1-7.縁者

はやて


 彦五瀬に呼ばれ、颯は顔を向けた。


「我が一族は日の神の末裔。颯と真菜が日の神に縁の者だとするならば、二人は我が親族ということになる。私は二人を一族の者として優遇しよう。気の済むまで滞在するがいい」

「あ、ありがとうございます……。でも、僕には自分が日の神に関係しているとは思えません」


 過去と思しき地に飛ばされるなど、科学では説明できない神がかり的な力の影響は疑ってしかるべきだとは思うが、毎日の日常を何となく生きてきただけの自分が、特別な人間であるとは思えなかった。もし神が実在したとして、自分に何か影響を及ぼしたのであるならば、それはきっとただの気まぐれに違いない。


「それは颯が気にすることではない。私がそう思ったからそうするまでだ」


 彦五瀬はどこまでも真摯な眼差しをしていた。この人なら信じていいと颯は思った。


「あ、あの彦五瀬命さん」


 ここがどこであるのか、はっきりさせないといけない。颯は、それが事態の究明と現実世界に戻る方法を探すのに欠かせないことだと思った。


「五瀬で良い」

「え?」

「五瀬で良い。親しい者は皆そう呼ぶ」

「あ、はい。五瀬さん、ちょっとお聞きしたいことがあるのですが……」


 彦五瀬が満足げに首を縦に振る。


「遠慮せず、存分に言ってくれ。この思金おもいのかねは高千穂随一の知識人だからな。大概のことには答えられると思うぞ」


 彦五瀬は穏やかな笑みを浮かべながら思金に目を遣った。


「恐縮でございます」


 思金が柔らかに微笑む。彦五瀬の言葉からは思金に対する信頼がありありと感じられた。親と子ほどにも年齢の離れた二人の絆は、見ている側まで心が温まると思った。そして、颯は聞き覚えのある地名を聞いた。


「今、高千穂って!」


 叫ぶ颯に、彦五瀬は首を傾げる。


「ここは確かに高千穂だが、それがどうかしたか?」


 颯の脳裏に、かつて訪れたことのある高千穂の風景が浮かんだ。高千穂峡の澄んだ川に流れ落ちる真名井まないの滝、いくつもの小さな石が積み上げられた天安河原あまのやすかわら宮司ぐうじさんに説明を受けながら崖の向こうに見たざっくりと口を開けた大きな洞穴を思い出した。


「真菜! ここ、高千穂だって!」


 手がかりが生まれ、颯は喜び勇んで真菜を見た。


「あれ、兄さん、気付いてなかったの?」

「……え?」


 真菜のあまりの感動のなさに拍子抜けしてしまう。


「だって、さっき思金さんが、私たちがいたのが天岩戸あまのいわとだって言ってたじゃない。家族で高千穂に行ったときに、崖を挟んで説明受けたでしょ?」


 確かにそれは覚えていた。木々が生い茂り、永年の風化に晒され原形をとどめていなかった洞窟。禁足の地とされたがために、保存のための補強作業が行われなかったと案内役の宮司が話していた。


「あ、あれが天岩戸だったのか……。というか、気付いたなら教えてくれよ!」


 颯は真菜に恨みがましい視線を投げかける。


「えー。もう気付いてると思ってたし。だいたい、五瀬さんがいる時点で高千穂である可能性を疑ってしかるべきだし」


 真菜は颯の視線を軽く受け流し、まったく悪びれることなく言った。緊迫感が感じられなかった。颯はこれが女性の適応力というものなのかと思い悩む。彦五瀬が不思議そうにこちらを見ていた。


「真菜は私を知っているのか?」


 当然の疑問だった。


「はい。もちろんですよ。有名人ですし」


 そう話す真菜の瞳は、憧れのアイドルと初めて対面した追っかけのようにキラキラと輝いていた。彦五瀬は頬を緩ませた。


「それは光栄だな。聞いたこともないような遥か遠くの地まで我が名が届いているとは」


 真菜と彦五瀬が見つめ合って微笑む。


「それで、颯殿。尋ねたいことと言うのは?」

「あ、いえ、もう大丈夫です」


 颯は僅かに視線を床に向けた。高千穂が存在するのならば、海を渡り、陸を突っ切れば、ここより遥か東の地に必ず三輪山はあるはずだ。真菜の話を信じるならば、ここはやはり過去の日本ということになる。思考を巡らし、未来に戻る方法を考えるが、颯の脳のデータベースにそのような情報は存在しなかった。三輪山だけが手がかりに思えた。


「さぁ、二人とも今日はいろいろあって疲れただろう。ゆっくり休んで、詳しい話は明日することとしよう」


 彦五瀬がそう切り上げる。常時張り詰めていた緊張が途切れ、疲労感が一気に押し寄せてくるのを感じた。ふと視線を感じたような気がして、颯は入口の方を向いた。


 見ると、部屋の入口に、あどけなさの残るいたいけな少女が、照れくさそうに柱から顔だけを覗かせてこちらの様子を窺っていた。少女は颯と目が合うと、慌てて顔を引っ込めた。


伽耶かや、来たか。入っておいで」


 颯の視線に気付いた彦五瀬が少女に手招きする。伽耶と呼ばれた少女はもじもじと胸の前で両手の指を突き合わせ、はにかんだ笑みを浮かべた。


「失礼……します」


 初々しさを残したかわいらしい声が響いた。伽耶は緊張した足取りで、颯の横に並ぶ。彦五瀬が自分の娘に接するかのように表情を崩した。


「伽耶」

「はい」


 伽耶は体を横に向け、颯と真菜に向き直る。伽耶は頬をほんのりと紅潮させていた。さらさらとした細い髪が風に揺れる。


「思金が孫、伽耶と申します。以後お見知りおきください」


 伽耶が、ぺこりと頭を下げた。颯はその小さな頭を撫で回したい衝動に駆られた。思わず伸びそうになる手を何とか押しとどめる。


「天野颯です」

「妹の真菜です。よろしくね」


 伽耶は颯と真菜を交互に眺め、小さく頷いた。


「颯様と真菜様……ですね」


 微笑む伽耶を愛らしく思った。男には小さくかわいらしいものを愛でる本能が備わっているのだと颯は思った。


「兄さん、聞いた? 真菜様だって! 伽耶ちゃんかわいいー」

「おい、真菜。落ち着けって」


 伽耶に抱きつかんばかりの勢いを見せる真菜の襟首を掴んで引っぺがす。


「うぅ……」


 真菜は上目遣いで抗議するが、颯は取り合わない。その様子を伽耶が微笑を浮かべて眺めていた。


「それで、だ」


 颯と真菜、伽耶が揃って彦五瀬の方を向いた。


「伽耶を二人の世話役に任じようと思う。伽耶、良いね」

「かしこまりました」


 伽耶は幼い容姿に似合わず、恭しく頭を垂れた。彦五瀬が穏やかな笑みを湛えていた。

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