げた。


「もうすぐそこです」


 伽耶は、ばつが悪そうにはにかむと、颯に背を向けて歩き出した。颯は遠ざかる小さな背中を眺めた。


 ふと、自身の両親のことが気にかかり、颯は僅かに顔を伏せる。今頃心配しているに違いないと思った。だが、今の颯にはどうすることもできなかった。現代の高千穂ならともかく、過去の、それも1500年以上も昔では成す術がなかった。颯が顔を上げて前を向くと、真菜が伽耶にじゃれ付いていた。


「母さん、父さん、真菜を連れて必ず帰るから、それまで待ってて」


 呟いた言葉が、澄んだ空気に吸い込まれるかのように消えていった。






「ここです」


 伽耶が木の戸をゆっくりと引いた。その先に四畳ほどの木張りの小部屋があり、その奥に、大小様々な岩で囲まれた半径五メートル程の円状の池が覗いでいた。池からは朦々と湯気が立ち昇り、微風が鼻を突く硫黄の匂いを運んできた。


「わぁ……。もしかして、温泉? 露天風呂!?」


 真菜が歓喜の声を上げる。


「五瀬様の温泉は高千穂でも有数の名湯と言われているのです」


 伽耶が自慢げに胸を張った。


「今日一日とんでもないことばかりだったけど、最後にいいことがあったね。兄さん」

「そう……かなぁ?」


 決して温泉が嫌いなわけではない。颯も真菜同様に嬉しかった。だが、諸手を挙げて喜ぶには、この一日の出来事はあまりに大きすぎた。


「颯様は、温泉はご嫌いですか?」

「とんでもない。むしろ、大好きだよ」


 颯を見上げる円らな瞳が、ぱーっと輝く。


「それは良かったです。では、さっそく」


 そう言うなり、伽耶は背伸びをして真菜の肩に手を伸ばした。真菜は不思議に思いながらも腰を落とす。伽耶の小さな手がキャミソールの肩紐を掴んだ。


「ちょ、ちょっと伽耶ちゃん!?」


 伽耶が何をしようとしているのか気付いた真菜は待ったをかけようとするが、無常にも黄色く細い紐が、はらりと腕を伝った。もともと露出の多かった肩口が更に露となり、胸元から、ちらりと白いものが覗いた。


「わぁああ!」


 真菜が両手で自らの身体を抱きかかえるようにしゃがみ込み、颯に背を向ける。


「兄さん、見た?」


 真菜は肩紐をかけ直すと、ゆっくりと立ち上がった。頬にうっすらと朱が射していた。


「み、見てない見てない」

「ほんとに?」


 真菜の細められた瞳が颯を見上げた。


「本当本当。白いのが少し見えただけ」


 颯がそう言うと、真菜の瞳が、かっと見開かれ、大きな瞳を殊更に強調した。


「に・い・さ・ん!」

「ご、ごめん」

「まったく……」


 真菜が怒らせた肩を脱力させ、溜息をついた。颯は理不尽だと思った。見たくて見たわけではない。これはちょっとした事故なのだ。そう思ってはいたが、言い訳のようで口には出せなかった。代わりに出たのは謝罪の言葉。真菜の下着を垣間見てしまったのは確かなのだ。こういう場合、男の立場は著しく低い。


「まぁ、兄さんなら見られてもいいんだけど……」


 頬を膨らませる真菜の口からそんな言葉が零れた気がした。


「あの……」


 伽耶がきょとんとして二人を見上げている。


「あ、伽耶ちゃん、気にしないで。たぶんこれも文化の違いだからさ」

「……文化?」


 颯が目線を合わせると、伽耶はまじまじと見つめてきた。


「うん。僕たちの土地では兄妹で一緒にお風呂入ったりしないんだよ」

「そうなのですか」


 伽耶が目を丸くする。いつの時代でも他の文化との触れ合いには驚きが付き物だと颯は思った。


「そういうわけだからさ、僕と真菜、別々でもいいかな?」

「わかりました」


 颯は伽耶に笑みが戻ったのを確認し、立ち上がる。


「真菜、先に入る?」

「んー……兄さんが先でいいよ。兄さんの方が汚れてるしね」


 そう言う真菜の視線が颯のジーンズに向いていた。


「では、真菜様は先にお部屋に案内しますね」

「よろしくー」


 微笑む伽耶の表情が、一瞬、ハッとしたものになった。


「あ……。お部屋はご一緒で構わないでしょうか?」

「うーん……。どうする真菜? 一緒でいいよね?」

「そうだね。あまり迷惑かけるのもあれだし」


 二人は頷き合い、伽耶に微笑みかけた。


「わかりました。それでは真菜様、こちらへ」

「はーい」


 二人が出て行くのを確認し、颯はTシャツに手をかける。脱いだ衣服をどこに置くべきか勝手がわからず、小部屋の隅に固めておくことにした。


 立ち込める湯気と温泉特有の匂いに導かれ、颯は浴場へと一歩を踏み出した。

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